みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

終わりに

2013年11月30日 | コリント人への手紙第二
コリント人への手紙第二 13章


 11月もきょうで終わり、明日からは待降節です。。
 毎年思うことですが、10月辺りから日が過ぎるのが速い速い。さて、今年はどんな年だったのかを振り返る頃になりましたね。
 今朝、いつもおいしい桃や林檎を作っている郷里の農家から電話がありました。
 「今年は、林檎どうするの?」
 なまりがたっぷり詰まったことばに、懐かしさが込み上げてきました。

 コリント人への第二の手紙も、きょうが終章。
 三度目の訪問を前にしたパウロの、「今度そちらに行ったときには、容赦しません」とのことばにはドキッとします。強気に出ているように見えるパウロの一言一言に、コリントの教会への熱い思いが感じられます。

 ここには「不適格」ということばが繰り返されていますが、あるいはコリント教会の一部の者たちが、パウロは使徒としては不適格だという烙印を押していたというのが背景にあるのかもしれません。パウロがあまりにも強い調子でコリントの教会に手紙を送るので、「キリストはこんなに強くはない。それなのにパウロはなぜ強いのだ。それは、彼がキリストのことばを語っていないからだ」と決めつけたからかもしれません。

 パウロは、あなたがたがキリストの前に正しく、完全であって、キリストのからだが築き上げられるのであれば、自分が不適格のように見えてもよいとさえ言っています。
 そして終わりに連ねられる短い勧めは、何を願ってパウロがこの手紙を含めて厳しく語ってきたかの心を、表わしているようです。

 人気を得るためにではなく、相手がキリストにあって生き、育ち、豊かにされるために働くという、主のしもべの姿を教えられました。
    


神の御前で、キリストにあって

2013年11月29日 | コリント人への手紙第二
コリント人への手紙第二 12章11-21節


 1歳と2ヶ月の孫を見て驚いたり感心したりしています。
 たとえば…。
 鼻歌ですが、「チューリップ」と「主われを愛す」を口ずさみます。スケート選手のようにくるくるとからだを回します。明瞭なことばを用いることはまだできませんが、コミュニケーションがとれるようになりました。本人も、「わかった、わかってもらった」ということがうれしいようです。大人たちも、わかってくれたことで笑顔になります。人と人とが通じ合うのが、これほどうれしいことなのだということを、1歳2ヶ月の幼子とのおつき合いを通して、改めて覚えることができます。

 自分が紛れもなくキリストの使徒であることを、パウロはコリントの教会の人々に語っています。
 それほど、偽りを教える教師たちが教会で、パウロについてのうそを言いふらしていたということでしょう。きょうの箇所にも、「(パウロは)悪賢くて、あなたがたからだまし取った」とのことばがあります。むしろ逆だ、親が子に対してするように、あなたがたに重荷を負わせないで来たのだと、パウロは反論しているのです。

 これほどしているのにわかってもらえない、語っているのに伝わらないというもどかしさを、パウロは感じていたのではないかと想像します。あまりにも熱心に訴えるので、今度は「パウロは自己弁護をしている」と思われます。そこで、彼は「私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです」と言います。このことばが心に響きました。

 人が神の御前で語るならば、もっと正直に生きられて通じ合う喜びを味わえるようにと、都知事の苦し紛れの弁明、特定機密保護法を審議しているお偉方の姿を見ていて思います。
 そして、教会における交わりにこそ、「神の御前で、キリストにあって」が日常の姿としてありますように…。



十分である

2013年11月28日 | コリント人への手紙第二
コリント人への手紙第二 12章1-10節


 きのう、白石(宮城県)のお菓子屋さんの「谷風」という柚餅子(ゆべし)をいただきました。江戸時代の大横綱谷風にちなんで、名がつけられたのでしょうか。普段は食べませんが、なぜか東北に出かけると食べたくなる、私にとっとは不思議なお菓子です。胡麻と胡桃の風味豊かで、おいしくいただきました。
 横綱谷風について調べてみると…、ずいぶんときちんとしたデータが残っているものです。生涯の勝ち負けは何と258勝14敗(その他に引き分けや預かりもある)というのですから、勝率9割4分9厘という驚くような戦績です。

 谷風は強さを誇りましたが、パウロは弱さを誇ります。
 神からの特別な啓示を体験した「キリストにあるひとりの人」とは、パウロのこと。この啓示があまりにもすばらしいので、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられたのだと語ります。それがどんなに辛いことだったかは、去らせてくださるようにと、三度も主に願ったということばからも伝わってきます。

 しかし、「とげ」は抜けなかったのです。
 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」との主のお答えをパウロは受け止めて、大いに自分の弱さを誇ろうとするのです。

 これがなかったら、これがあったら、もっと主のお役に立てるのにと思うときがありますが、そうではないのですね。
 「十分である」との主のおことばをいただきました。
   


弱さを誇る

2013年11月27日 | コリント人への手紙第二
コリント人への手紙第二 11章16-33節


 現与党のポスターが家の近くに掲示してあります。「日本を取り戻す」というキャッチコピーの意味が次第に明らかになってきました。彼らは「いつの日本」を取り戻そうと画策しているのでしょうか。昨晩、彼らの「夢」がまた一歩実現しました。

 パウロはここで、「愚か者としてする思い切った自慢話」をしています。
 偽教師たちに良いように踏みにじられてもこらえているコリントの教会に対して、目を覚ませと言わんばかりです。こうなるのだったら、あなたがたに対してもっと強く出ていればよかったという、悔しさもにじみ出ています。

 彼が体験した数多くの難は、キリストのしもべとしての強さではなくて弱さのリストだと見ることができます。がんばってこんな目に遭っても耐えましたということよりも、弱かったのでこんな目に遭いましたということなのではないのだろうか…、と考えさせられます。

 この箇所では、「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」とのことばが響きます。彼は「誇る者は主を誇れ」とすでに書いています。弱い者を用いてみわざを行われるお方こそ、信仰者の誇りです。

 「弱さを誇る」という告白を、自分の怠惰や不実行の言い訳としないようにとも、教えられます。
    


じっとしていられないほどの心配

2013年11月26日 | コリント人への手紙第二
コリント人への手紙第二 11章1-15節


 パウロのことばが続きます。コリントの教会を思うと、パウロは心配でじっとしていられません。できれば今すぐにでも行って直接話さなければコリントの教会はどうにかなってしまう、という思いが、ここでは皮肉として現われます。

 心に留めたいのは、1節と4節の「こらえている」ということば。
 「パウロは一体どうしたのだろう?こんなに激しいことばを浴びせかけるなんて、愚かじゃないの」という反応を予想して、「私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います」と言っています。「こらえる」というのは「我慢する」ということ。つまり、パウロはコリントの教会の人々に、自分が書いているのは冷静でもなく理性的でもなく、感情に任せたものかもしれない、けれどもこらえてほしい、私はあなたがたのことが心配でたまらないのだという思いを伝えています。

 そして、4節の「あなたがたはみごとにこらえているからです」は、コリントの人々への称賛ではなく、皮肉です。
 つまり、「あんないんちきな教えに、よくもまあ、がまんできますねぇ」という意味のことばなのです。パウロは、間違った福音をこんなにもがまんして聞いて受け入れるあなたがたのことですから、私が多少感情的に激しく言ったことも、きっとがまんして受け入れてくれることでしょう、と言いたいのです。

 彼の愚かさは、心底大切な人々のいのちを守ろうとする愛から出ているのです。
 


2011-2024 © Hiroshi Yabuki