みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

壮大な約束のある命令

2012年01月31日 | 申命記
申命記11章13-32節


 1月が今日で終わろうとしています。北海道や日本海側ではまたさらに大雪があったと報じられています。お住いの方が安全に過ごせますように。
 
 関わりのある障がいのある人々の就労支援施設のみんなで、昨日は軽井沢日帰り温泉旅行に出かけました。粉雪を踏みしめて歩き、お腹いっぱい昼食を食べた後は、雪見風呂。普段も愉快で明るい皆さんですが、「裸のつき合い」でさらにその魅力を再発見しました。ちょっと食べ過ぎて反省…。

 「みことばの光」が気づかせてくれましたが、申命記11章には主を愛し、主の命令を守るようにという意味のことばが6回も記されています。それを守り行なったときの約束の壮大さに改めて驚きました。
 たとえば、主は守り行なう者たちに、「あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる」と約束しておられ、それが荒野からレバノンまで、ユーフラテス川から西の海までだというのですから、その大きさに改めて驚きます。

 確かに、神のみことばは明快に語るのですが、私たちの側の罪がゆがめ複雑にしてしまうのかも知れません。同時に、そのような者にあくまでも恵みとあわれみを注ぎ続ける神の愛の大きさには、さらに圧倒されます。

 インフルエンザが流行り始めているとのことです。お大事になさってください。





どちらが乳と蜜の流れる地か

2012年01月30日 | 申命記
申命記11章1-12節


 寒さが続きます。

 昨日の午後は久しぶりに教会の少年野球チームの練習に参加しました。Dsc00910_2

 グランドには容赦なく寒風が吹いて、すぐに手がかじかんでしまいますが、選手たちは明るく元気に練習を楽しんでいました。
 「新人」はまるっきりボールが取れませんが、去年からのメンバーの中には格段とうまくなった子どももいてびっくり。
 うれしかったのは、練習時間のあいだひとりも怒鳴られたり脅されたりしなかったことです。やる気のなさそうな子どもを笑顔とさりげない配慮でいつの間にか練習に引き込む、監督の人柄のよさを発見できました。

 申命記には、回想と命令が繰り返されます。
 回想といっても、「あの時はよかった」「よくがんばった」という類いのものとは全く違う、イスラエルの民の反逆と罪の回想です。にもかかわらず、主はあくまでもご自分の契約に忠実に彼らを約束の地の一歩手前まで導いて来られたと、モーセは繰り返すのです。そして、約束の地ではただひたすらにみことばを守り、主を愛するようにとこれまた繰り返し命じています。

  ダタンとアビラムの事件は民数記16章に詳述されています。彼らはエジプトを「乳と蜜の流れる地」だとして、神とモーセに逆らいました。出エジプトの際にも荒野でも大いなる神のみわざを目撃したにもかからわず、思い通りにならないとむかしを懐かしみ、後戻りしたいとして逆らったのです。

 「どちらが乳と蜜の流れる地なのか」とは、私たちの歩みにもいつも問われます。
 そのときに、「あなたが用意してくださった道の先に待ち構えている所です」と、答える者になりたいです。
 





神が前に進む

2012年01月28日 | 申命記
申命記9章


 立春を前にして寒さが続きます。
 写真は昨日の朝、川越市にある高齢者施設の前の畑をキャンバスにした、冬の芸術です。Photo
 寒さゆえに美しい景色を楽しめます。

 約束の地カナンを目前にした場所での、モーセのことばが続きます。
 ヨルダンを渡った約束の地には、大きくて強い国々が待ち構えているとモーセは隠さずに民に伝えています。しかし、彼らは恐れることがないのです。神が民の前を進み、大きくて強い国々を根絶やしにされるからだというのです。
 
 神が信じる人々と共に歩み、時には先頭に立ち、時にはしんがりに陣取ってくださるというのは、信仰者の確信です。

 中学生とアウトキャンプに行った時のことです。真っ暗な原生林の中をライトをつけず、リーダーを先頭にしてロープを握りながら歩いたことがありました。どんなに目を大きく見開いても何も見えません。暗闇とはこのようなことをいうのだと改めて思いました。後に続く者はリーダーが頼り。時々リーダーが「大きな石がある」とか「ここからは下り坂」、「切り株が左側に」などと言うと、おっかなびっくり歩いている者たちがいつの間にかその情報を次々に伝えているのです。
 
 帰り道はそれぞれがヘッドライトをつけてスイスイ。光のありがたさを思うとともに、「従う」ということについても考えさせられました。見えなければ、信頼できる声に従うしかないのです。それが安全にゴールにたどり着くまでの唯一の道。

 私たちにはいろいろなものが見えるので、自分の判断が正しいと錯覚します。しかし、ほんとうは見えていないのだということに気づくことが大切なのですね。自分が見えていないとわかるからこそ、みことばを聞き従うのです。
 
 




すべての命令を、全行程を、

2012年01月27日 | 申命記
申命記8章

 記憶が断片的になって、どうしても思い出せないという気持ちの悪さが時折あります。
 「あの人なんだけど…」と話して、相手の人も「あああの人ね!」と納得してしまうおかしさもありますが、笑ってばかりもいられません。

 「みことばの光」にあるように、この箇所で印象に残るのは「すべての命令」と「全行程」ということばです。
 モーセは民に、荒野の旅の全行程を覚えていなければならないといいます。私たちはエジプトをでての旅の間中、主がマナを降らせ養われたことを印象的なこととして覚えていますが、「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」とのことばから、主が民を長い間細やかな部分に至るまで養い支えられたことを知ります。

 みことばの一部だけを大きく取り上げて全部であるように主張したり、自分に都合の良い出来事だけを「主のみわざ」だとしたりするような偏りが、私たちの信仰の歩みにもあるのではないか、と考えさせられるのです。

 当たり前だと思わず、きょう経験することの一つ一つに主のお働きをみとめられるように、祈ります。



 


聖なる民、宝の民

2012年01月26日 | 申命記
申命記7章

 
 気象庁の三ヶ月予報が発表されたとニュースが報じていました。
 春まだ遠し…のようですね。しかし、関東地方の陽射しはだいぶ力強く感じられるようになりました。

 ずっと住んでいると気づかないのですが、日本のサービス業の接客はくすぐったいほどていねいです。スーパーで買い物をしても「お客様」として接してくれているという姿勢が伝わってきます。
 もっとも、「お待たせいたしました。こちらがハンバーグになります」と言われてしまうと、「何からハンバーグになるのでしょう?」と尋ねたくなってしまいますが…。もう一つ気になるのは、「1万円からお預かりしました」ということば。何とかなりませんかね。
 ともあれ、客にていねいに宝物のように接するというのは、客が店にとってありがたい存在だからです。たくさんの買い物をしてくれる客にはなおさらでしょう。

 きょうは、主が「聖なる民」「宝の民」とイスラエルをお呼びになっていることばに心を留めました。
 しかしそれは、民の側に聖さがあったとか、他の民族に比べて格段の秀でた何かがあったのではなく、数が多かったからでもありません。
 主が彼らを愛されたから、主がご自分と父祖たちとの間の誓いを守りエジプトから連れ出されたという事実が、彼らを「聖なる民」「宝の民」と呼ばれるようにしているのですね。

 改めて主イエスの十字架に感謝。「みことばの光」」にあるように、「キリストの血によって贖われた信仰者も神の宝の民であり、神のもの、神の子ども」なのです。
 そうであれば、このお方から決して離れまいという決意が生まれてきます。ふさわしく歩みたいという決意が…。
 






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