詩篇 126篇
きょうは今年の折り返し地点に当たる日。収束の兆しがない感染症、そして侵攻という課題を抱え、先が見通せない中で後半を迎えることになります。
126篇を読んで、私は「希望」ということばを思いました。涙に暮れていた者がやがて喜びと笑いとで満たされる時が来る、希望です。その鍵は、主なる神にあります。
1節に「私たちは夢を見ている者のようであった」とのことばがあります。それは、起こるはずのないこと、期待さえしなかったことが実現したということを伝えています。ネゲブ砂漠の荒野の乾いた道(枯れ川)をたどるなら、だれがここにあふれるほどの水の流れが訪れる時が来るなどと期待できるでしょうか。だれも期待しません。しかし、そんなワディ(枯れ川)にも、水がとうとうと流れる時がきます。
想像もできなかったことが自然界で起こるように、全く絶望するしかない状況の中にも、驚くようなことを神はしてくださるという希望をこの詩篇の作者は持っています。
ローマ人への手紙4章18節の「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ」たとのことばは、アブラハムについて言われているものであり、100歳にもなる自分によって子孫が与えられるのは絶望的なことでしたが、その時に神を信じたというのです。おおよそ望み薄の教会の現状を目の当たりにする時に、何も期待しないという姿勢が出てくるのかもしれません。しかし、絶望ではないのです。
今日の「みことばの光」は、シオンの復興を礼拝の場の回復だと説いています。キリスト者が置かれている教会に望みを持てないということは悲しいこと。しかし、教会の主であるお方は私たちの思いを遥かに超えたことをしてくださるのだと思うと、勇気をいただきます。キリストを信じる者に、絶望ということばはふさわしくないのです。