みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

すべての人が…礼拝に来る

2014年12月09日 | イザヤ書

イザヤ書 66章

 妻が梅酢に浸け乾燥させておいた青紫蘇(あおじそ)で、ふりかけを作りました。赤紫蘇ではないので色はイマイチですが、味はばっちり。すりごまをまぶしてマイルドにし、おいしい青紫蘇ふりかけができました。

 何かを作る喜びの一つに試食というものがありますね。肉ジャガを一口、ギョウザを一口と味見していくと、食事の時にはお腹がいっぱい! ということもあったかと思います。

 きょうでイザヤ書を読み終えます。心に留めたのは「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」との神のことば。ここに約束されていることが、やがての新しい天と新しい地において実現するのです。自分たちが日曜日ごとにもつ礼拝にはすべての人が参加するわけではありません。この町と近隣に住むほんの一握りの者たちが集まって礼拝しているのです。けれども、やがて「すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」のです。

 今の私たちの礼拝は、やがての礼拝に間違いなく通じるもの。今は、わずかの者で礼拝をしているとしても、「みことばの光」」「黙想」にあるように通いたくても礼拝に通えないという現状があったとしても、やがてみんなで神を礼拝する時が来ると期待して、主の日ごとに礼拝に集う、互いに励まし合って集う者でありたい、です。

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わたしの民を楽しむ

2014年12月08日 | イザヤ書

イザヤ書 65章

 出産した長女と赤ちゃんが土曜日に退院。しばらくの里帰りです。おねえちゃんになった孫の喜びは自分でもどうしていいのかわからないほどのもので、いつものお昼寝もスキップ。

 「イザヤ書」も終章間近。毎度のことですが、長い間かけて読んできた書が終るのは、喜びでもあり寂しくもあります。

 終わりの時に神が創造される新しい天と新しい地の情景がこの章の後半に描かれています。「みことばの光」は、『あらしのよるに』という絵本について触れていますが、好きな絵本の一つです。

 ここにあるのは、これまでとはまったく違う「みことばの光」が「共生の理想郷」と解く世界。心に留めたのは、神と人とがとても近くにある様子を描いた二つのことばです。

 一つは「わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ」ということば。神が民を楽しむとはどんな民の様子なのだろうかと想像してしまいます。この世界で神に造られた人は神を悲しませ、憂えさせ、そして怒らせたのですが、新しい世界では神が民を楽しむというのです。

 二つ目は「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」という24節のことば。以心伝心ということばがありますが、まさに神と人との間が通じ合っているのです。

 救い主イエスがおいでになったことで、ここに描かれている情景が私たちの前に確かなものとして映し出されているのです。

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昔からずっと

2014年12月06日 | イザヤ書

イザヤ書 63章

 昨日は、「みことばの光」」3月号の編集で聖書同盟へ。3月号は、レビ記、ペテロの手紙1、2、ゼパニヤ書、マラキ書、ユダの手紙、そして詩篇と盛りだくさんです。ひと月のうちにこんなに多くの箇所を読むのは、もしかしたら初めてかもしれません。これを用いる頃は何をしているだろうかと想像する自分がおりました。

 そのあと、お手伝いをしている「ジュニアみことばの光」2月号のことで三ノ輪に移動。一回の乗換で東京を横断できるのですね。用事が済んでせっかく三ノ輪に来たのだから都電荒川線にでも…と思ったのですが、早く帰宅しなければと思い出して次回の楽しみということにしました。

 63章からは、「みことばの光」タイトルのとおりに「帰る」ことについて考えました。

 神の変わらないいつくしみの中にあったにもかかわらず、民は神に逆らい、神は民と戦われました。11節に「そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した」のです。思い出して、主は今どこにおられるのだろうかと問いかけます。11節から15節までに繰り返される「どこにおられるのか」「どこにあるのでしょう」とのことばが目に留まります。

 そして民は、神お一人が自分たちを回復することのできるお方だと知り、「どうかお帰りください」と願います。

 そのように願うというのは、「私たちはあなたのところに帰ります」ということなのですね。なぜなら、彼らが逆らい、みこころを悲しませている間もずっと彼らの近くにおられたのです。

 次のことばを心に留めます。

「彼らが苦しむ時には、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(9節)

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黙っていてはならない

2014年12月05日 | イザヤ書

イザヤ書 62章

 「ローマ人への手紙」を読む会が終了し、感謝の食事会がありました。ひた向きには進まずに、あっちに脱線こっちに寄り道をしたので、ふり返ってみたら何と6年近くもかかっていました。ご苦労様でした。学び会の初めに「パウロに会いたい」とある方がいったことばが印象に残るとは、別の方の一言。そんなこともあったけ、と思い出の引き出しからいくつかのエピソードを広げてもらったような、良いランチタイムでした。

 シオンの回復のために黙っていないと、神は語られます。「万軍の主の熱心がこれを行う」との同じイザヤ書の一言を覚えました。また、「いたんだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すこともなく…」とのことばを心に浮かびます。

 そしてエルサレムの城壁を守る見張り人に向けられている「黙っていてはならない」との促しは、「さあ、立ち上がれ。語れ、主の恵みを」とも聞こえます。見張り人が黙っていてはならないのは危急のときです。押し迫る危険を城壁の中に住む者たちに知らせなければならないのです。もし、見張り人がこの勤めを怠ったら町はいざという時にもろくも崩れ去ってしまいます。

 心にとどめたのは、「黙っていてはならない」の繰り返し語られる主のことば。見張り人としてのつとめに就いています。黙ってはいないか、隠してはいないだろうかとの問いかけを、この箇所から受け止めます。

 

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賛美の外套

2014年12月04日 | イザヤ書

イザヤ書 61章

 枯れ木シルエット第二弾。朝焼けを背景にして撮りました。

 「外套」(コート)が似合う季節。最近のものはとても軽くて暖か。しかも、小さくしまうこともできるのですから、使い勝手がいいですね。旧約聖書の頃の「外套」はどのようなものだったのでしょう。

 油を注がれた者(メシヤ)は貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために来て、解放と慰めを与え、義と喜びと賛美の衣をつけさせるために来るというのが、この章初めの記述です。イエスはこの箇所を朗読して「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と宣言されたと、ルカの福音書は記します(4章16節)。

 心に留めたのは「賛美の外套」、「正義の外套」ということば。神を賛美し、正義をまとって生きる者の姿はさっそうとしています。

 高級品を扱うお店やデパートに行って「賛美の外套をください」と言ったら、目を丸くされてしまうかもしれないと、余計なことを考えましたが、メシヤであられるイエスを信じた者はすべて、この外套をまとって生きるのです。

 神への賛美が、心の底からほとばしり出ているだろうか? と立ち止まってみます。

 

[お知らせ」きょうとあす、イオンモール羽生(はにゅう)1階のイベント広場で、「北埼玉障がい者ハートフェア」を開催します。行田市や熊谷市、そして羽生市などの9つの障がい者支援施設で作ったお菓子、グッズなどを販売していますので、お近くの方お出かけください。朝10時から午後7時までです。5日午後2時から、午後4時からは森圭一郎さんのコンサートもあります。

 

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