創世記 27章1−29節
古墳公園のそばに美味しいソフトクリームを売るお店ができたと聞き、孫たちと行きました。そこで旧知の方とほぼ8年ぶりに遭遇。会いに行きたいと思っていたところでしたので、また、その方も午前に私のことを話しておられたとのことでした。
ここには、長子エサウを祝福しようとしたイサクが、二男のヤコブをだまされて祝福してしまうという出来事が書かれています。神の前で父親がわが子を祝福するという行為は、人の都合によって変更されてはならないものでした。この場合は、遺言の意味合いを持つものでしたので、なおさらのことです。
父イサクはエサウを、母リベカはヤコブを偏愛していたということが、この出来事の前提にあります。しかし、この出来事は単に父親が、母親が、だまされた、だましたということだけで片づけてしまうものではないのだと気づかされます。
25章23節は、双子が生まれた前、神がリベカに言われたことばです。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、 兄が弟に仕える。」
その時以来「……兄が弟に仕える」ということばを、リベカはずっと心に留めておいたのでしょう。そして、夫イサクがエサウを祝福したいと言った時、リベカは偽ってでもヤコブが祝福されるようにと行動しました。
祝福に偽りが入り込むなどあってはならないと考えるのですが、同じようなことが今も、私たちには起こります。そしてそのようなことさえも用いられて、神のわざが進むという不思議が起こります。そこに悩みや争いも生じるのだと知らされる箇所です。
だからといって、偽ってもごまかしてもよい、ということではありませんが……。