列王記第一 18章25−46節
「主の手がエリヤの上に下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入口までアハブの前を走って行った。」列王記第一 18章46節
このブログは日曜日には記事をアップしませんので、5月はこれが最後。ブログのプロバイダーが毎日、「あなたは1年前にはこんなことを書いていたのですよ」というメールを送ってきますので、時々1年前を振り返ります。すると、5月29日には、サムエル記第一 31章を読んでいました。ちょうどサウル王がギルボアの戦いで殺される箇所です。イズレエルの平野の東側のギルボア山の麓でいのちを落としたサウル、そしてきょうは同じイズレエルの西にあるカルメル山上でバアルの預言者450名を相手に一人で立ち向かう預言者エリヤが描かれているのです。
カルメル山は、そこを訪ねる前には神秘的な山だと勝手に思っていましたが、実際には標高はそれほどでもありませんでした(546メートル)。しかし、そこから日北東に目を遣ると、イズレエルの平原が見渡せます。キション川はどこかとガイドの方に聞きますと、やはり思ったよりも小さな流れでした。けれども、エリヤが神に祈り、その「戦い」の後に海に上る雲を山上から見たであろうその地に立ったときのことは忘れられません。
バアルの預言者たちの騒々しさ・動に対し、エリヤを静と形容するのがふさわしいと、ここを読みました。
印象に残るのは46節のことば。エリヤが激しい雨の中、裾をたくしあげてイズレエルの入口までアハブの前を走る姿です。エリヤはこの時、アハブ王を行くべき所に行けるようにと動いています。自分のいのちを狙う相手に配慮するのです。鍵は「主の手がエリヤの上に下ったので」ということば。乗り越えるのが難しいと思われるような局面で、人の思いを超えた態度や行動ができるのは、主の手が述べられた時のみなのだと教えられます。
*カルメル山上からイズレエルの平原を望む