みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

新しい歌を

2017年12月30日 | 詩篇

詩篇 149篇

 きょうの「みことばの光」は、本篇について「捕囚から帰還したイスラエルの民の信仰を喚起するための、民族的色彩の濃い詩篇」と書いています。「ネヘミヤ時代の歌」とする解説もあります。

 神を賛美し願い求めることと、人がその時どこにいてどのような状態にあり何をしているのかということはつながっています。この詩篇がいつ、どのようなときに、どのような人によって詠まれたのだろうかと想像しながら、私たちもまた、置かれた環境に照らしながら味わっているのです。

 「彼らの口には 神への称賛があり 彼らのには 両刃の剣があるように」(6節)の欄外注(聖書新改訳2017)にあるネヘミヤ4章17節には「その日以来、私の配下の若い者の半分は工事を続け、もう半分は、槍、盾、弓、よろいで身を固めた…」とあります。ネヘミヤの頃、人々は片手に武器を持ち、片手で城壁の修復を行っったのです。

 口に神への賛美、手には生き抜くための何かを持つとは、時代や場所を超えて主を頼みとする「敬虔な人々」(聖徒たち)の姿です。彼らは口に日々「新しい歌」を歌って進むのです。

 本篇は、日ごとに主の恵みを数え神への献身を新たにして歩むようにとの促しのように、私には響きます。


主の御名だけが

2017年12月29日 | 詩篇

詩篇 148篇

 障子貼りをしました。いろいろな障子紙が売られているのですね、一枚のもの、破れないもの(プラスチック)、破れにくいもの、明るいもの、UVカット、断熱機能のあるもの、模様やキャラクターが印刷されたもの…。接着についても、糊貼り、アイロン貼り、両面テープで貼るものなど…。結局は基本的な障子紙で落ち着きました。

 本篇では、神がお造りになったすべてのものに神をほめたたえよと呼びかけられています。天においては御使い、天の万象が呼びかけの対象です。地においては地にあり地に住む、あらゆる自然、生き物に呼びかけられています。そしてすべての人間です。11、12節に並べられた人々のリストからは、呼びかけられていない人はだれもいないことがわかります。

 14節に「主は御民の角を上げられた」とあります。主がご自分の民を救い、力をお与えになったということを表すことばかと思われます。すべての人は神をほめたたえるように招かれ、命じられているのですが、誰よりも主に贖われて救われた者の間から、神への賛美がささげられていくものだということを知らされます。

 「主の近くにいる民」である教会ではどのようなことばが交わされているのか、賛美が脇に置かれてはいないだろうかと、思い巡らしています。

 


速やかに

2017年12月28日 | 詩篇

詩篇 147篇

 詩篇150篇の終わり頃にある「ハレルヤ」で始まる詩篇は、読んでいて晴れやかな印象があります。それは、他の詩には作者の悩みや恐れ、いらだちや悲しみなどが表わされているのに対して、ひたすらに偉大な神をほめたたえよと呼びかけているところにあるのかもしれません。

 けれども、それはこれらの詩を読んだ人(人々)に何の問題や課題もなかったということではないでしょう。本篇にもそれを伺わせるようなことばを見ることができます。「主は心の貧しい者を支え 悪しき者を地面に引き降ろされる」、「神は馬の力を喜ばず 人の足の速さを好まれない」などということばがそうではないでしょうか。

 この詩篇から「力」「速さ」について思いました。神の力強さや神のみことばの速やかさと、馬の力や人の足の速さとは比ぶべくもないということです。私たちは情報が瞬時に世界を駆け巡る世界にいます。それこそ、地球の裏側に起こった出来事はすぐに伝わります。たとえば「みことばの光的毎日」も、書き終えて「投稿する」というボタンを押しますと、ほぼリアルタイムでお読みいただくことができます。これは私が生まれた頃には、考えられないことだったことでしょう。

 きょうの「みことばの光」には、「主のことばは、今も、私たちの世界に、あるいは自然界に神の命令を送り続けている」とあります。速やかにみことばを送り続けてくださる神をほめたたえる賛美が、何よりも主の民である教会から湧き上がるようにと、願います。


だれを頼るか

2017年12月27日 | 詩篇

詩篇 146篇

 一か月間、あまり太陽が見られない地を飛び立つと、やはりそこには青空が広がっていました。頭ではわかっているのですが、雲の上に出てみて実感がこみ上げてきます。

 本篇から150篇までの始まりのことばは「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」。「みことばの光」は、「詩篇の終わりは神への賛美で締め括られている」と書いています。詩篇は150から成りますが、ここには人生で体験するあらゆる出来事が、そしてそのような出来事の中に神を認めることの幸いがあるとも言えます。

 神の教えに導かれて歩む人生の幸いから始まり(1篇)、神をほめたたえて人生を締め括ることの幸いまで、神ととに歩む人生はなんと幸いで、美しいものなのかを覚えます。

 ここからは、「頼る」ということばを考えてみました。3節には「あなたががたは君主を頼みとしてはならない」とあります。人はどんなに力があり頼りがいがあるように見えても、限りがあるのです。詩人は「幸いなことよ ヤコブの神を助けとし その神 主に望みを置く人」と5節で歌います。

 天と地と海、その中のすべてのものを造られた神は、「虐げられている者」「飢えている者」「捕われ人」「目の見えない者」「かがんでいる者」「正しい者」「寄留者」「みなしごとやもめ」…不安定な弱い人々にとって大変頼りがいのあるお方なのです。

 ここ数日、「だれを頼るのか」ということについて、具体的な課題が身近にありました。「主に信頼する」という道を賜わっている者の幸いを改めて思ったことです。


いくつしみの思い出

2017年12月26日 | 詩篇

詩篇 145篇

 当地では「クリスマス第二日」という祝日。24日から1月1日までは概ねお休みモードということかもしれません。久しぶりに年末年始を日本で過ごすことになりました。これをお読みになっている時は機上かもしれません。

 今年は、5年で旧新約聖書全巻を通読する「みことばの光」の5年目。1年目第一巻、2年目第二巻…と読み進めてきた詩篇も、いよいよゴール間近です。

 「みことばの光」が書くように、本篇は初めから終わりまで主への賛美と感謝で貫かれています。頭に浮かんだり、口ずさんだりする詩篇のことばが「ああ、ここにあったのだ」と納得できる詩篇と言ってもよいかもしれません。たとえば、「すべての目はあなたを待ち望んでいます。あなたは 時にかなって 彼らに食事を与えられます」とのことばは、ハインリッヒ・シュッツのコラールで親しまれています。これが本篇の15節にあるのです。

 それとともに、何度も読んでいる詩篇なのに、初めて出会ったように思えることばもあります。「みことばの光」が取り上げている「人々はあなたの豊かないつくしみの思い出をあふれるばかりに語り…」という7節のことばがそれです。「あなたの豊かないつくしみの思い出」とは美しいことばです。

 「あなたにとって『いつくしみの思い出』には、どのようなものがあるだろう」との問いかけを思い巡らしてみました。あの時、この時、いろいろなことが浮かびます。数え切れないほどです。それとともに、自分の欠けや醜さもまた思い起こします。そのような者にもかかわらず、主が顧みてくださるということが、「いつくしみの思い出」としての感謝、賛美へとなるのだと、思います。


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