みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

守らなければならないもの

2021年03月11日 | 民数記

民数記 36章

 きょうは東日本大震災発生から10年の日。このブログがスタートしたばかりの2011年3月12日の本欄は次のように記しました。その日の聖書箇所は民数記33章41―56節。


  昨日、観測史上最大の地震が東日本を襲いました。夜が明けて被害の深刻が次々と伝わってきます。
 「みことばの光」読者の皆様はいかがでしょうか。余震も続いて不安な夜を過ごした方も多かったのではないでしょうか。私のいる所では、今のところ大きな被害は出ていませんが、地震直後から深夜1時近くまで停電が続きました。
 きょうの「みことばの光」に「振り返ってみると、主は常に助けの石(エベン・エゼル)であり、人は常に不従順であった」とあります。大きな苦しみや悲しみのなかにある方々に、エベン・エゼルなる神からの支えと慰めとをお祈りいたします。救出や復旧に携わる方々を神が励まし用いてくださいますように。
 そして、悲しみを乗り越えて、私たちの国が主イエス・キリストにある「真の復旧」をするようにと祈ります。


 今回の民数記通読は本日で終り、ここにあるエピソードは、部族の相続地を守るために、ツェロフハデの娘たちが自分の部族と相続するべきこと、彼女たちが主の命令を守ったことが記されています。先日の日本からのラジオニュースで、原発事故のために遠く島根県に避難した方々のことが報じられていました。やむなく自分の土地を離れて親や親戚、知人を頼りに遠くに住むことになった方々が、時々会って交流会をすることになり、誰にも話せない苦しみや悩みを分かち合ってきたとのことでした。

 きょうの「みことばの光」に、「私たちが守らなければならないものは何か」という問いかけがあります。大切な住まい、故郷を守ることができずに、慣れない土地に住む人たちの苦労は想像を絶します。同県人の私は、涙が込み上げてきました。

 改めて、キリスト者が本当に守らなければならないものは何か、それは自分たちのアイデンティティを失わないためのもの。執筆者の方の「キリストの福音」とのことばに、アーメンとうなずきます。


主が宿る地に住む人々

2021年03月10日 | 民数記

民数記 35章16−34節

 治療の帰り立ち寄った駅構内の持ち帰りケバブ屋さん。ずっと2.99ユーロだったケバブサンドイッチが、3.4ユーロになっていました。どこよりも安くてと喜んでいたのですが……。それでも、安いですね。

 35章後半では、人を殺した者をどのようにするのかについての、神のお考えが明らかにされています。まず、故意に人を殺した場合についてです。ここには殺人に用いる道具のことも詳しく述べられていますね。何を用いても、故意によって人を殺した者は、必ず殺されなければならないとあります。

 20節に「憎しみをもって」、「悪意をもって」、21節に「敵意をもって」とあります。人に対するこれらの思いは、凶器をもって立ち向かうとまでいかなくても、誰もが抱いたことのあることではないか、と考えます。私たちの社会の法は、人の内側の動機や思いだけで犯罪だとして処罰の対象にはしませんが、事件が起こったときには、動機が何であったのかを探ります。

 「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』という者は最高法院でさばかれます。『愚か者』という者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」というイエス・キリストのことばを思います。⇒マタイの福音書5章22節

 この箇所に限らず、特に旧約聖書には「殺す」ことについての戒めが多くあります。その原則はここに記されていることと同じです。一緒に生きていく中には、故意でなくて結果として人を殺してしまうこととが起こります。そのようなとき、人を殺した者を守というよりも、神が正しくさばかれるということで「逃れの町」が存在します。

 心に留めたのは、本章最後のことば。「自分たちの住む土地、わたし自身がそのただ中に宿る土地を汚してはならない」と主は言われます。私たちの生活の場もまた、同じ。何によってその地をきよく保つのでしょう。


神を覚える町

2021年03月09日 | 民数記

民数記 35章1−15節

 コロナウィルスワクチン接種のオンライン予約を、友人の助けによって無事に行うことができました。接種の日についてはメールでの連絡とのことです。

 ここには、イスラエルの民に割り当てされた相続地の中に、48のレビ人の町を置くこと、そのうちの6つを「逃れの町」とすることが命じられています。「逃れの町」とは何かについては、この章の後半に詳しく述べられていますが、15節には概略があります。誤って人を打ち殺してしまった者がその町に逃れることによって、私怨による殺害から守られ、正しいさばきを受けるためのものでした。

 誤ってであっても、人のいのちを奪ってしまうというのは重大なこと。殺された人の遺族にとっては、理由はどうあれ、大切な人を殺した人への憤りは簡単に収まることはありません。しかし、イスラエルの民の間で神は、犯したあやまちをあるべきかたちで収めることができるようになさったのです。殺人者も、その被害者家族も逃れの町があることで、神を覚えることができるのです。

 レビ部族は約束の地に相続地を持つことはできませんでした。主が彼らの相続地だからです。それゆえ彼らは、各部族の中に散在して住むことになっていました。それはおそらく、ヨルダン川の東に住む部族も、西に住む部族も、レビ人の町が近くにあることによって主を忘れずに覚え続けるということもあったことでしょう。

 神はご自分の民が、さまざまなことによってご自分を覚えるようになさった、レビ人の町もその一つだったと考えられます。さて、私は何によって神を覚え続けるのだろうか、…。


思いを越えて

2021年03月08日 | 民数記

民数記 34章

 境界というと土地、国境などを思い浮かべます。私の場合はリハビリをしていて「痛みの限界まで伸ばして」などと言われるのを思いました。その時に用いられるのが「境界」ということばなのです。

 ここには、神がイスラエルの民のうち9部族半が受け取る相続地の境界線が明らかにされます。ルベンとガドの二部族とマナセ部族の半分はすでにヨルダン川の東岸(トランスヨルダン)に相続地を受け取っています。

 ここには南側の境界線に始まり、西側(大海〜地中海)、北側、そして東側の境界線の順で地名が結ばれていきます。これらの地名の中には、ツィンの荒野、カデシュ・バルネアなどよく知られるものもあれば、場所が特定できないものもあります。

 興味深いのは、北側の境界線が実際にヨシュアによってカナンに定住してそれぞれが得た割り当て地よりもかなり広いということです。どうして実際との違いがあるのかについて、はっきりしたことは分かりません。ともかく、民は自分たちの民族が住むことができる土地に定住し、それ以上に広がり住むことはありませんでした。

 ここから、神が人の思いをはるかに越えて働かれるお方だという聖書のことばを思いました。自分の欲望を肥大化させるべきではありませんが、神が与えると線を引いてくださった地にまで進み行こうとするのは、神の約束を信じることがなければなしえないのだと、割り当て地の広さと実際とのギャップから考えました。


旅を回顧する

2021年03月06日 | 民数記

民数記 33章1―40節

 

    金曜日はひんやりとした一日でした。3月に入り、今のところ1日1万歩が途切れずにいます。このようなことを書くと次の日には途切れたりするものですが…。きょうは何歩だったかの記録は5年ほど前にさかのぼることができ、時々補数が多かった日について、「この時は…だった」と振り返ることがあります。

 33章も回顧の記述。2節に、モーセは主の命により旅程の出発地点を書き記したとありますので、ここにある地名はその後もモーセが書き連ねたものでしょう。

 きょうの箇所には、エジプトを出たいわゆる第一世代がどのように約束の道をたどったのかが書かれています。地図で特定できる地名もあれば、そうでない場所もあります。36節に登場するカデシュとは、カデシュ・バルネアのこと。民数記13章では、神の命令によりここから12人がカナンを偵察に出かけたとあります。そして、この時の不信仰が彼ら第一世代が約束の地にたどり着けないことになってしまうのです。

 他にも、マラ、キブロテ・ハタアワの地も出エジプト記にあります。そしてそこでも彼らの不信仰に基づく不満が噴出しました。ここでの回顧は民の不信仰の歩みですが、それとともに彼らを導く主の真実さの足跡だと言えます。

 このような箇所を読むと、やはり自分の人生を回顧することになります。神への感謝は限りなくあるとともに、自分自身を省みると「ごめんなさい」の繰り返しだったのだと改めて覚えます。

 

 


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