みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

真理のうちを歩む

2023年10月31日 | ヨハネの手紙第三

ヨハネの手紙第三

 日曜日朝から冬時間が始まったのですが、一時間得する日(余計に眠っていられるという意味で)ということで、体のどこかが興奮してかえって早く目覚めてしまいました。来年こそ……!

 ヨハネの手紙の三通目も、二通目と同じ始まりで、「私は本当に愛しています」という挨拶で始まります。二通目の宛て先は「選ばれた婦人とその子どもたち(おそらく教会をそのようにたとえているのかもしれません)」ですが、この手紙は「ガイオ」宛です。

 ヨハネはガイオのことを「真理に(のうちに)歩んでいる」と三回書いています。「真理のうちに歩む」ということばは、二通目の手紙にも書かれています。ヨハネが教会やクリスチャン、特に指導者に必要だと信じているのは、「真理のうちに歩む」ということでした。「真理」ということばは、哲学や神学のように響くかもしれませんが、ヨハネが「真理」ということばを用いるときには、イエス・キリストが重なります。

 「歩む」ということばが私の心に留まりました。それは知識として知っているだけでなく、知っていることにふさわしく生きるということです。ここでヨハネはガイオのことを、よそから来た人々のための働きを忠実に行っていると言っています。「よそから来た人々」とは真理の教えを携えて来た教師たちのことだと思います。彼らをガイオはもてなし、また次のところへのところへと送りました。ヨハネはそのことを聞いて、たいそう喜んでいるのです。そのようなガイオとは対照的なのがディオテレペスでした。

 「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」とヨハネが一通目の手紙で勧めていることばを思いました。


「先を行って」はならない

2023年10月30日 | ヨハネの手紙第二

ヨハネの手紙第二

 久しぶりにスピード違反の封書が届きました。ドイツ南部の高速道路で制限速度120キロのところを128キロで走り、8キロオーバーとのこと。運転している私の顔も写っていて逃れられません。反則金の20ユーロを振り込みます。

 ヨハネが記した二通目の手紙を開いています。この手紙は個人的な色合いが強いものですが、内容はすべてのキリスト者に届けられています。最初の「長老」とは、この手紙を書いたヨハネ自身を指しています。この短い手紙にはヨハネという名前は登場していないので、ヨハネが書いたのではないと考える人もいます。

 しかし、ここで書かれていることは、ヨハネが第一の手紙に書いたことと結びつきがあります。「真理のうちを歩む」「命令」「互いに愛し合いましょう」「愛のうちを歩む」「反キリスト」などのことばがそれです。

 ヨハネはここで、キリスト教の根幹に関わる大切なことを明らかにしています。それは、「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たち」が「反キリスト」だと言うことです。これは当時の教会を揺さぶっていた偽教師たちによって持ち込まれた教えであり、グノーシス思想に影響されたものです。

 「キリスト教はキリストである」と言われます。イエス・キリストとは誰なのかということについての誤りは、ヨハネがこの手紙を書いた時から今に至るまで教会を揺らし、人々の心を惑わしました。

 9節の「先を行って」ということばに目が留まります。これはおそらく、偽教師たちがクリスチャンを惑わす時に用いたことばではないでしょうか。「私たちは先を行っている、これが最先端の、流行の教えだ」「あなたがたが信じてきたものは古くさい」などと言う声が聞こえてきそうです。

 何でも最先端が良いとして疑わないこの時代に、福音はそうではない、私たちは先を行ってはならないのです。もちろんスピード違反もいけません。


信じる・愛する・従う

2023年10月28日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 5章1−12節

 月に一度の家庭集会。昨日はルカの福音書8章を一緒に読みました。そして持ち寄ったもので昼食。普段はお昼を抜いているのですが、この日は別だと、美味しくいただきました。

 これまでヨハネの手紙第一を読んできて、同じようなことをヨハネが繰り返し書いているので分かりにくいという感想を持つ方もおられるかもしれません。確かに、ヨハネは「信じること」「愛すること」そして「従うこと」の三つを繰り返し述べています。

 それは、人が光なる神とイエス・キリストによって交わりを持つようになったのだとしたら、どのように歩むのかを伝えようとしている、それが「信じる」「愛する」「従う」です。1節に「信じる」、4節に「信仰」があります。「愛する」は1、2、3節に、「従う」は2、3節に「命令を守る」ということばで表されています。そして、この三つのことはどれもが非常に強く結びついているということも分かります。

 イエスを信じる者が神を、そして神が愛された人々を愛するのは切り離すことができないこと、イエスを信じる者が神の命令を守ることは当たり前のこと。「私はイエスを信じるけれども、神を愛してはいませんし、神に従いません」ということはありえないし、「神を愛していますが、イエスは信じません」ということもありません。「神の命令を守りますが、神を愛してはいません」もないのです。

 何度も書いてきましたが、その三つの営み・歩みは、当時教会を揺さぶっていた偽りの教えと明らかに違うものでした。三つの密接な関係は、私たちの歩みにも、なくてならないもの……。


とどまっているという事実   

2023年10月27日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 4章13−21節

 スーパーにはすでにクリスマスのお菓子が並んでいますが、教会でも準備がスタートしました(よく考えてみたら、順番が逆のような気がしてきました!) 今年も12月のクリスマス礼拝の後、子どもたちによる朗読劇をします。次の日曜日に説明会があるのですが、19名のお友だちがエントリーしてくれました。

 ヨハネの手紙は「愛の手紙」とも呼ばれます。「神は愛なり」はもともとこの手紙の中に置かれたものです。13節から16節には「とどまる」ということばが繰り返されています。しかもここには、私たちが神のうちにとどまり、神が私たちのうちにとどまっているという驚くようなことばがあります。それは、イエスをキリストだと信じる一人一人のうちに生きておられる、聖霊によるものです。

 天と地を創造された神と私とが互いにとどまり合うというのです。「そうなんだ」とやり過ごすことのできないほどの重いことばです。「神は愛」なのですから、神のうちにとどまっているということは愛のうちにとどまっているというのは、もっともなことなのです。

 毎日、私たちはいろいろな人や組織などとの関係の中に歩んできます。その中には「良い関係」もあればそうでないものもあります。できれば何かとの関係を切りたいと悩んでいる人もいるのかもしれません。そのようなとき、何よりも誰よりも神との関係に、愛のうちにとどまっているという事実を知ることの大切さを思います。

 それはさばきの日にあっても恐れることなく、また目に見える兄弟との関係にも通じます。「神を愛する者は兄弟も愛すべき」と……。


人となって来られたキリスト

2023年10月26日 | ヨハネの手紙第一

ヨハネの手紙第一 4章1−12節

 どんよりとした雨の水曜日。雲の切れ目を待って外に出かけようとしていましたが、かないませんでした。数日、このような天候が続くようです。でも、きょうは外出したいと思います。

 ヨハネの手紙を読んでいるいくつかの教会は、この時大きな危機に直面していました。偽預言者の問題です。ここでヨハネは、偽者か本物か、霊を見分けるしるしを示しています。「人となって来られたイエス・キリストを告白する霊」が神からのものだというものです。「人となって来られた」ということばは、それを否定する教えが教会に入り込んでいたということです。

 この手紙の書き出しを思い出します。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの」と、ヨハネはイエス・キリストを紹介しています。それは、神の御子イエスが人となっておいでになったことを否定する教えに対する強力な反論なのです。大切なのは「イエス・キリストを信じます」ではなく、イエス・キリストは人となって(直訳は「肉をもって」)来られたと告白することなのです。

 7節以降は、「互いに愛し合いましょう」との勧めが美しい詩として描かれています。その根拠は神は愛だから、そして神は御子を宥めのささげ物として遣わしてくださることによって、その愛をこの世界に明らかにされた、それによっていのちを賜った私たちは互いに愛し合う必然があと歌われているのです。当時教会に侵入していたグノーシスは、神は霊であり光であるとは教えましたが、神は愛だとは教えませんでした。だからこそ、教会が互いに愛し合うことは、その誤った教えから教会を守ることでもありました。具体的にそれは何か……、との問いかけを、ここからいただきたいと思います。

 


2011-2024 © Hiroshi Yabuki