みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

愛の挨拶

2023年09月25日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙 13章

 土曜日の夕方に喉の痛みがありましたので、薬を塗って休みました。もしかしたら例の感染症に架かったかもしれないと一瞬不安になりましたので、検査しましたらネガティブでホッとしています。最近マスクを着用している人が以前よりも増えているように思います。私たちも電車やバスに乗る時にはつけることにしました。

 変化に富んだ内容のコリント人への手紙第二も終章。ここにもパウロの厳しいことばが並びます。彼は、コリントへの三度目の訪問を間近にしています。パウロが渾身の思いを込めて書いてきたことに、誠実な態度で受け止めようとしない一部の人たちのことを意識しての厳しいことばです。

 「今度そちらに行った時には、容赦しません」とは、パウロが2章1節で「あなたがたを悲しませる訪問」と呼んでいる二度目の訪問の時に何が起こったのかを想像させます。もしかしたらこの時、罪を犯し続ける人々が心を頑なにし続けるのをパウロは目の当たりにしたのかもしれません。

 この手紙の終わりのパウロの挨拶は、コリントの教会に書けていたものが何であるかを明らかにしています。

 喜び、キリストにある完全、慰め、一つの思い、そして平和です。パウロはこの教会のことをあきらめません。なぜなら、神が愛と平和の神だからです。そして、コリントの教会を愛し、案じているのはパウロだけでなくて「すべての聖徒」だということばは、どんなにか一人一人を励ましたことでしょう。

 祝祷でこの手紙は終わります。礼拝に参加した人々に届けられるこの祈りが、まずは混乱の中にあるコリント教会へのものであったということに、深い感慨を覚えます。


高慢にならないため

2023年09月23日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙第二 12章1−10節

 こちらのスーパーで売られているカボチャは、大きいものから小さいものまで色も多彩です。Hokkaidoという名前のオレンジ色のカボチャが人気ですが、日本風に甘辛にするとちょっとがりがり感が気になります。グリルやスープにするととても美味しいです。それにしてもなぜ、Hokkaidoなのでしょうか。

 パウロがここで書いている「一人の人」とは、自分のこと。2−4節には信じがたい不思議な体験をしたことを語ります。「天に引き上げられた」「だれもできないことを体験した!」というのです。しかし彼はここで、「私は天に引き上げられた」「私は誰もできない体験をした」とは書きません。

 どうしてもったいぶったような書き方をするのか、「それ私だ!」と明らかにすれば、偽教師たちを黙らせることができますし、コリント教会の心を自分のほうに寄せることもできるのに…と思うのに、彼はあえて自分だとは言いません。しかし、5−6節を読むならば、そのような特別な体験をしたのは彼なのだということは明らかです。

 パウロは、偽使徒、偽教師と同じ土俵の上で自分が愚かになりました。しかし彼はここで、誇りとするものがあればあるほど、人は高慢という罪の餌食になることを知っていました。神はパウロを知っておられました。そこでパウロは神から「肉体の一つのとげ」を与えられたのです。

 弱いよりも強いほうがよいという理屈は、この世界の常識として受け入れられていること。しかし、弱さを持っている、いや、神が弱さを賜わっているということによって、自分の在り方が保たれているのだと、ここを読んで考えています。


愚かな者として誇る

2023年09月22日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙第二 11章16−33節

 隣町の家庭集会に、今回もバスと電車、さらにバスに乗り換えて向かいました。余裕のある乗り継ぎ時間だったはずなのですが、最初に乗ったバスの運転手さんが安全運転の方のようで、少しずつ遅れが増していきます。そして、乗り換え駅についたとほぼ同時に電車がホームに入ってきました。間に合ってよかったです。

 コリント教会には、パウロの影響力を奪ってしまおうと目論(もくろ)む偽の使徒が入り込んでいました。そのような者たちは、人々を自分たちに引き寄せようとします。いわゆる権威づけです。一方でパウロは大したことがないと吹き込むのです。そしてやがて彼らは、教会を食い物にします。

 パウロは、教会が偽使徒たちの、その背後にある悪しき者の手に陥らないように必死なのです。それがここで述べる彼の「愚かな者となっての誇り」です。このようなことを誇りたくなどない、しかしここでは自分が愚かなものになって誇るから我慢してほしいと、前置きをしたうえでのことばが続きます。

 ここを読むと、パウロが受けた苦しみの大きさがどれほどのものだったかと胸が詰まる思いです。23節に「彼らはキリストのしもべですか。私は狂喜したように言いますが、私は彼ら以上にそうです」と絞り出すように訴えます。パウロにここまで言わせなければならないコリント教会の情けなさのようなものも20節のことばから伝わってきます。

 偽使徒たちの間違った誇りによって愛する主にある教会がだめになってはならないという必死の思いが、パウロのことばからほとばしりでています。


少しばかりの愚かさ

2023年09月21日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙第二 11章1−15節

 水曜日午前の祈祷会、「みことばの光」のその日の箇所を読むのですが、みんなで読むと一人では読み過ごしてしまうことばに目が留まります。

 10章の後半に何度も用いられているのが「誇り」「誇る」ということば。パウロの誇りとは自慢や自己満足ではありません。達成感に浸ることとも違います。彼はキリストが自分に授けてくださった務めに励み、それを成し遂げることによって、主を誇るのです。ですから、パウロの誇りとは主を誇ることです。

 彼は「私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います」と書いています。「少しばかりの我慢」というのは、彼が自分が使徒であることを、特にコリントの教会に福音を届け、彼らを心底愛していることを誇ることです。

 しかし、コリント教会は表向きは真理の教師の顔をした偽者によって荒らされ、主イエスの教会としてのあり方を失っていました。特に偽教師たちはコリント教会の土台を据えたパウロに激しい攻撃を浴びせて、自分たちが教会の指導者となろうと企てていました。

 そして彼らのねらいは、教会から経済的な利益を吸い上げることにもありました。パウロが自分の生活の糧をコリントの教会に期待しなかったと証しするのは、そのような背景に基づくものだったのでしょう。

 6節はユーモラスにさえ響きます。パウロをそんなふうにけなす輩(やから)がいたのです。誰かを貶(おとし)めようとするとき、人はどんな手段をも用います。なんと陰険なことでしょう。でも彼は、「そんなことはない! 自分は素人ではない」としていきり立つことはしません。学ぶべき姿勢です。


聴くべきことば

2023年09月20日 | コリント人への手紙第二

コリント人への手紙第二 10章

 空気がひんやりしてきました。室内が暖かいので半袖で外に出ると上着が必要に…。昨日からは部屋に差し込む陽射しをシャッターでさえぎることをしなくてもよくなりました。

 どちらかというと9章までのパウロの文章は、コリントの人々への心遣いに満ちていたように思えます。どんなにかコリントの教会を愛しているのかを、相手に分かるように書いてきました。

 ところが、ここからはトーンが大きく変わります。1コリントと2コリントとの間に送った「厳しい手紙」が具体的にどのような内容であったかは分かりませんが、おそらくこのような文章もあったのだろうと想像できるような書き方です。9章までと10章以降のあまりの違いに、10章以下は後で書かれたものだとか、反対に10章以下が先に出されたものだと考える人たちもいます。しかし、「みことばの光」が書くように、一つの手紙の中に別の読者のことをパウロが考えていたのかもしれないと、考えることもできるのです。

 この文章は、なおコリント教会の中にいた、パウロの勧めに心を頑なにし続けている人々へのことばです。パウロはなおも彼らに迫ります。それは彼らを「つぶそう」としてのことではありません。また、パウロのプライドのためでもありません。悔い改めない人々への愛ゆえに、そしてコリント教会への愛ゆえに、父なる神の愛とキリストの恵み、そして聖霊との豊かな交わりゆえに、取るべき姿勢だとパウロは確信していました。

 「パウロが偉そうに……」というつぶやきが読者の中から聞こえてきそうです。しかし、耳に痛いことばこそ聴くべき大切なことなのだと、ここでのパウロの姿勢は伝えています。


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