みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

そばに置くために

2018年05月31日 | マルコの福音書

マルコの福音書 3章13−19節

 5月もきょうが最後の日。いろいろな人と話をし、いろいろなところに行き、いろいろなものを食べ…と振り返っています。日本では5月は上旬に祝日がまとまっていますが、今年の当地は祝日がちりばめられている感じです。ちなみにきょうは祝日。Fronleichnam(聖体拝受の日、聖体祭)というカトリックの祭日です。

 この箇所には、イエスが十人の弟子たちを任命することが書かれています。「じゅうにでしのうた」という子どもの讃美歌を歌って、十二人の名前を覚えることができたっけ、と思い出します。13節に「ご自分が望む者たちを呼び寄せられる」とあります。

 イエスが弟子として任命するためにお呼びになったのは、今で言えばエリートと呼ばれるような人々ではありませんでした。すでに、マルコの福音書にはシモン(ペテロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人の漁師に、取税人レビ(マタイ)にお声をかけたことが出ています。それに加えて、ピリポ、バルトロマイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、ユダが選ばれました。

 よく言えば個性的、別の見方をすれば雑多な人々とでも言うのでしょうか。それが「ご自分が望む者たち」でした。もしも、何かの事業を始めて人材が必要だとしたら、私たちはどのような人を望むか、選ぶか、イエスのお考えとはかなり違うのかもしれないとも考えます。

 彼らは、使徒と呼ばれます。このことばには、遣わされた者という意味があります。彼らは宣教のために遣わされるのです。そのためには、イエスのそばに置かれて訓練を受ける必要がありました。

 大相撲名古屋場所で好成績を上げた栃ノ心は、ついに大関に昇進することとなりました。伝達式の折りに本人が述べる口上(こうじょう)は「親方の教えを守り、力士の手本となるように、稽古に精進します」でした。ここに、弟子としてのありがたが込められているように思います。「主イエスの教えを守り、信者の手本となるように、信仰の生活に励みます」と…。


眼差しと沈黙、そして怒り

2018年05月30日 | マルコの福音書

マルコの福音書 3章1−12節

 「目は口ほどに物を言う」と言われます。眼差しで人を恐れさせたり、安心させたりすることもあります。聖書を読むと、いろいろな眼差しがあることに気づきます。

 安息日の会堂で、イエスを「じっと見て」いる人々の眼差しとはどのようなものなのでしょうか。あら探しのための凝視(ぎょうし)とでも言うのでしょうか。イエスのことばや行動に訴えの口実をつかむための眼差しです。このように見られていると、少なからぬ人が予定の行動を変えてしまうかもしれません。

 しかし、イエスはひるむことはありません。片手の萎えた人をみんなが見ている中で真ん中に立たせられます。見えないようにこっそりと…ということではありません。

 イエスはご自分への厳しい眼差しを向け続ける人々に向けて逆に問いかけられます。答えは明白。けれども、「彼らは黙っていた」のです。沈黙にもいろいろなものがあります。難しい話を聞いて、何か質問はありますかと問われての沈黙。絶対に答えまい! との沈黙…。ここでの沈黙とはどのようなものでしょうか。

 イエスは彼らの心の頑(かたく)なさに怒り、嘆かれます。自分への誰かからの眼差しがどのようなものか、なにゆえに答えずに沈黙をするのかについて教え諭してくださるお方がおられることを、心からありがたいと思います。


喜びの時に

2018年05月29日 | マルコの福音書

マルコの福音書 2章18-28節

 日曜日に450キロのドライブをして当地に戻り、礼拝をともにすることができました。しかし、そこはやはり歳を重ねた者。礼拝を終えて帰宅すると疲れが…。月曜日はいつものウォーキングもでき、ゆったりと過ごすことができました。西日本は梅雨入りと報じられています。当地は夏の陽気でした。

 「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と人々がイエスに尋ねました。その前の箇所には、イエスが取税人レビ(マタイ)の家で、弟子たち、そして大勢の取税人や罪人たちと食事をしている様子が書かれています。

 熱心に神の道を歩もうとしてしているバプテスマのヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしている、しかし、ナザレ出身の新しいラビ(教師)の弟子たちはそんなことはお構いなしであるかのように、食べたり飲んだりしているのです。しかも、宗教家たちからみたら眉をひそめてしまうように人々と…。おそらく、遠くで眺めていた人々の目には、その食卓は実に楽しそうに見えたのではなかったでしょうか。

 なぜ断食をしないのかとの問いに、イエスは結婚式の例を挙げて答えます。こんなにも大きな喜びの時に、なぜ断食などできるだろうか。今はまさにそのような時なのだからと言うのです。

 断食を巡るやりとりを読んで、少しピントがずれているかもしれませんが、「バベットの晩餐会」という映画を思いました。心を閉ざしていた人々が、料理の美味しさに心をほぐし、打ち解け合うというストーリーの作品。美味しいと言ってはならない、美味しさに喜んではならないという掟のようなものが溶けていくようでした。

 イエスが一緒に席についておられるというのが、イエスを信じる者の食卓です。こんなにも喜ばしいことはありません。そのために、もう一つの椅子が必要ですね。


必要を知るイエス

2018年05月28日 | マルコの福音書

マルコの福音書 2章1−17節

 スイスでの週末、土曜日午後には宿泊先の近くにあるHochalp(ホッホアルプ)というところに登りました。しばらくぶりの山登りで息が上がって大変なところもありましたが、無事に登頂。頂にある小さなお店でコーヒーが飲めるというのを楽しみにしていましたが、閉じていました。残念!

 ここにはまず、四人の人に中風の人が運ばれて来て、屋根からつり降ろされるという印象的な出来事が書かれています。どこの家なのかはわかりませんが、その家で主イエスは、戸口のところまで隙間もないほどに集まった人々に、みことばを話しておられました。イエスはここでも、ご自分が福音を伝えるために出て来たとおっしゃったことを行っておられたのです。

 主イエスは運んで来た四人の信仰を見て、中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われました。なぜこの人に、最初に「起きて、寝床をたたんで歩け」とおっしゃらなかったのだろうかと、考えてみました。

 主イエスのおことばには、私たちのそれとは違って無駄や意味のないものはありません。ですから、主イエスはこの時この人にもっともふさわしいことばを、まずおかけになったのです。彼は中風のために自分では身体を動かすことができませんでした。もちろん彼は、動けるようになることを願っていたことでしょう。けれども主イエスは、この人がもっとも必要とすることばを届けてくださったのです。

 このことばこそ、すべての人が必要とするもの…。


権威ある教え

2018年05月26日 | マルコの福音書

マルコの福音書 1章21−34節

 スイスのサンクト・ガレンという町でに、ズンドという方の「エマオ途上」という作品が収蔵されている美術館を訪ねました。けれども、その絵は今収蔵室にあって展示されていないとのこと。残念でした。けれども、修道院図書館と教会を再訪できました。説明には、この修道院がアイルランドからの宣教師によって始められたとあります。ケースの中には写本が陳列されています。写本からは、手書きで作り上げる熱意の大きさが伝わってきます。

 きょうの箇所の出来事は、安息日一日に起こったことが書いてあります。教え・いやし・悪霊追放をイエスは一日で行われたのです。

 そして、イエスの一日のキーワードを挙げるとしたら、「権威」でしょうか。ここには、イエスがこの日、カペナウムの会堂で教えられたことの中身は書かれてはいません。しかし、律法学者の権威と著しく異なることが強調されているのです。当時、律法学者は過去の教師の後ろ盾にして自分の解釈が正当であることを立証しましたた。しかし、イエスはそのようなことをなさらない。ご自分がトーラー(律法)をお与えになったお方だからである。

 そして、イエスの教えの権威を証ししたのが、汚れた霊につかれた人から霊を追い出したことでした。人々は、そこにイエスの教えの権威を見たのです。

 シモンのしゅうとめは、病を癒されたあとでイエスをもてなしました。言い尽くせない感謝をこのようなことで表したのです。私は何をもってイエスへの感謝を表せばよいのでしょうか。


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