みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

望み得ない時

2022年06月30日 | 詩篇

詩篇 126篇

 きょうは今年の折り返し地点に当たる日。収束の兆しがない感染症、そして侵攻という課題を抱え、先が見通せない中で後半を迎えることになります。

 126篇を読んで、私は「希望」ということばを思いました。涙に暮れていた者がやがて喜びと笑いとで満たされる時が来る、希望です。その鍵は、主なる神にあります。

 1節に「私たちは夢を見ている者のようであった」とのことばがあります。それは、起こるはずのないこと、期待さえしなかったことが実現したということを伝えています。ネゲブ砂漠の荒野の乾いた道(枯れ川)をたどるなら、だれがここにあふれるほどの水の流れが訪れる時が来るなどと期待できるでしょうか。だれも期待しません。しかし、そんなワディ(枯れ川)にも、水がとうとうと流れる時がきます。

 想像もできなかったことが自然界で起こるように、全く絶望するしかない状況の中にも、驚くようなことを神はしてくださるという希望をこの詩篇の作者は持っています。

 ローマ人への手紙4章18節の「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ」たとのことばは、アブラハムについて言われているものであり、100歳にもなる自分によって子孫が与えられるのは絶望的なことでしたが、その時に神を信じたというのです。おおよそ望み薄の教会の現状を目の当たりにする時に、何も期待しないという姿勢が出てくるのかもしれません。しかし、絶望ではないのです。

 今日の「みことばの光」は、シオンの復興を礼拝の場の回復だと説いています。キリスト者が置かれている教会に望みを持てないということは悲しいこと。しかし、教会の主であるお方は私たちの思いを遥かに超えたことをしてくださるのだと思うと、勇気をいただきます。キリストを信じる者に、絶望ということばはふさわしくないのです。


主は…囲まれる

2022年06月29日 | 詩篇

詩篇 125篇

 久しぶりに麦畑の中を歩きました。「目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっています」という主イエスのことばが浮かんできます。

 この詩篇は、主に信頼する人をエルサレムの町にたとえて、歌い上げています。私たちは毎日意識するしないにもかかわらず、いろいろな物や人を信頼して生きています。バスや電車に乗るときも、行き先を信頼して利用します。新幹線を利用するとき、「新大阪行」という表示を疑うことはありません。

 しかし、そのような信頼が揺るぐときがあります。揺るぐというと地震を思うのですが、なぜそれは不安をかき立てるのでしょうか。動くはずのないと思っている大地が揺れ動くからです。電車やバスに乗って揺れの中にいても、不安を感じることはありません。揺れるものだと考えているからです。

 あってはならないはずのことが起こる、それでも揺るぐことがないのは、主に信頼しているからなのだと詩人は歌うのです。エルサレムの町は山々に囲まれています。天然の要塞だとも言われるほどです。そのように、主はご自分に信頼する者を囲んでおられるのです。これほど安全なことはありません。

 平和とは、完全な守りの中で実現します。その、完全な守りを約束しておられるのは神おひとりなのです。


繰り返すことば

2022年06月28日 | 詩篇

詩篇 123−124篇

 連接バスに乗りました。ずいぶんと長さがありますが、ロータリーを上手に回る運転に驚きました。

 きょうは二つの詩篇を読みます。

 123篇では、繰り返される「いっぱいです」ということばが目に留まります。そのように神に訴えているのは「私たち」です。ひとりではなく民が、蔑みに会っているのです。

 もう一つ目に留まるのは「あわれんでください」と、繰り返されていることば。彼らが蔑まれているのは、自分たちが神のみこころに背くようなことをしたためだということを考えさせられます。どんなに神の心にかなわない者であったとしても、私たちをあわれんでくださいと窮状を訴えることができるのは、まさに神のあわれみです。

 124篇は、前篇とのつながりで味わうとしたら、主が彼らをあわれみ、救ってくださったことへの感謝と賛美だと読むことができます。ここでも、「もしも 主が私たちの味方でなかったら」ということばが繰り返されています。同じことばを繰り返すのは、詩の手法の一つかもしれませんが、詩人が心からそのように思っているのだということが伝わってきます。

 かつては敵であった者が、今は「主が私たちの味方」だと言うことができるのは、キリスト者にとっては、ただイエス・キリストによってだけなのだと、感謝が心から湧いてきます。


愛の強さ、激しさ

2022年06月27日 | 雅歌

雅歌 8章

 雅歌の終章。信仰をもって間もない頃、5節の「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上って来る女の人はだれでしょう」をそのままテーマにした話を聞いたことがありました。内容はすっかり忘れてしまいましたが、不思議なテーマだと今でも覚えています。

 雅歌は男性と女性の対話だけでなく、その合間に「エルサレムの娘たち」と呼ばれている人々を初めとして、幾人かの登場人物がいます。「自分の愛する方に寄りかかって…」と尋ねたのは誰か、エルサレムの娘たちだとも考えられます。こんなふうに思われ、ことばをかけられたら、どんなに嬉しいことかと思いました。最初ははやし立てていた彼女たちも、今は二人の愛が真実なものだと認めるのです。

 6−7節は、たとえば「オラトリオ雅歌」という曲があったとしたら、最も強烈な部分でしょうか。愛は押印になぞらえられます。一度印を押したら決して消されることはない、他者が介入する隙はない、だれも愛の炎を消すことはできないほどのものだと、響き渡るのです。これほどのものだからこそ、財産を持ってしても手に入れることができず、そんなことをしようものなら、周囲からの蔑みを受けるのは必至だと歌います。

 ここを読んで、神の愛を思いました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」というヨハネの福音書3章16節のことばが心に湧いてきます。

 


帰りなさい、帰りなさい

2022年06月25日 | 雅歌

雅歌 6章

 シュトゥットガルトを訪ねました。開始時刻よりも1時間以上も早く到着したので、会場のそばの森を歩きました。町の中にあるのかと思えるほどの広さで、時間内では森の端まで行くことはできませんでした。

 雅歌をここまで読んできて、若い男性と女性の出会い、互いの美しさや素晴らしさをほめ合う、愛し合って結婚へと進む、行き違いから夫がいなくなってしまう…と話は進んできました。けれども、結婚は決して二人だけの愛のストーリーではなくて、家族や周りの人々の愛や支えによってさまざまな危機を乗り越えて行くことを知ります。

 二人のことを冷やかし気味にはやしていた「エルサレムの娘たち」は、ここでは「私たちも、あなたといっしょに捜しましょう」と、妻が夫を捜すのに、協力を申し出ています。2節は、そんな申し出を素直に受け止められずに、「あの人のいるところは知っています」とムキになっているようにも思えます。

 一方、夫は妻への愛をどこかにやってしまったのではありません。彼は、離れていても妻の美しさをほめるのです。しかも、まるで自分の目の前に妻がいるかのようにして、「あなたの…」と。その賛辞はこれまで何度もたとえられてきたこと、しかし、それは決してマンネリなどと言うものではありません。夫の妻への愛が何ら変わりがないということを、伝えているようです。

 だれが妻に、「帰りなさい。帰りなさい」と呼びかけているのかははっきりしません。しかし、ここでも二人の関係を気遣う隣人がいます。


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