みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

愛の強さ、激しさ

2022年06月27日 | 雅歌

雅歌 8章

 雅歌の終章。信仰をもって間もない頃、5節の「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上って来る女の人はだれでしょう」をそのままテーマにした話を聞いたことがありました。内容はすっかり忘れてしまいましたが、不思議なテーマだと今でも覚えています。

 雅歌は男性と女性の対話だけでなく、その合間に「エルサレムの娘たち」と呼ばれている人々を初めとして、幾人かの登場人物がいます。「自分の愛する方に寄りかかって…」と尋ねたのは誰か、エルサレムの娘たちだとも考えられます。こんなふうに思われ、ことばをかけられたら、どんなに嬉しいことかと思いました。最初ははやし立てていた彼女たちも、今は二人の愛が真実なものだと認めるのです。

 6−7節は、たとえば「オラトリオ雅歌」という曲があったとしたら、最も強烈な部分でしょうか。愛は押印になぞらえられます。一度印を押したら決して消されることはない、他者が介入する隙はない、だれも愛の炎を消すことはできないほどのものだと、響き渡るのです。これほどのものだからこそ、財産を持ってしても手に入れることができず、そんなことをしようものなら、周囲からの蔑みを受けるのは必至だと歌います。

 ここを読んで、神の愛を思いました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」というヨハネの福音書3章16節のことばが心に湧いてきます。

 


帰りなさい、帰りなさい

2022年06月25日 | 雅歌

雅歌 6章

 シュトゥットガルトを訪ねました。開始時刻よりも1時間以上も早く到着したので、会場のそばの森を歩きました。町の中にあるのかと思えるほどの広さで、時間内では森の端まで行くことはできませんでした。

 雅歌をここまで読んできて、若い男性と女性の出会い、互いの美しさや素晴らしさをほめ合う、愛し合って結婚へと進む、行き違いから夫がいなくなってしまう…と話は進んできました。けれども、結婚は決して二人だけの愛のストーリーではなくて、家族や周りの人々の愛や支えによってさまざまな危機を乗り越えて行くことを知ります。

 二人のことを冷やかし気味にはやしていた「エルサレムの娘たち」は、ここでは「私たちも、あなたといっしょに捜しましょう」と、妻が夫を捜すのに、協力を申し出ています。2節は、そんな申し出を素直に受け止められずに、「あの人のいるところは知っています」とムキになっているようにも思えます。

 一方、夫は妻への愛をどこかにやってしまったのではありません。彼は、離れていても妻の美しさをほめるのです。しかも、まるで自分の目の前に妻がいるかのようにして、「あなたの…」と。その賛辞はこれまで何度もたとえられてきたこと、しかし、それは決してマンネリなどと言うものではありません。夫の妻への愛が何ら変わりがないということを、伝えているようです。

 だれが妻に、「帰りなさい。帰りなさい」と呼びかけているのかははっきりしません。しかし、ここでも二人の関係を気遣う隣人がいます。


すれ違いのなかで

2022年06月24日 | 雅歌

雅歌 5章

 夏至を越したばかりの当地の日の入りは9時30分過ぎ。最高気温は夕方の6―7時頃に記録することが多いのですが、昨日は32度でした。カラッとはしていますが、やはりそんな中に身を置きますと疲れます。階下はうそのように涼しいのですが…。

 5章では、若い夫婦のすれ違いが描かれます。互いへの愛を誓い一緒の歩みを始めて心も肉体も一つになる喜びを味わったのも束の間、きっかけは夫の帰宅が遅れたこと。戸を叩くのは夫。しかし妻はなぜかすぐに戸を開けようとはしません。自分の思い通りの時間に戻ってこない夫へのいらだちやさびしさ、または恋い慕う思いなどが交錯していたからでしょうか。

 戸を開けて見ると、夫は背を向けて去って行くところでした。その時妻は、「私は、あの方のことばで気を失うばかりでした」と言っています。夫が何を言ったのかここには明らかにされていませんが、気を失うほどのことばを背を向けて去って行く夫が語ったのでしょうか。たとえば、「しばらくは戻らない」など…。

 こんなときの夫婦は、売り言葉に買い言葉とばかりに、「それなら私だって…」となり兼ねないのですが、妻は必死に夫を捜します。結婚前から自分たちのことを冷やかすようなことを言っていた「エルサレムの娘たち」にも、「わたしの愛する方を見つけたら…」と頼んでいます。このことからも、夫をどうしても捜さなければという妻の強い決意が伝わってきます。

 エルサレムの娘たちから、「そんなに必死に捜すあなたの夫のどこかいいの?」と聞かれて妻は、改めて夫の素晴らしさを話すのです。そして話すことで、彼女の夫への思いはいよいよ募ります。

 こんなことってある!、と思いながらここを読みました。


ああ、あなたは美しい

2022年06月23日 | 雅歌

雅歌 4章

 水曜日はクッキーの会。用意万端整えて会場に向かったはずでしたが、卵を、エプロン、…を忘れたので買い物に行き、また自宅に戻りました。たくさん歩くことができたのはとてもよかったです。

 結婚式でで夫は初々しい妻の美しさをありったけのことばでほめます。目の美しさを鳩のようとたとえているのは、1章15節でもそうでした。目から豊かな髪、白い歯、唇、頬、首、乳房へと花婿の賛辞は続きます。このように声をかけられた花嫁はうれしさにあふれ、頬をいっそう赤らめたことでしょうか。

 10節の「あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく」ということばに目が留まります。新郎は新婦の外面的な美しさばかりでなく、内面の美しさに目を留めているのです。

 今日の「みことばの光」に、「年を重ねてしわだらけになった手も、自分と家族のために苦労した手だと思えば、涙が出るほど愛おしくなるはず」とありました。いつの間にか、こんなにしわがと妻の手を見て思ったことを思い出しました。しかし、手を握ったその感触は若い頃と何ら変わりはありませんでした。

 「ああ、あなたは美しい」と繰り返すのは、新郎だけではありません。黙っていても分かるはずなどと逃げずに…。


私の母の家に

2022年06月22日 | 雅歌

雅歌 3章

 久しぶりに、「みことばの光」を用いてのネットグループデボーションに混ぜていただきました。いつも思うのは、一人で聖書を読むのもとても良い時間を持つことができるのですが、何人かで分かち合いながら読むと、自分では気づかなかった発見があることです。

 招きに躊躇しているうちに、愛する相手はどこかに行ってしまいました。女性は男性を捜しますが見つかりません。1−2節で繰り返し使われている「捜す」ということばから、彼女は一日中夜回りたちが町を行き巡るような時間まで捜し続けていたことが伝わってきます。

 しかし彼女にとって大切な相手を捜すのは、誰かの目を気にして入られないほどの人生の一大事。周囲が何をしているのだろうといぶかしがっていようと彼女は捜し続けます。

 4節は二人が結婚に導かれる様子を描いているようです。「私の母の家に……お連れしました」ということばに目が留まります。このことばが、二人が結ばれるのだ、結ばれたのだという安堵を読む人々に与えているのだと思ったのです。

 6節以降には突如としてソロモン王の結婚式の情景が表れます。これは花嫁を迎えに行く花婿の行列の場面です。これは結婚に導かれた女性の心に思い描いたものなのでしょう。4節の「母の家に…」ということば、そして6節以降は、二人がそれぞれの家族のあふれるほどの祝福の中で結婚したことを伝えようとしています。


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