みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

杖や鞭にすぎない

2019年09月20日 | イザヤ書

イザヤ書 10章

 今週も、最近引っ越された方のお宅を訪ねました。お引っ越しの祝いにはパンと塩を贈るとのことで、お持ちしました。聞くところによるとパンは「食べ物に困らないように」という願いが、塩は「富と繁栄のシンボル」なのだそうです。以前よりもお宅全体が広くなり、聖書を一緒に読むリビングルームも日当たりがよい明るい所でした。

 この章には特に5節以降で、北王国イスラエルを滅ぼし、南王国ユダにも大きな脅威を与えるアッシリアへの神からのさばきの宣告が届けられています。アッシリアはイスラエルを懲らしめるために用いられる神の怒りのむち、憤りの杖です。

 ところが、アッシリアは自分たちの力、勝利が自分たちによるものだと取り違えて、「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ」と高ぶります。「全能者のように住民をおとしめた」とまで言います。主なる神は、彼らの高ぶりを見て、さばきを下されるのです。

 神はご自分のお考えを実行するために、さまざまな人を用いられます。そのために、ある者には知恵が与えられ、ある者には力が、富が与えられます。ですから、用いられている者が「私がやった」「私の力で…」と自分を誇るのは、お門違いなのです。けれども、気がつかないうちにそんなお門違いをしているのではないだろうかと、自分を振り返るのです。

 「…あなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」と弟子たちに教えられたイエスのことばを思い出しています(ルカの福音書17章10節)

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御手は伸ばされている

2019年09月19日 | イザヤ書

イザヤ書 9章

 買い物をするために出かけ、気に入った物を選びレジに並ぼうとしましたが、バッグの中には財布がありません! 結局買おうとしている物を棚に戻して他の物も買えずに歩いて帰宅。財布は机の上にありました。とても良い運動になったねと、自分たちに言い聞かせました。

 本章の前半にはよく知られた「一人のみどりごが私たちのために生まれる。一人の男の子が私たちのために与えられる」ということばを初めとする、メシアの到来についての預言があります。ガリラヤ湖西岸に位置するゼブルン、ナフタリの地は、アッシリアによって真っ先に征服された地(「辱めを受けた」ということばがそのことを表しています)です。けれども、やがてこの地に闇がなくなると預言されています。メシアとガリラヤとのつながりを思わせる預言です。

 8節以降では、南王国ユダの兄弟国とも言える北王国イスラエルに、神がことばを送っておられます。彼らはイスラエルが北と南に分裂してから、神に背き続けました。神は彼らにアモスなどの預言者を遣わして神に逆らう罪を悔い改めるようにとの警告を与え続けてこられたのですが、それでも彼らは背き続け、神のことばを聞こうとはしません。自分たちの力を過信し、困難を乗り越えようとします。神は高ぶりに気づかせようとして彼らに敵を送るのです。

 「みことばの光」が書くように、「それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている」ということばが三度繰り返されるのは、彼らの頑なさがどれほどのものであるかを示しています。「懲りない」とは、この時のイスラエルにふさわしいことばなのかもしれません。

 メシアが来ることによる光は、この時に神の御怒りの御手が伸ばされているイスラエルにまず輝くのです。神が本気でお怒りになるその先にこそ、まことの光が輝いているのだということを、教えられます。

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みおしえと証しに尋ねよ

2019年09月18日 | イザヤ書

イザヤ書 8章

 火曜日のドイツ語の時間。久しぶりにクラスの仲間に会いました。仕事に就くためにドイツ語を学んでいます。とてもがんばっている様子が伝わってきます。

 7章と8章の「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)預言」には、イザヤの子どもたちの名前が意味を持っています。それにしても、「分捕りものはすばやく、獲物はさっと…」という意味の名前がつくとは、預言者は自分の生活によっても神のことばを伝えるということなのです。

 神はイザヤによって、インマヌエル(神は私たちとともにおられる)という鍵語をもって、アハズにご自分に頼るようにと語っておられます。けれどもアハズ王は、神に頼らずにアッシリアに頼るいう思いを変えることはありませんでした。そこで神は、「あなたが頼りにするアッシリアがあなたの国に攻め入り、略奪する」ということばをアハズに伝えるのです。

 難局に際して、人は自分の知恵による情勢の判断、手にしている力に頼って、進むべき道を決めて行きます。アハズ王もイザヤのことばには耳を傾けません。預言者イザヤの心境は如何に…ということでしょうか。イザヤの思いを知る神は、イザヤをご自分の強い御手で捕らえて、この民の流れに引きずられないようにと戒めておられます。11節以下からは、神のことばを託された者すべてに通じる神からの支えを覚えます。周りのすべてが流されても、あなたは主を聖なる者とし、恐れるようにとの促し。そして、そのものとともに主はおられる(インマヌエル)と約束しておられるのです。

 20節の「ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない」とは、決して大げさでなく肝に銘じるべきことばです。

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神はわれらとともにおられる

2019年09月17日 | イザヤ書

イザヤ書 7章

 ユダの王アハズは、あることばによって心が大きく揺らぎました。それは、「アラムがエフライムと組んだ」という情報でした。イスラエルはユダの北に位置するいわば兄弟国。アラムはさらにその北の国でした。北東の大国アッシリアに立ち向かうため、イスラエルとアラムは「反アッシリア同盟」を結び、さらにユダにも同盟に参加するようにと声をかけました。しかし、アハズはこれを拒み、そのためにイスラエルとアラムはエルサレムを攻めに来たのです。

 大きく揺れ動く中、神はアハズ王のところに預言者イザヤを遣わし、アラムとイスラエルを恐れてはならないとのことばを届けます。右か左かどちらに進むべきかがわからない時に、すべてを知り支配なさる神がことばを届けてくださるとはなんと大きな恵みなのかと思います。「恐れてはならない」とのことばを覚えます。このことばを信じることが求められるのです。

 さらに神はアハズに、「しるしを求めよ」と迫ります。ここでは、神のことばを信じるために…ということでしょう。アハズの「私は求めません。主を試みません」ということばは敬虔そうに見えますが、実は不信仰から出ています。私は信じないということばの別の表現なのでしょう。神からの呼びかけに信仰をもって答えないのは、神の民である「ダビデの家」ではありえないこと。そこまで、神との関係が遠かったということなのです。

 その中も神はしるしを与えてくださいます。すばらしいしるし、それが「インマヌエル預言」です。その時のアハズには何を意味しているのかがわからなかったでしょう。これはアハズの時の700年以上もあとにイエス・キリストによって実現するのです。

 アハズは、恐れを神のことばを信じ、神からのしるしを求めることによってではなく、アッシリアに頼ることによって乗り切ろうとしました。それがどれほどむなしいことかは、この章の後半に明らかにされていきます。

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きよめる神

2019年09月16日 | イザヤ書

イザヤ書 6章

 街路樹が色づく景色は、秋が駆け足でやってきたことを感じさせます。スーパーには、この秋収穫した林檎が並びます。小粒ですが甘酸っぱくて美味しいです。

 本章は、イザヤが預言者として神に召された体験が著されています。「ウジヤ王が死んだ年」とは紀元前740年ごろのことです。すでに5章まで進んでいる中で預言者の召命の記事があるのは、イザヤがどのような時代背景の中で預言者とされたかを強調しようとしているのでしょう。

 ここにはイザヤを預言者として召された神がどのようなお方かを知ることができます。1−5節は神が聖であると記します。イザヤはこの聖なる神の臨在を目の当たりにして、喜ぶどころか自分の汚れにがく然とし、恐ろしさにおびえています。神の前には人間のすべてがさらけ出されるのだというのもわかります。

 6−7節では、神が汚れをきよめ、罪を赦すお方として描かれます。セラフィムが燃え盛る炭を火ばさみで取ってイザヤの口に触れると、イザヤの罪は赦されたのです。「ああ、私は滅んでしまう」と自分の汚れを認め嘆く者を、神はきよめてくださるのです。

 そして、8−13節では、イザヤを預言者として遣わす神の姿が描かれます。改めて思うのは、イザヤが預言者として何かができ、優秀だから遣わされるのではなく、きよい神の前に自分の汚れを知る者であったので、きよめられて、遣わされることに至ったということです。改めて12−13節のことばを心に留めました。預言者としてのイザヤの働きは困難なものだとここからわかります。彼のことばは受け入れられず、耳を傾ける者はいない中で、彼はエルサレム、ユダがなくなるまで語るのだというのです。

 汚れを知ることが、神の働きに携わる者の第一歩なのですね。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki