みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

湧き水の泉を捨てて

2015年08月31日 | エレミヤ書

エレミヤ書 2章1−19節

 「みことばの光」では、日曜日からエレミヤ書の通読がスタートしました。これから11月までルカの福音書と交互に読んでいくことになります。

 エレミヤは預言者としての召命を神から受け、神がエレミヤに語れとしてお与えになったことばを民に届けるのですが、それは聞く者の心を喜ばせたり、 良い気分にさせたりするようなものではありませんでした。彼は、40年間の預言者として非難や攻撃にさらされながら、神からのさばきの宣告を同胞に伝えたのです。

 「みことばの光」は、きょうの箇所のタイトルを「変わる人間、変わらない神」としました。

 2節の「若かったころの誠実」とか「婚約時代の愛」ということばから伝わるのは、誠実や愛の変質です。神がご自分の民としてお選びになったイスラエルは、神への誠実や愛がどこかに行ってしまったと、ここで神はお語りになっているのです。私たちは食品を食べるとき、賞味期限を気にします。ある一定の期間を過ぎると、品質が変わり、味が変わるからです。しかし、神への信仰はそのようなものであるべきではないということが、ここから伝わってきます。

 一方、神のご自分の民への愛、誠実は変わりません。だから、神は預言者エレミヤに厳しいことばを授け、民に語るようにしておられるのです。エレミヤがもし、神の御思いを知ろうとしなかったら、とうていこんなに厳しいことばを語ることができないでしょう。

 写真は、ルター生誕の地アイスレーベンでの一枚です。


何一つわからなかった

2015年08月29日 | ルカの福音書

ルカの福音書 18章31−43節

 自動車で出かける折に頼りになるのが、今ならカーナビでしょうか。私もスマートフォン用の地図アプリを使用していますが、これがなかなかのもの。予め目的地までの地図をダウンロードしておきますと、携帯の電波によらずにGPSでピタッとそこに連れて行ってくれます。徒歩ルートのナビもしてくれて、教会までは6.2キロ、徒歩1時間15分と表記しています。いつもの公園を突き抜ける道で、楽しそう。一度歩いて教会まで行ってみましょう。

 行く先に何が待ち構えているのかを、弟子たちはわからないまま主イエスとともにエルサレムに向かっていました。ここで、主はエルサレムでご自分が何を経験なさるのかを12人をそばに呼んでお話になります。それは十字架と復活です。ところが、彼らには「これらのことが何一つわからなかった」のです。

 「みことばの光」が書くように、弟子たちがここで主イエスが話しておられることの意味を理解するようになるのは、ずっと後のことです。

 エリコの恐らく入り口から出口まで、ずっとイエスに「つきまとって」いた盲人。マルコの福音書では彼の名前をバルテマイと明かします。もっともこれも、「テマイの子」の意味ですから確かな名前はわかりません。彼はお通りになるのがイエスだと聞いて、「私をあわれんでください」と叫び続けます。そして、立ち止まった主が「私に何をしてほしいのか」と尋ねると、「目が見えるようになることです」と、イエスを主と呼んではっきり願います。

 彼のほうが、よほどわかっていたとも言えます。何もなければ主に頼らざるを得ない、このことを彼の信仰が教えています。


決してそこに…

2015年08月28日 | ルカの福音書

ルカの福音書 18章15−30節

 きのうは納豆のことを書きましたが。食べました。美味しかった! です。納豆をかき混ぜて刻んだネギを入れて、練りトウガラシをちょこっと入れてご飯にかけて食べますと、何杯でも食べられる感じです。でも、そこはがまん。またきのうは、ある方のおうちを訪ねて、お子さんに遊んでもらいました。子どもの話をゆっくり聞いてみると、いろいろなことを考えているのだなぁと改めて思います。楽しい時間をありがとう!

 きょうの箇所には、二種類の人がイエスのところに近づきました。「みことばの光」では、後半の金持ちの役人のことを書いていますので、前半について考えてみます。

 幼子たちを連れて来たのは親なのでしょう。「さわっていただこうとして」とありますので、祝福してほしいと願ってのことだったのでしょう。ところが弟子たちは彼らをしかります。なぜしかったのかの理由はわかりません。しかし、このあとの主イエスのおことばから想像すると、「子どもなんて連れて来るんじゃない」「先生はお忙しいんだ」というようなことだったのかもしれません。

 けれども、主は子どもをそのようには見ておられません。弟子たちをいさめ、子どもたちを止めてはならないとだけではなくて、「神の国はこのような者たちのもの」だとさえおっしゃったのです。そしてさらに、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはでき」ないとまで言い切っておられます。当時の人々の常識をひっくり返すようなことばに、聞いた人々は驚いたことでしょう。

 自分には価値があるから、神さまにおぼえていただけるとどこかで思ってはいないだろうかと探られます。


祈り

2015年08月27日 | ルカの福音書

ルカの福音書 18章1−14節

 きのうは手作りの納豆をいただきました。ちょうど前の日に、このごろ納豆を食べていないねなどと二人で話していたところなので、その納豆がいただけるなんてびっくり。

 納豆と言えば、神学校の朝食は納豆、切り干し大根、ひじき、それに卵だったかが順繰りになるメニュー。どれも健康にはよいのですが、さすがに三年間食べ続けますと「もういい」という気分になります。結婚したばかりの頃、「納豆と切り干し大根とひじきはおかずにしないで…」と贅沢にも妻に頼んだことがありました。でも、今は健康のために食べるようになりました。「納豆をください」と祈る前に、神さまがくださったのだと思うと、どんなことでも祈ろうという思いを新たにしました。

  祈りについての主イエスの二つのたとえ。
 
 一つは、不正な裁判官がやもめのうるさいほどの願いに根負けして、裁判をしてやることにしたというたとえです。ここから、あきらめないで祈り続けよという大切な励ましを得ることができます。人の子がいなずまのように来る、その時は神のさばきのときだと、主はすぐ前の箇所でお教えになりました。それはいつ、どこででしょうというのが聞く者たちの大きな関心です。けれども主は、それにはお答えにならことなく、その時まで信仰をもって祈り続けよと言っておられるのです。
 
 8節に、「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」とのことばはどのように受け止めるべきなのかと考えました。それは、神がお考えになるすみやかなのではないでしょうか。だから、祈り続けよとの励ましがあるのです。
 
 次は、パリサイ人と取税人の祈りについてのたとえ。どのような心で祈るのかについて、主が教えておられます。パリサイ人の祈る姿について、こんな説明を見つけました。
 「彼は神をちらっと見るが、自分をじっと見つめる。」 なるほど、パリサイ人は「自分は、自分は…」と祈ります。鼻高々に…。
 ところが取税人は、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と願います。神さまの前に出る時に、罪をおぼえない人はいないということを忘れずに、祈り続けたいと思います。

ここにある

2015年08月26日 | ルカの福音書

ルカの福音書17章20−35節

 青空の中でも空気が冷たいと感じる一日でしたが、わが家にいらした方は半袖でした。私たちは長袖でいましたので、気温の感じ方というのはずいぶんと違うものだと思いました。気象情報、天気予報などは、今ではかなり精度が高くなって、あしたは晴れか雨かは、予報を信頼してもだいじょうぶなようになっていますね。

 ここで主イエスは、「神の国はいつ来るのか」というパリサイ人たちの質問に答えておられます。

 一つは、「神の国は、あなたがたのただ中にある」とおっしゃったことです。これは、そのように尋ねたパリサイ人の心の中に神の国があるということではなく、主イエスの人格とお働きの中に神の国があるとお答えになっているのです。ですから、ここは次のように言い換えるとよいかもしれません。「あなたがたは、ここに、あそこにと、場所を考えているかもしれないがそうではない。神の国はほら、あなたがたの目の前にある、わたしなのだよ。」

 さらに主は、やがてご自分が再びおいでになる「人の子の日」について語っておられます。その特徴は、突然に来るということ。ノアの時代、ロトの時代、洪水や天からの火と硫黄は誰もが予測できなかった時にやって来ました。「人の子の日」も同じだとおっしゃるのです。「みことばの光」は、それに気づかなければならないと書いています。

 毎日の身の回りのことで一生懸命なのが私たちのほぼ全部。自分のことだけに関心を向けるような生活をしています。聖書を読む時祈る時に、主の十字架のみわざに感謝するとともに、主の日が来ることを思い起こす必要もおぼえます。


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