みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

押し出された人々

2013年03月30日 | 受難と復活
ルカの福音書23章44-55節


 昨日の受難日、日本では官庁や多くの企業が年度末の金曜日ということで、田舎町でも金融機関や道路はいつもより混んでいました。そして「桜渋滞」。今朝のウォーキングでは、公園の歩道に桜の花びらのじゅうたんが敷かれていました。

 イエスの十字架はそばにいた人々に様々な変化をもたらしました。きょうの箇所には、イエスを埋葬した人々の名も記されています。そのひとりがヨセフです。ヨセフについては、4つの福音書とも記しています。

 マタイの福音書は、ヨセフを金持ちで、イエスの弟子になっていたと紹介し、イエスのからだを自分が作った新しい墓に埋葬したと記します。
 マルコの福音書は、自ら神の国を待ち望んでいた有力な議員のヨセフが、思い切ってピラトにイエスのからだの下げ渡しを願ったと書きます。
 ルカの福音書では、議員のひとりで、りっぱな正しい人であり、議員たちの(イエスを殺害しようという)計画や行動には同意しなかったと記されています。
 ヨハネの福音書は、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れて自分が弟子であることを隠していたと紹介し、ニコデモとともにイエスのからだを埋葬したと書いています。

 十字架がヨセフを、そしてニコデモを押し出して、「ああ、あの人もイエスとともにいたのね」と指さされる者となったのです。
 
 みんなが一つの方向に流れていこうとする中で、しかもその方向が自分が大切にしているものとは正反対だとしたら、その中にいる自分はどのように考え行動するのだろうかと、ヨセフの姿を通して考えます。

    


思い出してください

2013年03月29日 | 受難と復活
ルカの福音書23章32ー43節


 受難日。「寒くないね」と目ざめました。教会の庭に一本だけあるひょろひょろしたアーモンドの花が満開。隣の桃の花に比べるとちょっぴり淡いピンク色です。 Img_0564

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
 「みことばの光」に、「この祈りによって、これまでどれほど多くの罪人がイエスを信じて救いを賜ったことだろうか」とあります。
 私もその一人です。

 1971年、大学三年の秋、日曜日の夜に近くの教会を訪ねました。
 教会で行われていた伝道会で、その晩牧師が語っていたのがこの箇所。「赦し」と言うことがいつも心にかかっていた私は、イエス・キリストの祈りに魅入られました。
 痛めつけられ苦しみの極みにある人が、痛めつけている人々のために「お赦しください」と祈る姿に驚き、違和感さえ覚えました。イエスは自分とは全く違う、と思ったのです。

 聖書もほとんど読まず、教会で何がなされるのかを調べもしない、はじめての私が、伝道会のあとに牧師の勧めでイエス・キリストを救い主として心に迎えました。「おめでとう」と言われても、何がおめでたいのかがよくわからずにアパートに戻りましたが、心には喜びがありました。

 イエスと共に十字架につけられた強盗の一人は、間近にイエスの態度を見、「彼らをお赦しください」とのことばを聞いて、イエスがどなたであるかを教えられ、自らの罪の大きさを思います。わずかの時間しかそばにいなかった彼が、どうしてイエスの真の姿を知ったのかは驚くべきことです。

 さらに、彼は「私を思い出してください」とのことばを口にします。イエスは、彼のことばにご自分への信仰を見て、救いを約束されました。
 これぞ福音!

  


代わりに…

2013年03月28日 | 創世記
創世記36章20-43節


 朝歩き。いつもと違う通りを歩いてみると…、こんなものがあります。Img_0585蕎麦屋さんです。おいでの折はお立ち寄りください。

 聖書を通読(創世記から黙示録までをとばさないで読むこと)している中には、読みにくい箇所、飛ばしてしまいやすい箇所があります。きょうの箇所も、スキップしたい誘惑に駆られる箇所ではないでしょうか。そのような箇所を読むときには、メモを取るようにしています。私の場合は、コンピュータの「聖書通読ノート」に一人ひとりの人物名を整理して打ち込んでいきます。だからといって、よくわかるということではありませんが、読み飛ばさないでゆっくりその箇所に「滞在」するためにしている、と言えばよいのでしょうか。

 聖書に「温泉」が登場するのは、ちょっとした発見。この箇所にだけ「温泉」ということばが登場します。そういえば、1月にイスラエルを訪ねた時、死海の西岸にある温泉のそばを通ったことを思い出しました。
 この箇所には、エサウが移り住んだセイルの首長たちのことや、エドムの地で治めた王たちの名前、そして改めてエサウから出た首長たちの名前が連ねられています。

 考えたのは、エサウの一族が次第に先に住む人々と混じり合っていったということ、エドムでは王が亡くなると、子どもではない者が王になっていったということです。ここに見られる王たちのリストは、歴代誌第一1章後半にも再度出てきます。
 エサウが移り住んだ地の権力者たちのリストが聖書にあるというのは、エサウがアブラハムの孫、イサクの子であり、神の顧みの対象だということを語っているのだと思います。

 名前しか載っていない人々にもそれぞれの人生があり、家族がいて、仲間がいて、敵がいて、働きが、喜びが、悲しみが…あったと考えると、「面倒くさい」と読み飛ばせないような気持ちになります。


エサウの歴史である

2013年03月27日 | 創世記
創世記36章1ー19節


 満開の桜の下で、「次は私だ」とばかり、紫陽花の若葉がみずみずしく存在を主張していました。Img_0582_2

 36章にはヤコブの兄のエサウのことが記されています。
 エサウはヤコブの兄。だまされて長子の権利と祝福とを奪われ、ヤコブへの殺意を燃やしますが、20年ぶりの再会の折には、ヤコブを気持ちよく赦し、ヤコブとは別の場所に移り住むことを受け入れます。
 エサウやヤコブの写真などあるはずがないのですが、聖書に登場する多くの人物の中で、エサウとヤコブがどんな表情をし、どんな人柄であるかを想像してしまいます。

 聖書がなぜ神の祝福の「主流」から外れてしまったエサウの歴史を細やかに記すのかを、考えました。一つには、のちにイスラエルの民がエサウの子孫であるエドムとどのように関わるのかの伏線に、という意味もあるのかもしれません。
 もう一つは、神がすべての民の神であるということです。神はアブラハムの子イサクを約束を受け継ぐ者としてお選びになりましたが、そばめとの間に生まれたイシュマエルを心にかけてくださいました。そしてエサウです。
 
 いつの間にかクリスチャンは、「神さまは、自分たちだけを特別に…」と考えやすいのではないでしょうか。
いいや、すべての人にとっての神なのだということを、キリストはすべての人の罪を贖うために十字架にかかられたことを、エサウとその子孫一人ひとりの名を刻むこの章を読みつつ覚え、自分の心の狭さを恥じました。





立って、ベテルに

2013年03月26日 | 創世記
創世記35章


 「花冷え」とは、「桜の咲く時期の一時的な冷え込み」とありますが、今朝はそんな空気を感じました。
 関東地方は桜が満開。桜の花は、青空がよい背景になります。これから「桜前線」が北上するのです。東北や北海道の方は、待ち遠しいでしょうね。

 しばらく前、札幌からの帰りに夜行寝台に乗りました。雪が積まれていた札幌を夕方出ると、盛岡の早朝の車窓には桜が、栃木県に入ると田植えが済んだ水田が広がっていました。住んでいれば何ヶ月かで体験する季節の変化を十数時間で味わうことができて、得した気分だったことを思い出しました。

 「神は人生の坂道に語りかけられる」という意味のことばを聞いたことがありますが、ヤコブにもそうではなかったでしょうか。
 子どもたちの「行き過ぎ」で、せっかく購入した地に住み続けるのが難しくなったヤコブに、神が語りかけられます。ベテルに行けというのです。ベテルとは、かつて逃げるようにして一人で伯父の家を目ざしていた時に、神が彼の傍らに立って、祝福を約束された地です(28章)。
 
 これでヤコブの心は定まりました。彼は、購入した地を捨て、そこに築いた祭壇を置き、自分と一緒にいる者たちにも異国の神々や飾り物を捨てさせて、同行するように促します。

 心に留めたのは、ヤコブのことば。
 「…私たちは立って、ベテルに上っていこう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」
 思い悩み、あれこれと迷うとき、神のことばが決断を促すということが、私にも何度もあったことを思い起こしました。気づかないままにいるときもあるのですが、神は「いつも私とともにおられた」のです。


   


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