みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

時を待つ

2017年04月28日 | ダニエル書

ダニエル書 12章

 ダニエル書はきょうで読了。でも、ある方の「ダニエル書ってこんな書だったのね」とのことばから、聖書に読了がないことを改めて思いました。

 きょうはシュトゥットガルトに出かけています。約束の時間まで着くために、何時に家を出たらよいのかを地図で確認して出かけます。便利になりました。

 「時間管理」をするというのが大切なことだとは、あちこちで言われています。そのために、約束したことを忘れないためにカレンダーに予定を入力しておきます。すると、予定の1日前とか30分前にスケジュールを知らせてくれます。けれども、そんなことをしていますと、自分で時間を管理しているかのような錯覚に陥ります。

 「みことばの光」のきょうの箇所のタイトルは「その時」。ダニエル書終章には時を表すことばが多く見られます。ざっと拾い上げてみますと次のようになります。「その時」、「その時まで」、「苦難の時」、「その時」、「終わりの時」、「いつになって」、「ひとときとふた時と半時」、「終わりの時」、「…時から千二百九十日」、「…時から千三百三十五日」、「終わりの時」、「時の終わり」。

 改めて眺めますと、ここに並ぶのは自分で決めるのではなくて、神がお定めになった時です。それは、自分で遅いからいらいらしたり、速すぎると慌てたりするようにして到来するのかもしれません。言えるのは、自分で時を早めたり遅くしたりすることはできないということです。

 きょうのみことばの光には、神の約束のことばに信頼して、忍耐して「その時」を待つようにという意味のことが勧められています。主イエスがお教えになった、花婿を待つ十人の娘のたとえを思いました。マタイの福音書25章1−13節

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自分を大きいものとする

2017年04月27日 | ダニエル書

ダニエル書 11章20−45節

 ダニエルが見、そして語った預言が続きます。

 焦点は21節に登場する「ひとりの卑劣な者」です。これは紀元前175年から163年までシリヤの王であったアンティオコス・エピファネスについての預言だと考えられています。彼は正統な王位継承者ではありませんでした(「国の尊厳は与えられないが…」21節)。けれども、シリヤ王のセレウコス四世の子どもが王位を継ぐのに反対して、「巧言を使って」王位に就くのです。

 きょうの箇所のほとんどがこの王についての描写です。彼が権力を掌握するまでに用いるのは、「巧言」、「欺き」、「心に悪事を計る」ことであり、「まやかし」です。そして、権力を握ると今度は、神々を拝ませるのではなくて、「すべての神よりも自分を高め」、「すべてにまさって自分を大きい者」にするのです。

 アンティオコス・エピファネスの悪行として知られるのは、エルサレム神殿に「荒らす忌むべきもの」(ギリシヤのゼウス像)を安置し、豚や汚れたものをささげさせて神を冒瀆し、反対する人々を殺害するというものでした。ここでは30-33節に預言されています。彼は、主イエスがお語りになったやがて来る「荒らす忌むべきもの」の型として歴史に出現しました。

 しかし、彼も終わるのです。

  「自分を大きいものとする」ということばに目が留まります。恐れるものは何もないとして高ぶる権力者の姿を思い浮かべるのですが、そのような心は、神を恐れようとしない人の心に容易に巣くいやすいのです。
 
 「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」という伝道者のことばをおぼえました(伝道者の書12章13節)
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未来のことを告げる神

2017年04月26日 | ダニエル書

ダニエル書 11章1−19節

 きょうの箇所に記されていることは、ダニエルの時代の後、紀元前200年代までのペルシヤ、ギリシヤ、そしてエジプトとシリヤという当時の中東世界に実際の起こった出来事、実際に立った王たちに当てはめることができると考えられています。

 たとえば、2節の「第四の者」とはペルシヤのアハシュエロス王、3節の「ひとりの勇敢な王」とはギリシヤのアレクサンドロス大王、5節の「南の王」はエジプトのプトレマイオス一世、「その将軍のひとり」とは、後にシリヤ王となるセレウコスを指していると考えられます。

 さらに、6節にある「南の王の娘が北の王にとつぐ」とあるのは、エジプトのプトレマイオス二世が娘のベルニケをシリヤの案手起こす二世に嫁がせた出来事を指しています。長い間にわたって、南のエジプトと北のシリヤとの間には戦いが続き、それにつかれた両国は政略結婚によって互いの和睦を図るのですが、結果は失敗に終わるのです。また、17節の「娘のひとり」とはクレオパトラ(「あの」クレオパトラではありませんが…)だと考えられています。

 このように、書かれていることがあまりにも歴史的出来事に沿っているので、これらの出来事が起こった後に書かれたものだという考えが根強くあります。けれども、そのような考え方に屈服してしまうのは、聖書全体の信頼を損ねることになります。私たちの常識や経験という枠の中に聖書を当てはめてしまうことになるのです。

神は、先のことをダニエルにお告げになったのです。

 「わたしは初めであり、わたしは終わりである。 わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、 わたしのように宣言して、これを告げることができたか。 これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。」イザヤ書44章6−7節

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神に愛されている人よ

2017年04月25日 | ダニエル書

ダニエル書 10章

 妻が使っている携帯電話のアクティベート(使用可能にする)の仕方がわからずに、しばらくの間放っておきました。きのうの朝、思い立って最初に届いた文書を確認してある数字を入れたら無事に使えるようになりました。ここにもことばの壁が…。心に引っかかっていたことが一つ取れてすっきりとしました。

 ダニエルは自分に啓示されたいくさについてのことばを理解し、幻を悟ってはいましたが。だからといって、すっきりとしていたという様子は、この章からは伝わってきません。バビロンからの帰還が始まり、エルサレムを初めとする祖国の再建の話も伝わってきただろうに、彼は一定の期間喪に服しています。9章でイスラエルの罪を我が事として「私たちが罪を犯しました」と祈った彼の姿勢は変わらずにあったということでしょうか。

 そのようなダニエルに、さらにひとりの人がが見たことのないような輝きをもって現れます。彼は一人その人の前に立ち、力を失うのです。天的な輝きを見させてもらうのは、神の民の光栄であり喜びでもあります。けれども、彼はむしろ力を失うのです。神の臨在の前に自分が立つとしたら、このようなことになるのではないかと想像します。

 そのダニエルは、「神に愛されている人よ」とのことばによって立ち上がり、力づけられもします。神の聖さや義のゆえに自分の汚れや醜さを知らされて、打ちのめされている者に、神は「神に愛されている人よ」と声をかけてくださるくださるのです。

 この声がけは、自分へのものでもあると信じます。

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私たちが…

2017年04月24日 | ダニエル書

ダニエル書 9章

 今回は、まるで最初に読んだかのような新しい発見をしつつダニエル書を読み進めています。

 一つの超大国が崩壊してもう一つの超大国が取って代るという時代の激動期に、しかも、どちらの独裁者にもダニエルは重用されたというのです。そのような重大な局面にダニエルがいた、というのは、神がある者に力を与え、力を奪って別の者に力をお与えになる歴史の主だという印象を持ちます。私たちが歩んでいる現代では、なかなかそのようなことを認めにくいかもしれませんが、歴史は変わることなくこのお方のことばが実現するようにと動いています。

 聖書はダニエルを、「神の霊の宿る人」「神に愛されている人」などと紹介します。なぜそのように呼ばれるかの理由が、9章4−19節までのとりなしの祈りにあるように思えます。

 ここは、「この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、−主の御告げ−またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする」エレミヤ書25章11−12節のことばによって知ったダニエルは、民のために祈ります。

 彼は、「彼らは罪を犯しましたが私は違います」とは祈りません。彼の祈りは一貫して「私たちは罪を犯しました」「不面目は私たちのもの」と祈ります。彼は大きな権力者の圧迫の中にあっても、自分のいのちをかけて主に従い通しました。ですから、「私は従いました」と祈ることもできたかと思うのですが、そうはしません。

 「あの人たちは」「この国は」と、気づかないうちに他人事のように突き放している自分を恥じよ、と迫る祈りです。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki