エゼキエル書 3章
前任の方から譲り受けたタンスの調子が悪いので見てみたら、ネジが緩んでいました。締め直そうとして、なんと! バラバラにしてしまいました。さあ、どのようにして元どおりにできるだろうか不安になりながらも、ホームセンターでネジを買い求めて取り組みました。どうしても埋まらない接合部は接着剤を用いることにして…、組み立てることができました。これでまた、しばらく使うことができます。
「哀歌と、嘆きと、悲しみ」が書かれてあった巻き物は、エゼキエルには蜜のように甘かったとあります。このことについて「みことばの光」は、「神の義を示すことばは、罪人である私たちには、口にするには苦く、嘆きと悲しみを感じさせる。それは決して甘いとは思えないものだが、厳しいみことばに触れることで、偽りの道から立ち返り、行くべき道を照らしてもらえる」と説いています。即効性の甘さではなくて、最初は苦みを感じながらも、味わい深い甘さを味わえると言うことでしょうか。
ここには、語る者の姿というか、あり方が示されているように読みました。一つには、語る者がまず神のことばを味わうことがなければ誰かに伝えることはできないということが示されています。牧師であれば、説教のために聖書を読むのではなくて自分自身のために神のことばを読めということです。どれほど詳しい解説書を用いて、その箇所の意味を説き明かすことができたとしても、自分のために読むことをしていなければ人のたましいに届くのは難しい、ということを改めて教えられます。
エゼキエルが霊によって動かされている様子にも目が留まります。昨日、聞く耳を持たない「鉄面皮」の人々にそれでも語るのだとしたら何が動機になるのだろうか、と書きましたが、「霊が語る者を動かして…」なのです。聖霊が人を持ち上げ、人のうちに入り、立ち上がらせるから語るのです。