みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

キリストにあって語る

2018年11月30日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙第二 12章11−21節

 夕方、クリスマス市に出かけました。たくさんの人で賑わっていましたが、週末はこんなものではないのでしょう。心身とした寒さの中で体が冷えてしまいましたので、長居はしないで帰宅しました。

 パウロは11章5節に続いてここでも、「あの大使徒たちに少しも劣るところはなかった」と書いています。「大使徒」というのは、恐らくコリントの教会を荒らしていた偽使徒たちが自分たちのことをそのように語っていたのでしょうか。あるいはコリントの教会がすっかり彼らの術中にはまって「大使徒」と呼ぶようになっていたのでしょうかか。

 繰り返し書きますが、パウロが愚かなことだと言いながらも自分のことを誇っているのは、コリントの教会が「キリストに対する真心と純潔から離れてしまう」のを心配していたからに尽きます。パウロがコリントの教会に負担をかけないようにと金銭的なものを受け取らなかったことが、どういうわけか、パウロは人をだましているという非難になってしまっていることに驚きます。悪魔は、福音の働きを妨害するためにはどのようなことも用いるのです。

 パウロの足下に及びませんが、私も金銭のことでうわさを立てられたことがありました。それを耳にしたとき、「エッ? そんなに持っているって!」と自分でびっくりしてしまいました。

 19節を何度を読み、「キリストにあって語っている」ということばに心を留めました。批判を受けたとき、誤解されたとき、「なにを!」といきり立つのではなくて、なぜそのようなことが起こったのだろうかと考えること、自分をよく振り返ること、そして語る機会をいただいたときには「神の御前で、キリストにあって語る」ことをここから教えていただき、感謝します。


キリストの力がおおうため

2018年11月29日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙第二 12章1−10節

 買い物の帰路、久しぶりにバスに乗りました。けれども、このバス路線は大きく遠回りをするので、乗っているうちにやはり歩いたほうがよかったかな、という思いになりました。寒さはしのげたのでよいとしましょう!

 パウロの証しが続きます。誇ったりいばったりするのは愚かなことだと知っていながらも、偽使徒たちの力をくじいて、コリントの教会が「キリストに対する真心と純潔」保ち続けるために、パウロは自分が真の使徒であることを声を大にして訴えています。

 1−5節は3人称で語られていますが、パウロ自身が体験したことです。ここで語られていることの意味を理解することが難しいような特異な体験をパウロはしたのです。そんなにも素晴しい体験をしたのだから、何も3人称など用いずに「私が!」「私は!」と書いたほうがよいのにと思うかもしれませんが、パウロはそのようにはしません。むしろそのような体験を「私は知りません」ということばとともに、第三者のようにして書いています。

 もしも、パウロがここで書いているような体験をするようなことがあったら、多くの人たちに知らせることでその人はある集団のリーダーとしてたくさんの人々を自分のもとに引き寄せて、何らかの目的を達成することもできます。しかしパウロは、「誇ることを控える」と言い、自分の肉体に課せられた痛みを伴う病のことに進んでいきます。

 9節は多くのキリスト者に知られ、覚えられ、親しまれていることばです。特別な体験を追い求めるのでなく、自分が弱さを覚える病や挫折、困難などという体験を通して、十分な神の恵みを数え上げて感謝すること、そして弱い者を強くしてくださる神を崇めることを熱心にさせてもらいたいと願います。


弱さのことを誇る

2018年11月28日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙第二 11章16−33節

 ギタリストの方は日曜日にバプテスマを受けたばかり。その教会から洗礼のお祝いに「みことばの光」PDF版1年分が贈られたそうです。その編集を私がしていると話しましたら…。このような贈り物もすてきですね(何か、宣伝臭くなってきましたが)。

 パウロはコリントの教会が、偽の使徒の影響から自由になってキリストに対する真心と純潔の思いを保つようにと熱く語っています。ここでは、そのために愚かなことかもしれないがと前置きして、自分が紛れもないキリストの使徒であることを誇るのです。

 22節のことばからは、偽使徒たちが自分たちの出自を誇りとしているということを知ることができます。パウロは、自分もそうだといいます。

 23節からは、自分は偽使徒たちにはるかにまさってキリストのしもべだと主張します。「狂気したように言いますが」ということばからは、キリストのしもべとしての熱情が伝わってきます。そして、なぜ自分がキリストのしもべなのかという理由について、キリストのために数限りない苦しみに遭っているからなのだと綴るのです。迫害、事件、事故、災害が彼の肉体や心を痛めつけました。

 ここに綴られるパウロのことばを読むと、息が止まるほどです。数においても激しさにおいても、自分が経験したことはととても小さいと思ってしまいます。それとともに、比較してどうこうのということではないとも考えるのです。言えるのは、キリストのしもべとして受ける経験は、どれもが自分の弱さを知ることにつながるということです。弱さを知り、弱さを嘆くとき、キリストのみわざ、お姿を心に描くことができるように思えます。


キリストに対する真心

2018年11月27日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙第二 11章1−15節

 欧州でギターを学んでいる方が一泊されました。原稿を書いて(打って)いる時にも、隣の部屋での練習の曲が聞こえてきます。私の好きな「カヴァティーナ」です。夢のような時間に感謝。

 この箇所からは、パウロがどれほどコリントの教会を熱心に思っているのかが響いてきます。「大使徒」だと主張している偽使徒によって、いわれのない風評が立てられ、コリント教会をパウロから、いや、キリストに対する真心と純潔が危機に瀕(ひん)していたのです。パウロの姿は、羊たちを悪い狼から守るために熱心に働く羊飼いのようです。

 それにしても、パウロはずいぶんとひどい目に遭ったものです。話し方は素人だという評価が教会内を行き巡りました。教会からの報酬をもらわないのは不正をしているに違いないとの非難も沸き起こりました。パウロはそのような風評や非難に対して、「そのうち収まる」とか「神はご存じだから」などとして何も行動しなかったのではありません。公然と自分の言い分を主張しています。

 けれどもそれは、彼のプライドが損なわれないためではありません。キリストとコリント教会の関係に亀裂が生じてしまうのを何としてでも食い止めたいのです。そして、コリントの教会がキリストの花嫁として歩むことを強く願ってのことでした。

 謂(い)われのない批判が起こったときに、「神は知っておられる」とか「真実が明らかにされる」などとして何もしないのではなく、立ち上がって声を上げることの必要を、これまでの歩みの中で私自身がとってきた態度を反省しつつ、強く思わされます。教会がキリストへの真心から離れてしまわないように…。


批判と誇り

2018年11月26日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙第二 10章

 「批判と誇り」とタイトル欄に書いてから、今は天に移された説教演習の先生が「『…と…』という題を宣教につけるのは好ましくない」とおっしゃったことばを思い出しました。

 1−9章が慰めと励ましに満ちた内容だったのに、10−13章には厳しいことばが続きます。それゆえに、10−13章は後に書かれたのだと考えられています。パウロの熱い思いに応えて罪を悔い改めた教会に、また偽使徒が入り込んでパウロについて中傷していたという事情が10−13章にはあったのではないでしょうか。

 1節はパウロが自分のことについて書いているのですが、10節のパウロへの批判と重ねて考えてみますと、1節のことばもパウロ批判者からのものではないだろうかと想像することもできます。1節や10節のことばや12章の「肉体のとげ」のことから、パウロの風貌について、弱々しかったのではないかと想像する人もいます。

 「誇る者は主を誇れ」ということばを心に留めます。コリントの教会を荒らした偽使徒たちの特徴について、パウロは「彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いに比較し合ったりしてい」ると書いています。互いに比較し合って自分のことを誇っていると言いたいのです。けれどもパウロは、「私は限度を越えて誇りません」と述べ、「誇る者は主を誇れ」ということばを届けています。

 批判に対して、「何を!」とむきになり、相手を凌駕するほどに自分を誇るという生き方とは違う生き方がここにあるのです。誇りを失っているということではありません。「主を誇る」ことのできる幸いに感謝します。


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