みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

どちらの道を

2019年12月07日 | イザヤ書

イザヤ書 66章

 主イエスの誕生をテーマとしたバッハの「クリスマスオラトリオ」を聴く機会がありました。素晴らしい演奏会で満席。しかしやはり、この作品や受難曲は教会で聴きたいという思いも募りました。

 イザヤ書66章には、私たちのというか、すべての人々のゴールに何が待ち構えているのかが明らかにされています。それは神の審判。ここに描かれるのは神の祝福によって安らぐ人々と、神に背いた者たちへのさばき。本書は40―66章までに未来についての預言が語られていますが、ここはフィナーレです。

 誰が祝福を得、誰がさばかれるのかは明らかです。それはその人がどの民族なのかということによっては分けられません。神に仕えていた者が必ずしも祝福を受ける訳ではありません。3節に描かれるのは神に仕える祭司の姿。神の厳しい目が注がれます。

 一方で、神は「貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者」に目を留められるのです。「霊の砕かれた者」とはわかったようでわからないことばですが、神の前にへりくだることのできる人ということでしょう。人は何事かを成し遂げ、成功すると心が大きくなり、高慢になる恐れがあります。造り主である神を常に忘れることなく…が、そのような誘惑から自分を守ります。

 神によってこのような未来が備えられているのだとしたら、私たちの選択はどちらか一つ。信じていのちを得る者となるのか、それとも退けるのかなのだということです。いのちのための立った一つの鍵を握るお方の降誕を覚え、再び来る日を待つアドヴェントに、いのちへの扉を開いてもらう人が一人でもあるように、と願うのです。

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わたしの目に…

2019年12月06日 | イザヤ書

イザヤ書 65章

 木曜日はこの冬一番の寒さ。外に出てしばらくすると体が冷えてしまうので、相応の服装が必要です。それとともに、寒さゆえの景色も見ることができます。見るといえば、私たちが自分の目は時々、錯覚したりごまかされたりします。見ているはずなのに見逃してしまう、聞いているはずなのに聞き逃してしまうなどということも起こります。

 預言者イザヤの心からの祈りに主なる神はどのようにお答えになったのかを、本章は記します。イザヤは「あなたは私たちから御顔を隠し」と祈りましたが、神は「わたしはここだ、わたしはここだ」と言ったと答えられます。「終日、頑なな民に手を差し伸べた」とも言われます。なぜ彼らは神の語りかけに応えようとしなかったか、それは心の頑なさのゆえ、神ならぬものへの熱心のゆえだったことがわかります。

 そんなことなら、選んだすべてを捨て去ろうと、主はなさいません。主を求めるわずかな者のことを顧み、「わたしのしもべたち」とお呼びになり祝福を約束されます。13−15節の「おまえたち」と「わたしのしもべ」に神がなさることは対照的です。やがての日、神はこのように人々をさばかれるのです。

 善きわざを行なう者が凶弾に倒れ、詭弁(きべん)を弄(ろう)し保身に励む指導者がのさばるような時代に置かれると、この先には何が待っているのかと暗澹(あんたん)たる思いになります。ため息が漏れます。

 しかし、神はご覧になっている、そしてすべてを正しくさばき、そればかりではなく「新しい天と新しい地を創造する」というご計画を必ず為されるという希望が、この時代を神に信頼して歩もうということの動機になります。寒さに負けず、悪に負けずに…。

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あなたは私たちの父

2019年12月05日 | イザヤ書

イザヤ書 64章

 昨日は霧の朝。祈祷会に向かう途中に渡る橋から見ると、川から湯気のようなものが湧いています。幻想的な景色でした。非常に冷えた空気が水面近くに流れ込むことで水蒸気が冷やされ霧が発生したもので、「けあらし」と言われるものだそうです。気象用語では「蒸気霧」と言われています。新しいことを、一つ覚えることができました。写真におさめられず、残念!

 民を代表しての預言者の祈りが続きます。まず声を出して読んでみました。民の思いを汲んでの祈りに、自分はここまで神に逆らうものの魂の叫びを神の前に届けることがあっただろうかと我が身を振り返りました。とりなしの祈りが、「他人のこと」としてなされていないだろうかと…。「あの人は罪の中にいます」と祈ることがあっても、「私たちは罪の中にいます」と果たして祈るだろうかと、声を出しながら思うのです。

 イザヤの祈りは、神は自分たちに会ってくださるとの確信から出ています。会ってくださるので、どんなに罪に汚れても、戸をたたいて祈るのです。そして、彼はここでも「あなたは私たちの父です」と祈ります。こんな者たちが果たして救われるだろうかと、祈る側には救われるための何の理由も見出せなくても、それでも、ひたすらに神のあわれみにすがる姿がここにはあります。

 目を留めてください、耳を傾けてくださいという、どのような時にも祈ることができるのは、神の子どもとされた者の何よりの特権なのです。

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昔からずっと背負い

2019年12月04日 | イザヤ書

イザヤ書 63章

 かかってきた電話を勘違いをし、慣れないことばを一生懸命使って話したこともあって、相手の方はきっと「この人は何を話しているのだろう?」とポカンとなさったのではないでしょうか。「クールダウン、クールダウン」と自分の心に呼びかけて、いったん切って再度かけ直すことにしました。静まってみたら、「ああ、あの人だった!」思い出しました。語るべきことばを用意して、もう一度電話をして何とか話が通じました。「いつ遊びに来るの?」とのお誘いに答えて、出かけることとなりました。どうなることでしょう。でも、楽しみです。

 本章の1−6節までと7節以降では、全く雰囲気が違います。6節まででは、主が罪をさばく様子が描かれます。ここを支配する色は赤、血の色です。メシアはすべての者をさばくためにおいでになるのですが、そのさばきは正しく、悪を行なう者に容赦はありません。

 7節以降にはイザヤのことば、祈りが記されます。ここには、どんなに逆らっても神は彼らを愛し続けたということが伝わってきます。9節の「昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった」ということばには、幼子を背負う親の姿が重なります。逆らう彼らに憤り戦う姿にも、反抗する子どもから逃げることなくしっかりと向き合う親の姿が重なります。

 一時は神を捨て去った彼らも、主の愛を思い起こします。そして、「どこにおられるのか、どこにおられるのか」と探すのです。そのようにして探し求める彼らを、神はもちろんしっかりと支えておられました。

 気づかないことの多い自分なのだということに気づかされます。

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主を休ませてはならない

2019年12月03日 | イザヤ書

イザヤ書 62章

 失敗をし、罪を犯し、挫折した人を立ち直らせようとする人々がいます。一度の失敗に懲りて自分で立ち直る人もいますが、何度も同じ罪を犯し、失敗を重ねる人がいるのです。「あの人はもう駄目だ」と後ろ指を指されるような人を信じて、支える…。愛がなければ到底できることではありません。

 ここには、シオンが回復を成し遂げて、すべての国々がシオンの義とまぶしいばかりの栄光を見る日が来るまでに、投げ捨てることなく、あきらめることなく導き続ける神のお姿が描かれています。預言者イザヤからおよそ100年ほどあとに、エルサレムはバビロンによって破壊されます。しかし、それから70年後に捕囚の民はエルサレムに帰還して、町は再建され、神の宮は建て直されます。ここにあるのは、その回復のことを指しているのでしょうか。

 しかし歴史は繰り返し、紀元70年にエルサレムはローマによって破壊され、神の宮も壊されてしまいます。本章にあるのは、町や壮大な建造物の再建についての預言というよりは、そこに生きる神の民の霊的な回復の様子が描かれていると理解できます。

 7節の「主を休ませてはならない」ということばには驚きます。これは神さまに忙しくしてもらいましょう、私たちはじっと見ていますから…というような意味ではありません。主があなたがたの祈りに絶えず耳を傾け、それに答えてみわざを続けてくださるために、あなたがたは熱心に祈り求めるようにということなのです。

 「目覚めよという声がする」というメロディが頭の中で聞こえてくるようです。アドヴェントの今、「主を休ませてはならない」ということばを励みとして、神の約束を聴き、それを待ち望みながらこの時期を過ごしたいと思います。主人公抜きのクリスマスに惑わされずに…。

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