イザヤ書 66章
主イエスの誕生をテーマとしたバッハの「クリスマスオラトリオ」を聴く機会がありました。素晴らしい演奏会で満席。しかしやはり、この作品や受難曲は教会で聴きたいという思いも募りました。
イザヤ書66章には、私たちのというか、すべての人々のゴールに何が待ち構えているのかが明らかにされています。それは神の審判。ここに描かれるのは神の祝福によって安らぐ人々と、神に背いた者たちへのさばき。本書は40―66章までに未来についての預言が語られていますが、ここはフィナーレです。
誰が祝福を得、誰がさばかれるのかは明らかです。それはその人がどの民族なのかということによっては分けられません。神に仕えていた者が必ずしも祝福を受ける訳ではありません。3節に描かれるのは神に仕える祭司の姿。神の厳しい目が注がれます。
一方で、神は「貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者」に目を留められるのです。「霊の砕かれた者」とはわかったようでわからないことばですが、神の前にへりくだることのできる人ということでしょう。人は何事かを成し遂げ、成功すると心が大きくなり、高慢になる恐れがあります。造り主である神を常に忘れることなく…が、そのような誘惑から自分を守ります。
神によってこのような未来が備えられているのだとしたら、私たちの選択はどちらか一つ。信じていのちを得る者となるのか、それとも退けるのかなのだということです。いのちのための立った一つの鍵を握るお方の降誕を覚え、再び来る日を待つアドヴェントに、いのちへの扉を開いてもらう人が一人でもあるように、と願うのです。