みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主は私の心をご覧になり

2014年08月30日 | サムエル記第二
サムエル記第二 16章


 予定されていた少年野球夏の大会は、天候不良で9月20日に延期されました。久しぶりの1勝をと意気込んでいた監督初めコーチ陣はちょっと残念。でも、肝心の選手たちは…。ちなみにチーム名は「プレイズ」です。こんなバッチが参加者に配られます。14_2

 逃避行の中で、ダビデの前にはいろいろな人が現れます。
 ツィバは、二頭のろば、その上のたくさんの食糧をダビデに贈ります。主人メフィボシェテがアブシャロム側についたことを匂わせることばとともに…。苦しいときにこのようにしてくれるツィバをダビデは信用し、「メフィボシェテのものはみな、今、あなたのものだ」と言ってしまいますが、実際はどうだったのでしょうか。⇒19章24節以下

 シムイは道すがらダビデをのろい、石を投げ続けました。
 王となったのはサウルに直接手をかけたからではないので、シムイののろいにいきり立って殺してしまうこともできたのでしょうが、ダビデは主がお命じになったことなのだからと、甘んじて受けました。アブシャロムが謀反を起こした深い原因が自分にあることを、だれよりもダビデ自身がわかっていたということなのでしょう。

 つらいときに自分に良くしてくれる人の行為はありがたいし、反対にあれこれとうわさを立てたり、面と向かって非難する人がいれば、追い打ちをかけられるようです。けれども、ダビデはこのような中でも主を仰ぎ、主の御手を信じます。だから、半分の真実しか伝えないシムイののろいにも耐えるのです。

 すぐムキになって、「何を!」と思ったり言ったりしやすい者の心に、「主は私の心をご覧になり」とのダビデのことばが響きます。
      


2014年08月29日 | サムエル記第二
サムエル記第二 15章19?37節


 アブシャロムの謀反に遭って、ダビデはエルサレムを離れなければならなくなりました。
 ここには、ダビデと関わりのある様々な人々の態度が描かれます。
 ガテ人イタイは、ダビデと同行することを申し出て受け入れられます。「みことばの光」が書くように、やがてイタイはダビデの将軍の一人に任じられるのですが、かつては敵国だったガテ人の申し出は、わが子に裏切られたダビデにとってどんなに力になったのだろうかと、思うのです。

 神の箱を持ってダビデとともにエルサレムを出た祭司ツァドクは、ダビデの勧めに従って神の箱とともにエルサレムに戻ります。あるいはダビデには、今回の謀反はもとはといえば自分に第一の非があると思っていたからなのかもしれません。

 他方ダビデの知恵袋といわれていたアヒトフェルがアブシャロム側についてという知らせは、ダビデを震撼させます。それゆえダビデは、振り絞るようにして主に助けを祈り求めます。アヒトフェルではないかとうかがわせるような詩をダビデは歌っています。
 「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」(詩篇41篇9節) 

 ダビデは混乱の中で友を得ます。フシャイです。聖書はフシャイを「ダビデの友」だと紹介します。事実フシャイはアブシャロム側が崩壊するきっかけを作るのです。

 辛いときや苦しいときに、いっしょにいてくれる友がいるのはさいわいなこと。「いつくしみ深き」というよく知られた讃美歌は、「いつくしみ深き 友なるイエスは」で始まります。信仰者は、主イエスが友であると確信して歩みます。きょうも…。
     


心を盗む

2014年08月28日 | サムエル記第二
サムエル記第二 15章1-18節


 きょうからサムエル記第二の後半を読み進めます。
 ここには、息子アブシャロムの謀反に始まるダビデ王の後半生、晩年が描かれます。

 アムノンにタマルを犯されて2年後、アブシャロムはアムノンを殺します。
 アムノンを殺害したアブシャロムは、3年間母方の家のあるゲシュルに逃れます。
 エルサレムに戻ったアブシャロムは、2年間ダビデに会ってもらえません。
 そして、アブシャロムはダビデへの謀反を企て、4年にわたり人々の心を自分のほうになびかせる努力を続けます。

 この間、彼の憎悪の対象は異母兄アムノンから父ダビデへと移りました。そしていよいよ、ダビデへの謀反を決行するのです。それにしても、4年間のアブシャロムの努力は大したものです。一度や二度では何も起こらないことが、4年間「いつも」し続けていくうちに、人々の心は自分のほうになびいてくるのを彼は体験するのです。
 「いける!」と思ったのかもしれません。
 けれども、それは「イスラエル人の心を盗む」ということでした。

 先週は中高生のためのアウトキャンプがあり、昨夜の祈禱会にはスタッフとして参加した2名が出席し、報告してくれました。この頃思うのは、特に中高生はどれだけ彼らと時間を取ったかが大切だということ。もっともっと「むだな時間」を大切にしていきたいとスタッフの一人も話していました。

 アブシャロムがしたのは、人々の心を自分に向けること。しかし、信仰者がするのは、人々の心を主イエスに向けること。

 そして、盗んで得た心はやがて盗まれてしまうのです。
   


ともにいるから

2014年08月27日 | マタイの福音書
マタイの福音書28章11-20節


 福島で2歳になろうとしている孫とローカル私鉄に乗りました。
 たった10分間の乗車時間でしたが、電車好きの彼女は席にちょこんと座って緊張気味。充分楽しんだようですが、一言「ママは?」やっぱりママがいっしょにいるのが一番いいのだと、安心もしました。

 3月から読み進めてきたマタイの福音書は、きょうで一旦終わります。といいましても、1、2章はクリスマスの時期に読むことになっていますので、もうちょっと残っているのですが…。

 主イエスの復活をあくまでも認めようとしない人々のむなしい画策が講じられる一方、主イエスは十一人にガリラヤで会い、宣教の命令をお与えになりました。
 この箇所を読むごとに、何のためにイエスを主と信じたのかについての確認を迫られます。行き詰まりを覚えたとき、逆に自己満足に浸っているときに、この箇所を「エイッ」と開いて、主のご命令に耳を傾けるようにしています。

 命令をお与えになる方は、天においても、地においても、いっさいの権威を与えられているお方なのだから、命令に従う上で妨げとなるものは何もないこと、命令をお与えになる方が世の終わりまでいつもともにおられるので、勇気をいただける、…読む度に何のために自分があるのかを探られ、身の引き締まる思いがします。

 急に涼しくなりました。夏の疲れが出やすい頃です。互いに気をつけたいと思います。
   


そこで…会える

2014年08月26日 | マタイの福音書

マタイの福音書28章1-10節


 日曜午後から月曜日にかけて福島に行きました。Img_2241

 宿泊先で明け方、カーテンを開けたらこんな空が…。10分も経たないうちに消えてしまいましたが…。早起きしたので見られた景色でした。

 きょうの通読箇所には、主イエスが復活された朝の出来事が記されています。

 金曜日にマグダラのマリヤとほかのマリヤは、イエスが納められた墓を見届けていました。そして、安息日が終わった週の初めの日の明け方、彼女たちは墓に来ました。「みことばの光」では、きょうの解説の前のページに「復活の朝の出来事」という特集記事があります。四つの福音書の記述を比べて、女たちや弟子たちの動きがこのようであったのではないかと書いていますので、参考になります。

 心に留めたのは、御使いも、復活された主イエスご自身も、「ガリラヤに行くように…そこで会える」と弟子たちへの伝言を女たちに託しているということ。ガリラヤは弟子たちにとって、主に会い、弟子として声をかけられた場所。また、彼らの生活の場でもあります。主は、日曜日の夕方に弟子たちにお会いになっているのですが、マタイの福音書はそこはカットして、ガリラヤでイエスに会ったと続けます(16節以下)。

 ガリラヤは弟子たちにとってはどのような場所だったのだろうかと、改めて思います。そして、私にとってのガリラヤとはどこなのかも…。
   


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