みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

愛する者に寄りかかって

2017年06月23日 | 雅歌

雅歌 8章

 ヨーロッパの猛暑が日本でも報じられたとある方が言っていました。昨日も暑かったのですが、夕立があってホッとしました。涼風の中で書いています。

 雅歌も終章。ここには、困難を乗り越えて互いの愛を高め深め合う二人の様子が描かれています。

 5節の「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう」ということばに目が留まります。もしかしたら、雅歌に度々登場する「エルサレムの娘たち」のことばかもしれません。この章には、花嫁の母、兄弟が登場します。エルサレムの娘たちも登場します。まるでミュージカルのフィナーレのような場面を想像します。舞台中央には、夫と妻とが互いに寄りかかって登場するのです。

 「みことばの光」は寄りかかることで、二人の歩みが平安で穏やかなバランスの取れたものとなると、「寄りかかる」ということの意味を説いています。確かに、どちらか一方が依存するといつかバランスは崩れます。

 ここから私は、二人で森を歩く自分たちのことを思いました。寄りかかって歩いているということはないのですが、二人が同じ歩調で同じ方向に歩きます。森を貫く道の右側を歩くのですが、時々二人の間が開いて、後ろから来る自転車の「チリリン」という音であるべき間隔に戻されます。動作的にずっと寄り添って歩くわけにはいきませんが、気持ちとしては互いに寄り添って歩くのだと気づかされました。

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私の愛をささげましょう

2017年06月22日 | 雅歌

雅歌 7章

 暑さが続きます。きょうの予想最高気温は34度とあります。さて、どんな一日になることやら…。

 7章から8章4節までは、夫と妻とが相手をたたえ合っているので、「愛の二重唱」と呼ばれているのだそうです。これらのほめ歌はメロディがついていたことでしょう。オリジナルを聴いてみたいと思いました。

 夫の妻の美しさをたたえることばは尽きることがないようです。今の私たちが読むと、ちょっとユーモラスに思えるようなたとえ方も、二人にとっては充分に愛を確認し合える美しいことばなのでしょう。これらのことばも、昔のことばで言えば「壊れたレコード盤」のように同じ台詞を何度も繰り返すのではなくて、相手の美しさを日々再発見していくのだというのが伝わってくるほどです。

 「みことばの光」は、夫が妻をたたえる「ああ、慰めに満ちた愛よ」ということばは、姿形をほめるだけでなく、夫が妻の人格を賞賛することばだと説いています。そのようにほめられた妻は、夫に「私の愛をささげましょう」、「これはあなたのために蓄えたものです」などと返します。

 このブログでは、雅歌を「自然に読む」、つまり男と女の間の愛の物語として読んできていますが、「私の愛をあなたにささげましょう」というのは、キリストの花嫁とたとえられるクリスチャンが花婿イエスに告白する愛のことばとでもありたいと願うのです。

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成長

2017年06月21日 | 雅歌

で雅歌 6章

 暑さが厳しい中、夕方に森に避暑に行きました。森に入った途端、気温が二三度低くなったような気がします。ベンチに腰を下ろしていると、風がどこからとなく吹いてきます。汗が噴き出るほどの暑さではありませんが、それでも涼風に生気回復! でした。でも、そのあと歩いて買い物に行きましたら、また汗が…。

 行き違いを経て、二人の関係は回復に向かいます。妻が変わらずに夫を「私の愛する方」と繰り返し読んでいることに、真実な姿勢をみることができます。一方の夫は、妻への賛辞のことばをここでも繰り返します。夫の妻を愛する心は揺らぐことはありません。4-7節の夫のことばは、4章1-3節のそれとほぼ同じです。二人の間にいわゆる「マンネリ」ということはないのだ、何度も何度も相手の美しさをことばで伝えることの肝要さを教えられます。

 「みことばの光」が書いているように、二人は行き違いという危機を経験することによって、内面の変化、成長を経験しています。そして、互いの成長を相手が気づき、喜んでいる様子が伝わってきます。

 相手の非をなじり、変わってほしいと要求するのではなくて、危機の中で自分を見つめて変わるという成長が見られるなら、危機は神が二人に賜った試練でもあるということに気づきます。

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行き違いを乗り越える

2017年06月20日 | 雅歌

雅歌 5章

 晴れて結婚し二人の生活が始まりましたが、ある日互いの間に行き違いが生じてしまう…、これが本章の始めに描かれている情景です。

 妻は食事を整えて夫の帰りを待っているが、夫は友とのつき合いで帰宅が遅くなってしまいます。妻は夫のことが気がかりになりながらも床に入って休んでしまいました。そんなところに夫が帰って来ます。しかし、妻は、夫への怒りをどこかに抱きながら戸を開けるかを躊躇して、それでも戸開けてみると夫はいないのです。

 このようなことは、今でもよく起こることのように思います。そんなこと、あるあるとうなずかれるかもしれません。夫婦であるがゆえに、行き違いが大事(おおごと)になるということもあります。

 二人は、そのような中で互いの結びつきを失うことなく、これを乗り越えて行く様子が後半に描かれています。「みことばの光」は、「彼女にとって愛する方の輝きは失せていない」と書いています。9節は「エルサレムの娘たち」が妻に問いかけることばです。それが、夫を自分にとってなくてならない存在なのだということに改めて気づかせるきっかけになったのではないか、とも考えられます。

 二人の間に問題が生じた時に、自分の言い分を感情を先に立てていまうと、抜差しならないところにまでいってしまうというのは、多くの人が経験していること。そのような中で、「あなたの愛する方は、…何がすぐれているのですか」と問いかけに答えることが、難局を乗り越える鍵のことばのようです。

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何と美しいことよ

2017年06月19日 | 雅歌

雅歌 4章

 花婿が花嫁の美しさをありったけのことばでたたえているのが本章です。「何と美しいことよ」の繰り返しからはじまる花婿の賛辞は、目、髪の毛、歯、口、くちびる、頬、首、乳房へと移っていきます。しかも、きれいだ、美しいという決まり文句を宣べるのではなくて、様々なものに譬えて伝えています。どれほどの知恵を用いたのだろうかと驚かされます。

 「あなたの髪は、ギルアデの山から下りて来るやぎの群れのよう」とは、花嫁の髪の毛を黒毛やぎの一群が山を下りてくる様子に譬えて、黒髪の流れるような美しさをたたえているのです。「洗い場から上って来て毛を刈られる雌羊の群れのよう」とは、洗われた羊の毛の白さと花嫁の歯の白さとを重ねているのです。

 けれども、花婿は花嫁の外見に気を取られてばかりいるのではありません。「あなたは何の汚れもない」(7節)、「あなたの愛は、何と美しいことよ」(10節)と、内面の美しさにも心を留め、それを口に出してたたえています。

 雅歌の読者は、婚礼を挙げたばかりの、花婿と花嫁の間に交わされる閉じたほめことばを聞いているのです。それは他の誰にも漏らされないものなのですが、神はご自分のことばとして聖書を読むすべての人に明らかになさったのです。

 「みことばの光」の「考えよう」に、「あなたは大切な人に、神の愛に基づいて励まし勇気づけることばを用いて交わっているだろうか」との問いかけに、どのように応えましょう。

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