みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

語る者の姿

2017年08月31日 | エゼキエル書

エゼキエル書 3章

 前任の方から譲り受けたタンスの調子が悪いので見てみたら、ネジが緩んでいました。締め直そうとして、なんと! バラバラにしてしまいました。さあ、どのようにして元どおりにできるだろうか不安になりながらも、ホームセンターでネジを買い求めて取り組みました。どうしても埋まらない接合部は接着剤を用いることにして…、組み立てることができました。これでまた、しばらく使うことができます。

 「哀歌と、嘆きと、悲しみ」が書かれてあった巻き物は、エゼキエルには蜜のように甘かったとあります。このことについて「みことばの光」は、「神の義を示すことばは、罪人である私たちには、口にするには苦く、嘆きと悲しみを感じさせる。それは決して甘いとは思えないものだが、厳しいみことばに触れることで、偽りの道から立ち返り、行くべき道を照らしてもらえる」と説いています。即効性の甘さではなくて、最初は苦みを感じながらも、味わい深い甘さを味わえると言うことでしょうか。

 ここには、語る者の姿というか、あり方が示されているように読みました。一つには、語る者がまず神のことばを味わうことがなければ誰かに伝えることはできないということが示されています。牧師であれば、説教のために聖書を読むのではなくて自分自身のために神のことばを読めということです。どれほど詳しい解説書を用いて、その箇所の意味を説き明かすことができたとしても、自分のために読むことをしていなければ人のたましいに届くのは難しい、ということを改めて教えられます。

 エゼキエルが霊によって動かされている様子にも目が留まります。昨日、聞く耳を持たない「鉄面皮」の人々にそれでも語るのだとしたら何が動機になるのだろうか、と書きましたが、「霊が語る者を動かして…」なのです。聖霊が人を持ち上げ、人のうちに入り、立ち上がらせるから語るのです。

 

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預言者が遣わされる相手

2017年08月30日 | エゼキエル書

エゼキエル書 2章

 ここ数日残暑が続きます。予報によるとそれも明日まで。9月の訪れとともに気温がぐっと下がるようですね。

 エゼキエルを神が遣わすのは、同胞のイスラエル。エゼキエルとともにバビロンに捕囚され、希望を失っている人々です。しかも彼らは、そのような目に遭っているのが自分たちが神に背いたことによるのだということを認めてはいないのです。それは、この章に5回も繰り返される「反逆の家」ということば。

 エゼキエルは、そのような彼らに神のことばを語るために遣わされているのです。そして、聞き手がエゼキエルのことばに耳を傾けないことをもあらかじめ神は伝えておられます。しかも神は、エゼキエルに「恐れるな」「ひるむな」「聞いても聞かなくても語れ」と覚悟を迫るのです。さらに、彼が語るように神からいただいたことばとは、「哀歌と、嘆きと、悲しみ」です。神はエゼキエルのことばによって、民に悔い改めを求めておられるのです。

 誰かに何かを伝えようとするとき、どのようにしたら聞いてもらえるか、自分が語ることを人は受け入れてくれるのだろうかと考えます。賛同し、うなずいてくれる人がいることが語る人の励ましにもなります。けれども、初めから聞く耳を持とうとしない人々に、しかも、厳しいことばを伝えるのだとしたら、思わず後ずさりし、「他の人に変わってほしい」と言ってしまうかもしれません。それでも語るのだとしたら、何が動機になるのだろうかと考えさせられます。

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捕囚の民とともに

2017年08月29日 | エゼキエル書

エゼキエル書 1章

 「みことばの光」では、きょうから11月までエゼキエル書を読みます。

 エゼキエル書には、36章の「肉の心」とか37章の「干からびた骨の復活」、そして47章の神殿から流れ出る「すべてを生かす川」などとよく知られた箇所もあるのですが、それらを繫いで一つの書として何が語られているのかを知るのは、難しいのかもしれません。などと書きますと、最初から読む意欲を失わせるように響きますね。「みことばの光」をそばに置きながら、少しずつ読み進めていきましょう。

 1章には、エゼキエルについての少しの紹介、エゼキエルが何を見て、何を聞いたかが書かれています。エゼキエルは南王国ユダがバビロンによって滅ぼされたころに神がお立てになった預言者です。ちなみにエレミヤという預言者は、エルサレムにいて国が崩壊するその場にいて神のことばを語り、エゼキエルはバビロンに捕囚された民の中で神のことばを語りました。さらにダニエルは、バビロンに連れて行かれた若者たちのひとりとしてバビロン王をはじめ権力者に仕えました。

 1節の「ケバル川のほとり」とは、バビロンのユーフラテス川とつながる運河だと言われています。彼はそこに、捕囚された同胞とともにいたのです。遠くエルサレムから離れて敵国の地に住む彼らは、神からも遠く離れてしまったという思いに駆られたことでしょう。しかし、この章では、そこに主がともにおられることを目で見、耳で聞いてまずエゼキエルに確信させるのです。

 「思えば遠くに来たものだ…」という昔はやった歌がありますが、そんな感傷に浸るような余裕は彼らにはありませんでした。しかし、そこにも主はおられるのです。どれほど大きな励ましとなったことでしょう。

 

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わたしは彼らにおり

2017年08月28日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 17章20−26節

 礼拝の後、手作りの太巻きをいただきました。日本にいる時には当たり前のようだった日本の食べ物が、こちらではごちそうになります。皆さんといっしょに食べることによるおいしさもあるのでしょうね。ごちそうさまでした!

 20節の「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」との祈りは、弟子たちのための祈り(6-19節)を父なる神が完全に聞き届けてくださったことを前提にしての祈りです。もしも弟子たちがイエスが行ってしまわれた後の厳しい試練や迫害の中でこの世にのみ込まれてしまったならば、20節以降の祈りは成り立ちません。

 ここで祈っておられるのは、弟子たちのことばによってイエスを信じる人々のための祈りです。つまりそれは、私たちのため、教会のための祈りです。イエスは、二つのことを父に願っています。「お願いします」ということばが20節と24節にあるのが二つが何なのかを見つけるために役立ちます。

 一つめは、「一つになるように」という祈りです。その一つとは、「わたしたちが一つであるように」なのです。つまり、三位一体の神の父と子の関係が彼ら(私たち)の一つであることのモデルだというのです。驚くような「一つ」の姿です。どのようにしてそれが…? 「わたしは彼らにおり」が鍵です。

 「わたしは彼らにおり」ということばを心に留めます。イエスが私のうちにおられるという、信じる者に約束された事実があらゆる相違を乗り越えて一つにしていくのです。ちょっとした違いでも気になるのがお互い。同じお方が内に生きておられるということが、違っていても一つに至らせるのでしょうか。不思議な結びつきです。

 

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信じる者の患難

2017年08月26日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 16章16−33節

 子ども集会でおじゃましたお家の近くに美味しそうな赤い実をつけた木が…。そのお家の方に「食べられますか」と尋ねたら、「食べたけれどもそれほど美味しくはなかった」との答えでした。気になったので、帰りに一粒食べてみました。すっぱーーい! 眠気が一気に吹き飛ぶような味でした。

 イエスがお教えになっていることに、ここに来て弟子たちが反応を示しました。それは、13章33節、36節に続き、ここでもイエスが彼らのところから去って行くとおっしゃっていることが彼らには理解できないのです。「私たちには主の言われることがわからない」と彼らは言っています。イエスがここで、しばらくするとわたしを見なくなるがまたしばらくすると見る、嘆き悲しむが悲しみは喜びに変わる、苦しみがあるが喜びに変わるとおっしゃることばに目が留まります。

 聖書を読む私たちは、この後イエスがどのようになられるのか、そして弟子たちがどうなるのかを知ることができるのですが、弟子たちはそうではありません。自分たちの期待と違ったことをおっしゃるイエスのことばがわからないのです。その彼らが、29、30節でイエスを「あなたが神から来られたことを信じる」と言い表しているのですから、驚くような信仰の表明です。しかし、そのような立派な信仰を告白しても彼らは、イエスが逮捕され、十字架につけられる中で、イエスを捨ててしまうのです。だからといって、イエスは弟子たちをダメだとはおっしゃいません。

 時折、いやしばしば、自分の身に起こることの意味がわからずに、嘆き苦しみます。この辛さがいつまでも続くのではないかと恐れます。しかし、弟子たちに先の展望、希望を与えておられるイエスは、私たちにも同じようにしてくださるのだと信じます。なぜそう言えるのか……。主は世に勝ったお方だからです。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki