みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

彼女はきよくなる

2020年01月31日 | レビ記

レビ記 12章

 1月が終わろうとしています。

 私たちの子どもが産まれた頃には、出産に夫が立ち合うというのはそれほど一般的なことではありませんでしたが、今では夫や赤ちゃんにとってはお兄ちゃんやお姉ちゃんが出産の場に居合わせる場合もあるようですね。

 レビ記12章は、出産に伴う女性のきよめの期間、それが満ちた時に何をささげるのかについての神のことばが記されています。きょうの「みことばの光」の初めに、「神の祝福である出産が、なぜ聖所に入ることを阻(はば)み、きよめを必要とするのか」とあります。

 子が産まれることは、神の祝福です。神は創造の折に「生めよ、増えよ」とお命じになりました(創世記1章28節)。出産は神の命令に応えるものです。詩篇127篇3節には、子どもたちは神の賜物だともあります。ですから、ここでは子どもの出産が汚れたことだとしているのではありません。出産に伴う分泌のことについて、それからのきよめについての規定なのです。

 ここでは「血のきよめ」「出血の汚れ」ということばが目につきます。前章には食べてよい生き物と食べてならない生き物との教えがありました。推察される理由の一つとして、衛生的なものだというのがありました。そのことから思い浮かぶのは、出産後の女性にきよめの期間を設けたのは、あるいは女性を休ませるという理由があったのではないか、ということです。

 いずれにしても、神が出産後の女性がきよくなるための道を用意してくださったということは明らかです。イエスを出産したマリア、そして夫のヨセフは、きよめの期間が満ちた時に、山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽と律法で言われていることに従って、いけにえを献げました。⇒ルカの福音書2章24節。 本章8節をも合わせて読めば、イエスを神から預かったこの家族は貧しかったということが分かります。この小さな家族に託されたいのちの意味を覚えます。


聖なる者と

2020年01月30日 | レビ記

レビ記 11章29−47節

 11章の終りには、「汚れたものときよいもの、食べてよいものと食べてはならない生き物とが分けられる」とのことばがあります。聖と俗という区別からしますと、イスラエルの民はこの世、つまり俗なる世界に生きています。

 その彼らが、神が聖であるから彼らも聖なる者とならなければならないと 言われているのです。以前にも触れたことですが、彼らの「聖」とは、神の「聖」とは全く異なります。イスラエルの民が聖でなければならないというのは、俗なる世界に生きている彼らが、その汚れに染まらないようにという意味なのです。

 それにしても、きょうの箇所で言われていることは興味深いといいますか、分からないと言ったほうが当たっていると思うのです。たとえば、汚れていると神がお定めになった生き物が死んだ時、それに触れる者は誰もが夕方まで汚れるとあり、死んだ者が落ちたものは、器、衣服、皮、袋も汚れ、かまどや炉であれば壊さなければならないともあります。かまどは火を用いるのだからきよいとは言わずに、汚れたから打ち壊せというのは、納得できないようなことです。

 私たちの感覚や常識の範囲には納まらないようなことが命じられていると、今風にいえば「そんなものはスルーしてしまいましょう」ということになるかもしれません。しかし、イスラエルの民は神のことばだからとして、従ったのです。

 今は、イエス・キリストによって汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物という規定は解かれました。それならば、聖い神の子どもとされた信仰者たちが聖であるとは、どのように生きることなのだろうかとの問いが、この箇所から出てきます。


食べるにも飲むにも

2020年01月29日 | レビ記

レビ記 11章1−28節

 中国で発生した新型のウィルスに感染した人が増えていると報じられています。大量の情報が即時に広がる現代では、人の移動もこれまでになく活発ですので、ある地域で発生した病気を広がらないようにするのは今まで以上に困難なことかと思います。最前線におられる方々を支えてくださるよう、神に祈ります。

 レビ記11章から16章には、「聖と俗」というタイトルがふさわしいと思います。11章44節に「あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである」ということばがあります。イスラエルの民は、聖い神の前に歩む者たちですが、彼らが生きているのはこの世、地上でした。そこで彼らは、自分たちの目の前にあるさまざまなものを峻別して汚れから身を守る必要があったのです。

 けれども、そのための基準を自分たちで考えたのではありませんでした。神が与えられたのです。聖なる神が、ご自分の民が聖なる者となるためにこれを避け、これを行えとの指示を与えられました。そして11章。 とても興味深い箇所です。

 何を基準に食べてよいのか、食べてはならないのかがここに明示されていますが、その違いが何かについては本日の「みことばの光」にあるように、今では五つの解釈があるようです。いずれにしても、神はここにあるように、何を食べてよいのか、食べてはならないかをお示しになったのです。イスラエルの民は、なぜ…? とせずに、神がそう言われたのでそれを守りました。

 そして今、私たちは、口から入るもので人が汚れることはないとの主イエスのことばによっても、食べ物についての規定からは自由になりました。だからこそ、食べることについても神の前によく祈り考える必要があるのだと教えられます。

 「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」コリント人への手紙第一 10章31節


神が栄光を現す

2020年01月28日 | レビ記

レビ記 10章

 用いているノートパソコンにキーボードカバーをつけました。当たり前ですが、やはり打ちにくく、タイプミスも…。外そうかとも思うのですが、もう少し使ってみます。

 レビ記10章は、9章の終りにある記事と関係があります。

 大祭司アロンの任職の後、神の栄光がイスラエルの民全体に現れて、火が主の前から出て来て祭壇の上のささげ物と脂肪を焼き尽くしました。一方、10章初めには火が主の前から出て来て異なる火をささげたナダブとアビフを焼き尽くしたとあります。 全く違う出来事ですが、実はどちらも、神がご自分の栄光を現された出来事でした。

 この事件がアロンとその子どもたちの任職からどのくらい経っていたのかはよく分かりません。けれども、アロンと子どもたちの大祭司、そして祭司職への任職の儀式の後にあるのは、神が定めた祭司のあり方、務めを踏みにじったという二人の罪の大きさを伝えるためのものだったのでしょう。

 私は、彼らの悪意をここから感じます。たとえば、1節の自分の火皿を取り、その火の上に香を盛ったということが、至聖所の香の壇でのことだとしたら、大祭司アロンだけが年に一度しか入ることの許されない場所に彼らは入ったということになります。また、9節の「ぶどう酒と強い酒を飲んではならない」との神の戒めは、ナダブとアビフがそのようにしたということを暗示しているようにも思います。

 アロンと子どもたちの任職の際、モーセは任職のささげ物の血を右耳に、右手の親指に、右足の親指に塗りました。それは、彼らが神のことばを真剣に聴くこと、自分の手の働きを専ら神のために用いること、神が示す道だけを歩むことを象徴していたとされます。

 二人はそれを完全に踏みにじりました。心すべきことです。


礼拝に招く神

2020年01月27日 | レビ記

レビ記 9章

 日曜日の礼拝の後、ミニコンサートを楽しみました。当地で2月は子どもたちの音楽コンクールの時期。本番の前の「度胸試し」に教会の礼拝後を用いてもらおうということです。昨日は10歳、13歳、14歳によるピアノのソロ。鍵盤上の指の動きに魅せられました。 こんなにもしなやかに、こんなにも繊細に弾くのだと…。

 9章には大祭司となったアロンによる最初の礼拝の様子が記されています。 アロンはまず、自分と子どもたちのための罪のきよめのささげ物、それから全焼のささげ物を献げました。その後で、民のための罪のきよめのささげ物、全焼のささげ物、穀物のささげ物、交わりのいけにえをささげたのです。

 ささげ物の順序には意味があります。それは、罪ある者が聖い神を礼拝するためのプロセスなのです。罪が赦されたと信じているか。神に自分自身を献げよう、これがふさわしい礼拝である。収穫、収入などがあった時には神への感謝を表わしているのか。そして、常日頃から神との豊かな時間を持っているかという問いかけを、これら旧約聖書のささげ物の一つ一つが確認させてくれるようです。

 ささげ物は神に近づくための関門のような響きを覚えるかもしれませんが、そうではありません。むしろ、神が人をご自分への礼拝に招いておられる、神が人と交わりを持ちたいと願っておられる、そのために聖い神に人が近づくための道を、神ご自身が用意してくださって、「さあ、おいでなさい」と待っておられるのだということを、今回レビ記を読みながら思っているのです。


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