みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

喜びの理由

2020年09月17日 | ルカの福音書

ルカの福音書 24章36−53節

彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」24章52−53節

 残暑も昨日までで、今日からは最高気温が20度台になるとの予報が出ているのですが、さて実際はどうでしょうか。

 「あの日曜日」の弟子たちは悲しんだり、恐れたり、喜んだりと、まるでジェットコースターのような感情の起伏を経験したのではないか、とルカの福音書の終わりの部分を読んで思いました。しかし、死んでしまわれたと思っていた主イエスが突然自分たちの前に現れるということが起こったのですから、幽霊を見ていると思っておびえるのも無理はありません。

 幽霊ではなくて、体をもってよみがえられたということを明らかにするために、イエスが魚を召し上がったという記事には、ユーモアを感じます。この後主イエスは、ガリラヤ湖畔で弟子たちに焼いた魚を給仕しておられます。魚を召し上がるイエスを見る弟子たちは、どんな表情をしていたのだろうかと、想像が膨らみます。恐れがたちまち笑顔に変わり、歓声さえ上がったのではないでしょうか。

 喜びの理由はイエスがよみがえられたこと、なのです。

 しかし、話はそれで終りではありません。イエスは弟子たちに大きな使命を与えられます。それは、エルサレムから始めて、全世界に福音を宣べ伝えるということでした。壮大な使命です。それを、この時までの彼らを見たら頼りにならなそうな弟子たちに託されるのです。いや、頼りにならないと勝手に思っているのは私たちで、イエスご自身は弟子たちを、使命遂行に適任だとして遣わそうとしておられるのです。

 もちろん彼らの力量がそうだったからではありません。イエスの昇天後10日目に起こった出来事、つまり聖霊が彼らの上に臨まれたことで、彼らはこの使命を行うための証人となります。

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自ら説き明かす

2020年09月16日 | ルカの福音書

ルカの福音書 24章13−35節

 「イエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」24章27節

 冷蔵庫内部に水が溜まるので調べてみたら、排水のビニール管がゴミで詰まっていました。「♪ 通り良き管(くだ)として…♪」という讃美歌を思い出しました。

 イエスが復活された日曜日、エマオという村に行く途上の二人の弟子たちによみがえられたイエスが近づいてくださったという出来事を描いた絵が何枚かあります。その中でも良く知られているのは、ズンドの「エマオ途上」でしょう。数年前に収蔵されているスイスの美術館を訪ねましたが、残念なことにその時は収蔵庫に入っていて展示されていませんでした。

 イエスの復活を受け止めることができないで暗い表情のままにエマオに向かう二人。イエスが途中から一緒に歩かれて彼らにご自分のことを説き明かされました。二人は自分たちと一緒に歩いているのがイエスであることが分かりません。問題を抱えている時はそのようなこともあります。改めて、イエスご自身が話してくださったという箇所を読み、彼らがうらやましいという気持ちになりました。あとで二人は、「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか」と振り返っています。

 このところ、何に心が燃えるだろうかと考えます。聖書を開く時にイエスさまに会えるというわくわく感があるだろうか、イエスが説き明かしてくださっていることに耳を傾けているだろうか…と。二人は特別と分けることなく、私にもイエスはみことばを説き明かしてくださる、今も変わることなく…、と思えます。

 ちょうど12月号の「みことばの光」を編集しているのですが、その中に執筆者が聖書を通読することについての勧めを書いておられます。その中に、こんなことばを見つけました。「たとえば、ヨハネ21章を読むとしたら、『今日はヨハネ21章か』ではなく、「今日はティベリア湖畔に復活のイエスさまに会いに行こう」という気持ちで聖書を開きたい。」

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歴史を変える報告

2020年09月15日 | ルカの福音書

ルカの福音書 24章1−12節

「十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。」24章9節

 きのうの本欄には、リスの写真を載せました。日曜日の礼拝を終えて、外で賛美をしいろいろとお話をしていたところに、子リスがやって来ました。リスはすばしこくて人の姿を見るとさっといなくなるのですが、急にたくさんの人の中に紛れ込んでしまって逃げようとできなかったのかもしれません。しばらくの間、私たちを楽しませてくれたあとで、ようやく木の上に登って行きました。

 イエスの復活の記事は、何度読んでも希望が湧いてきます。イエスが十字架上で息を引き取られて最初の日曜日の朝の出来事で活躍するのは女性たちでした。彼女たちはイエスを愛し、イエスに仕えていました。そして金曜日の日の入り前にイエスの体が墓に納められた時にも、その様子を見届けていたのです。れは、死んだイエスの体に香油を塗るため。彼女たちは金曜日の日没の前にそのための香油と香料を用意したのです。

 そして日曜日。イエスが復活するなど少しも思っていなかった彼女たちは、世界をひっくり返すほどのことばを神の使いから聞くことになります。そして、イエスの復活を告げるために用いられるのです。「彼女たちはイエスのことばを思い出した」とのことばは、神の使いのことばとイエスのことばとのつながりを確認できたということ。復活を信じた彼女たちは、そのよい知らせを伝えるメッセンジャーになったのです。

 今回、9節の「十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した」ということばに驚きました。十一人とはユダを除くイエスの弟子たち(十二弟子)のこと。ほかの人たちとはその他の弟子たちです。「全員に」「すべて」報告したのです。しかし、彼女たちの話は信じてもらえなかったのです。信じてもらえないことを、報告するのはなかなかできることではありません。しかし、彼女たちは務めを十分に果たしました。

 彼女たちが抱いた恐れ、驚き、そして喜びを、それを聞いた人々もやがて持つことになるのです。そして、私たちも…。

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イエスのそばに

2020年09月14日 | ルカの福音書

ルカの福音書 23章44−56節

「…墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。」23章55節

 コロナのために礼拝中には声を出して賛美することができず、壁に映される歌詞を眺めながら伴奏を聴いています。でも、やはり声を出して賛美をしたいということで、礼拝後、礼拝堂の消毒や片づけを終えて外に出てから、互いに距離を取りながら一曲だけ声を出して賛美をするようになりました。改めて一緒に讃美歌を歌うことの素晴らしさを味わっています。

 イエスが十字架上で息を引き取られたあと、居合わせた人々のさまざまな姿が明らかになっていきます。処刑の指揮をとっていたローマの百人隊長は神をほめたたえ、イエスは本当に正しい人だったと言います。十字架に至るまでの道のり、そして十字架につけられしに至るまで、イエスのお姿をそばで見ていた異邦人(ユダヤ人ではない)が神をほめたたえるのです。

 群衆は悲しみのあまり旨を叩きながら家路につきました。この人々は十字架の上のイエスを散々ののしった「議員たち」とは違い、遠巻きに処刑の様子を見ていたのでしょう。

 さらに遠くには、イエスの近くにいた人々が立っていました。

 立場上か、それまでイエスの弟子であることを明らかにしなかったアリマタヤのヨセフは、イエスの死を契機にイエスの弟子であることを明らかに、からだを引き取り自分の墓に埋葬しました。

 「イエスのそばにいる」人のすべてが心刺されて悔い改めと信仰に進むのではないのですが、ここを読むと、どんな人も「イエスのそばに」いることが大切なのだと気づかされます。

 「主イエスさま、あなたのそばに置いてください。」

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「空気を読む」と…

2020年09月12日 | ルカの福音書

ルカの福音書 23章13−25節

「それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。」23章24節

 イエスが十字架につけるような罪は何も犯していないと知っていた総督ピラトは、ガリラヤ国主ヘロデも同じ考えだと言って、イエスを釈放しようと試みます。しかし、ユダヤ人たちはイエスを殺せと声を張り上げます。権力を持つ者のもろさのようなものを、ピラトの腰砕けの姿から考えさせられます。

 ピラトの総督としての主要な働きは、ローマに対して複雑な感情を持つ被支配地を何事もなく治めることです。ですから、イエスをどうするかについての再三の問いかけを、激しく拒否する人々を恐れているのです。そして、その恐れが正しい判断を鈍らせてしまうのです。

 自分は何に基づいて生きているのか、だれの声を頼りにして歩んでいるのかということを、ここから考えます。「あの人がこう言っているので」「大声で怒鳴られたから」ということで、自分の為すべきことが歪められて考えもしない方向に行ってしまったということがあります。

 自動車を運転していて、カーナビの案内は正しいのに、周りの車が行く方向にハンドルを切ったために、結局大きく遠回りをすることになってしまったということがあります。日本語には「空気を読む」ということばがあります。周囲の雰囲気がどうかに注意して、態度を決めたりことばを選んだりするということでしょうか。

 周りを見ることに心が削がれて、イエスのまなざしに気づかないということが、あるかもしれません。

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2011-2020 © Hiroshi Yabuki