みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

大牧者が現れる時

2020年03月11日 | ペテロの手紙第一

ペテロの手紙第一 5章

 月火と訪ねたブリュッセルの地下鉄のとある終着駅に、同労の方が案内してくださいました。なんと、子どもたちがぼろぼろになるまで読んだ「タンタンの冒険」の作者エルジュによる絵が駅の壁一面に描かれているのです。

 この手紙の終りに、ペテロはまず、諸教会の長老たちに勧めます。今なら牧師でしょうか。その際に、彼は自分のことを三つのことばで明らかにしています。

 初めは、「同じ長老の一人として」ということばです。このことばを目にしたそれぞれの教会の長老たちは「ああ、自分は孤独ではない」、ペテロも自分と同じ働きをしているのだという思いを抱き、ペテロのことばに、より注意を払うことになったのではないかと想像するのです。

 次は、「キリストの苦難の証人」ということば。ペテロは主イエスの弟子として、主の十字架と復活を目撃しました。けれどもそれは、弟子として何の落ち度もなく立派に証人としての務めを果たしたというよりも、「穴があったら入りたい」と思うようなことでした。

 けれども彼は、主のあわれみによって赦され、キリストの苦難の証人としての歩みを許されたのです。苦難を経験している多くの長老たちにとって、これは大きな励ましでした。

 そして、「やがて現される栄光にあずかる者」と自分のことを言っています。苦難の中で心が弱り、くじけそうになる長老たちもいたことでしょう。何がゴールに待ち構えているのかが見えにくくなるときに、やがての時、大牧者が現れる時に目を向けるようにとのことばは、どんなに彼らを力づけたことでしょう。

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心を整え身を慎め

2020年03月10日 | ペテロの手紙第一

ペテロの手紙第一 4章

 欧州でも新型コロナウィルスの感染者の増加は急で、ドイツも感染者数が1000人を越えたと報じられています。イタリアの北部も町が閉鎖され、ミラノにある日本語教会も一緒に集まっての礼拝ができずに、牧師がメッセージをメールで送るなどの対応をしていると報告されています。祈りましょう。

 4章はこのような危急の時にどのようにいるのか、何を為すのかということについて私たちが耳を傾けるべきことばを届けているように読みました。

 7節に「万物の終りが近づきました」とあります。ペテロは今から2000年近く前にこのことばを残しました。そして、ペテロのこのことばはいつの時代も、そして今も過去のものとして捨てられることなく、信仰者たちがいつを生きているのかの確認を迫っています。漫然と、「明日も今日と同じだろう。そしてその先もずっと…」として過ごすのではないのだと…。

 万物の終りが近づいているのだから、仕事も手に付かない、何をしたらいいのか分からないというように不安に駆られるのは神を畏れない人々の姿。神の民はそうではない、とペテロは書きます。

 祈りなさいと命じます。信仰のゆえに直面する苦難にひるまず退かないために神に祈るのです。ペテロは十字架を前にして主イエスがゲッセマネで祈られた時、ほかの弟子とともに眠り込んでしまいました。あるいは彼は、この勧めを書きながら自分の姿を思い出していたのかもしれません。

 互いに熱心に愛し合いなさいと命じます。愛し合うとは、互いにもてなし合うこと、互いに賜物を用いて仕え合うことを勧めるのです。今回のような出口が閉ざされているような事態の中でも、仕え合う道は必ず神によって備えられているのだと、強く促されます。

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善を行え

2020年03月09日 | ペテロの手紙第一

ペテロの手紙第一 3章13−22節

 日曜日は当地から200キロほどのケルンにある日本語教会の礼拝に出席しました。前回は鉄旅でしたが、今回は新型コロナウィルスのこともあり、自動車で向かいました。私の場合は一年に一度の訪問なのですが、皆さんが変わらずに礼拝に出席しておられる姿に勇気づけられました。

 ペテロの手紙は、2章11節から新しい神の民であるキリスト者がこの世でどのように生活するのかについての勧めが連ねられています。キリスト者にとってこの世での立場は寄留者、旅人です。だからといって、「旅の恥はかき捨て」などと言うような生き方ではなく、足が地に着かないような生き方ではなくて、立派に生きるようにと勧めるのです。

 13節には、「もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」とあります。「みことばの光」に「楽観的な信頼」ということばで説明されています。確かに、キリスト者が良い生き方をしていれば誰も害を加えないというのは、そうなのかもしれません。しかしペテロはすぐ後に、「義のために苦しむ」「人々の脅かし」ということばを続けています。

 楽観的な信頼などすぐに崩れる、現実はそんなに甘くはないと言いたいのでしょうか。そうではなくて、どんなに苦しむことがあっても、脅されるようなことがあっても、そのことを正しい態度で受け止めるならば、害を加える者は誰もいないと言いたいのではないでしょうか。

 興味深いのは19節。解釈の難しい箇所ですが、聖書新改訳はここの動詞を「宣言しました」と訳します。参考までにその前の版の新改訳聖書は「みことばを語られた」と訳し、新共同訳聖書は「宣教されました」と訳しています。諸説ありますが、20節とのつながりで考えると、ここではキリストがノアの時代に堕落した御使いたちにご自分の勝利を宣言されたというように理解することができます。

 すべてに勝利するキリストがともにおられる生活なのですから、だれも害を加えることはできないのです。

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自由な者として

2020年03月07日 | ペテロの手紙第一

ペテロの手紙第一 2章11−25節

 ある方から、以前から欲しいと思っていた本をいただきました。しかも全集のかたちで…。当地で日本語の本をいただけるなんて、びっくりするような贈り物です。少しずつ読み進めていこうと思います。

 この手紙でペテロが用いてきた「寄留」ということばが、「旅人」ということばと並んで、ここでも用いられています。「旅人」は旅をしています。「寄留者」は定住の地を離れた所で生活しています。どちらも不安定な立場。感染力の強いウイルスが世界中に広がりつつある中、旅をし、寄留する人は普段の何もない時とは違う緊張感を味わうことになります。

 各地に散らされたキリスト者たちに、ペテロはここで何を勧めるのでしょう。肉の欲を避けて異邦人の中で立派にふるまえと言うのです。異邦人の中に寄留しているのですから、悪人呼ばわりされることもあります。だからと言って縮こまることなく、暴力的になることなく立派にふるまうのを見て、やがてまことの神を知らない人々が神をあがめるようになるとの約束、希望があります。

 16節の「自由な者として」ということばを心に留めます。自由な者として異邦人の地に寄留する、自由な者として人が立てたすべての制度に従うのです。「長いものには巻かれろ」というのではなく、キリストによって自由を得たのだから、神への信頼に基づいて立派にふるまい、従います。

 流されたほうが、巻かれたほうが楽なのかもしれません。けれども、それは自由な者にふさわしくないのです。からだは縛られても、魂は縛られていないのですから。

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生ける石

2020年03月06日 | ペテロの手紙第一

ペテロの手紙 2章1−10節

 春先の天候はなかなか定まらず、きのうは午後から雨。雨音が天窓を打っています。今は日本との時差が8時間ですので、この原稿を書くのは概ね当地時刻の夕方の6時頃になります。そろそろお腹が空いてきて…という頃に、みことばの糧をいただけるのはありがたいことです。

 2章は「ですから」ということばに始まります。前に述べた「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きたいつまでも残る、神のことばによるのです」を受けてのつなぎのことばです。神のことばによって新しく生まれたのだから、もう古い人ではない。だから、古い人が思い行っていたものを捨てよ、と勧めるのです。

 そして、赤ちゃんがお乳によって成長するように、新しく生まれたキリスト者は神のことばという霊の乳を慕い求めよと勧めるのです。神のことばによって生まれ、神のことばによって成長するのがキリストにある新しいいのちです。

 先日ある方が、朝目覚めて一番に思うのは神さまのことでありたいと話しておられました。数年前に新しく生まれた方がそのようなことを話されたのに、とても感動しました。神さまは、みことばによってその方を成長させてくださったのです。それとともに、尊敬する同労の先輩が「一日の初めに読むのは新聞ではなくて聖書」と、以前に話しておられたのを思い出します。

 キリスト者の成長とは、ともに生きる者としての成長。ペテロはそれを建物にたとえます。キリストが建築工事の折に必要がないものだとして捨てられた石にたとえられ、神には選ばれた「尊い生ける石」だと言います。そして、キリスト者も「生ける石」として、霊の家に築き上げられるのだと続けます。

 神のあわれみを受けて、このような務めに用いていただけるのです。

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2011-2020 © Hiroshi Yabuki