みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

決してあなたを離れず

2014年11月29日 | ヘブル人への手紙

 ヘブル人への手紙13章1−17節

 ヘブル人への手紙も終章を迎えました。
 きょうの箇所は、いくつかの実際的な勧めと決別の勧めとの二つから成っています。

 この手紙の読者であるヘブル人(ユダヤ人)キリスト者は、恵みによるイエス・キリストを信じる信仰ゆえの救いという福音からそれるような、もう一度律法を行わなければ神に受け入れられないという「さまざまな異なった教え」によって惑わされていました。後半は、そのような教えに惑わされずにきっぱりと決別して恵みの中にどっぷりと安心して浸り、キリストにならうように歩めと勧めています。

 前半にはいくつかの実際的な勧めが並びます。
 心に留めたのは「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」との主の約束のことば。
 このことばだけを取り出しても励ましを得ることができますが、前後の関係の中で読みますと「いま持っているもので満足しなさい」という勧めの中の約束なのですね。

 主が決して捨てないと言っておられるのだから、金銭を愛する生活、つまり物質主義に足下をすくわれずに済むのです。なぜなら、主が決して離れず捨てないといっておられるのです。まず何を求めるのか、これを定めると生活は本当に楽です(経済的に…という意味ではありません)。

 きょうはこれから、かかわりのある障がい者支援施設の11周年コンサート。たくさんの方がおいでになることでしょう。報告はまた月曜日に…。

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どこに近づいているか

2014年11月28日 | ヘブル人への手紙

ヘブル人への手紙 12章14-29節


 旅の手段はいろいろ。
 列車の旅では、レールの継ぎ目を刻む車輪の音が心地よいリズムとなってウトウトとする気分が好きです。飛行機の旅では、上から見下ろす景色が地図と同じ(本当は地図が実際の地形をなぞっているのですが)だと発見する楽しみがあります。歩く旅では、自動車ではサーッとやり過ごす景色を見て、いろいろな発見があるというおもしろさがあります。
 旅には終点があります。終着駅、目的地が近づくと流されるアナウンスが、いよいよ到着! というわくわく感を搔き立ててくれます。

 きょうの箇所では「近づいている」ということばが目に留まります。
 まず、「近づいているのではありません」とあります(18、19節)。描かれているのは、十戒をいただくために上ったシナイ山の光景を思わせるものです。
 次に、この手紙の読者がどこに近づいているのかと書いています(22-24節)。これらは、やがて信仰者たちのために用意されているすばらしい場所についての描写です。

 モーセが、そしてイスラエルの民が体感したことは、恐れを抱かせるようなものすごいものでした。しかし、イエスを信じる人々が近づいているのは、それをはるかに超えるものだというのです。

 「行ってみてがっかり」ということがありますが、22-24節にあるのは、「行ってみてびっくり」ということからもしれません。いや、そんな軽いことばでは表せないほどすばらしい神の栄光と祝福の場に近づいているのです。
 どこに近づいているかを忘れない、それが今を生きる励みになります。

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前に置かれている競走

2014年11月27日 | ヘブル人への手紙
ヘブル人への手紙 12章1-13節


 久しぶりの晴天の朝。家の前の柿の葉が何枚かを残すまでになりました。柿を食べるのは苦手なのですが、色づいた柿の葉は素敵です。

 きょうの「みことばの光」には「『競争』ではなく、『競走である』」とあります。

 子どもの時は運動が苦手。特に「走る」のは好きではありませんでした。通った中学校では、13キロほど走るロードレースが年一度もたれていたのですが、当日腹痛とか発熱があったらどんなにかいいのにと思うぐらいでした。ですから、男子で100人ぐらいの学年で1年生の時と3年生の時は90番台。2年生の時にはちょっとがんばれたかと70番台でした。というわけで、聖書に競技のことが出てくると、「ちょっと…」という気分になったこともあります。

 この箇所には、競走への促し、競走し続ける秘訣、競走中での苦しみの意味、競走のゴール、競走の姿勢などが細やかに記されているように思います。ここまで丁寧に書いているということは、走り続けて栄冠を…という作者、そして神の強い思いがあるからではないでしょうか。

 「雲のように私たちを取り巻いている」のは、ただの観客ではなくてこの競走を終えた人々。ですから、走っている者たちのつらさや喜びを共有できます。声援にも力が入ります。そして何よりの力は、主イエスが競走に伴っておられること。時には背負ってくださって…。

 きょうも走ります。
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弱い者なのに

2014年11月26日 | ヘブル人への手紙
ヘブル人への手紙 11章32-40節


 二日続きの雨の朝。目覚まし代わりのラジオが、うつ病の治療には朝の光がよいというようなことを伝えていました。あと一ヶ月ほど夜が長くなり続けますね。お大事になさってください。

 この手紙の作者は、「これ以上、何を言いましょうか」と、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、預言者たちを一括りに書いています。それは、この前の箇所で比較的詳しく述べたアブラハムやモーセたちと比較してみたら、書くに値しないと考えているのではもちろんありません。書くことが山ほどあるのです。
 
 あえてここに登場する人々についてまとめれば、「みことばの光」のタイトルにあるように「弱さと失敗を抱えた信仰者」だということでしょう。いや、アブラハムもモーセについても同じことが言えると思います。
 けれども、聖書は彼らは弱く、罪を犯すような者であったけれども、「その信仰によってあかしされました」とまとめています。ここに、私たちの神の慰めと励ましとをおぼえるのです。

 また、36-38節では、信仰によって歩んだことのゆえに、たいへんな目に遭った人々の様子が描かれます。信じたことで、試みを受け、殺され、乏しくなり、悩まされ、苦しめられるのです。何がよくって…? という疑いさえも抱かせる体験です。確かに、彼らにとってこの世はふさわしいところではなかったのです。

 弱くとも、失敗しても、悩まされても、神との強くゆたかな結びつきが遭ったからこそ、いや、彼らに何があっても神がしっかりと掴んでは離されなかったので、「信仰の人」として歩み通せたのだ、というようなことを考えました。
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信仰によって

2014年11月25日 | ヘブル人への手紙
ヘブル人への手紙11章 17−31節


 きのう参加した「4−14の窓カンファレンス」、子どもたちのために時間を取り、富を費やし、労をいとわないことという促しを得て戻って来ました。
 うれしいことがありました。通っている教会には、「プレイズ」という少年野球チームがあるのですが、ついにこのチームのメンバーがこの前の日曜日で9人になりました。一時は存続が危ぶまれていましたが、「それでも…」と忠実に奉仕する方々に神さまがすばらしい贈り物、励ましをくださったのだと思います。

 きょうの箇所にも、「信仰によって」ということばが繰り返されます。
 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーセ、イスラエルの民、遊女ラハブが、信仰によって何事かを行ったと記すのです。先にあるものが何であるかがわからない、何が待ち構えているかがわからなくとも、この人たちはそれでも神に信頼して動いたというのです。

 彼らは、やりたいと思っていることを神に叶えてもらったり、やりたくないと思っていることをやらないようにと、神に叶えてもらったりしたのではありません。やりたくない、行きたくない、しかし、神が「しなさい」と望んでおられるのならば…、と神に信頼して一歩を踏み出したのです。

 「みことばの光」は、「全能の神との個人的な交わりに導かれていた」と、アブラハムやイサクについて説明しています。ヤコブも神との真剣な格闘を体験しました。ヨセフも苦難の中で神との交わりを持ちました。そしてモーセも…。

 先がよく見えなくとも、いっしょに歩いてくださる相手(神)がどのようなお方かを知っているので、信仰によって歩めるのです。
   
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