みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主が戦っている

2024年04月20日 | 創世記

出エジプト記 14章

 きょうは母の命日だと、カレンダーからリマインドが届きました。2007年でしたので、17年前のこと。その一週間前、入居していた特別養護老人ホームでユニークな信仰告白をしバプテスマを受けました。母らしい凱旋(がいせん)でした。

 本日の箇所は、聖書全巻の中でも劇的な情景が描かれています。真夜中にエジプトを出たおびただしい民を、ファラオが軍勢を整えて追い迫ります。5節に「われわれは、いったい何ということをしたのか」というファラオのことばがあります。それは、主がファラオの心を頑なにしたからだとその前に書いてあります。

 ファラオが物分かりがよくなったのでイスラエルの民は安心してエジプトを出たと、話は展開しません。なぜこのようなことになるのか。「わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す」との主のことばに目が留まります。主なる神は人の思いや企てよりもはるかに高いお方。反対者さえもご自分の栄光を現すために用いるのです。

 追い迫るファラオの軍隊を見上げた時の、イスラエルの民の恐怖の叫び。彼らは主に叫んだのですが、すぐにモーセを責めました。このようにすることによって彼らは、ただおひとりでファラオに勝利し、ご自分の力で彼らをエジプトから連れ出された主を責め、主に文句を言っているのです。

 しかし、ここでの民の姿を愚だと言い切ることは、私にはできません。人生において何度このようなことを繰り返してきたのだろうかと、思わざるをえないのです。

 このような大パニックに陥る民に、モーセは語るべき最も大切なことばを届けました。「恐れてはならない」です。このことばをきょう、いつどこで自分に言い聞かせるでしょうか。


貧しくても

2023年12月19日 | 創世記

箴言 28章

 久しぶりに行ったスーパーの精肉売り場で、「お試し」として美味しいクリームチーズをいただきました。ショーケースの前で食べたそうな表情をしていたのかもしれません。

 箴言28章は、再び2行一まとまりの格言が連なります。ここには「貧しい」ということばが繰り返し出てきます。3節には「弱い者を虐げる貧しい者」、6節には「貧しくて、誠実に歩む者」とあります。どちらも貧しさという境遇の中に置かれています。しかしさらに弱い者を虐げる者もいれば、誠実に歩む者者もいるのです。

 8節にも目が留まります。よくに目がくらみ高い利息を取って一時は金を儲けることができたとしても、やがてそのお金は貧しい人に恵むためのものとなるというのです。モーセの律法では、イスラエルは同胞から利息を取ることを禁じていました。

 富はその人を賢そうに装わせてはくれるのですが、分別のある貧しい者がその人を「調べる」と11節にあります。持っているからといって自分が立派な者であると勘違いしないようにということでしょう。また、分別があるからといってその人が必ず豊かになるとは限らないということにも気づかせてくれることばです。

 ここを読んで、パウロがピリピの教会に書いていることばを思いました。 「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。   私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」ピリピ人への手紙4章11−12節

 持っているか持っていないかというのではないということ……。


神々しい唇

2023年12月01日 | 創世記

箴言 16章1―15節

 きょうから12月。「みことばの光」の表紙もいわゆるクリスマスカラー。デザイナーさんからいただいた時、「おおっ!」と思わず言ったことを覚えています。いつもはおすましして直立したり、よりかかったりしている「彼ら」が今月号では互いによりかかっています。一緒に救い主のお出でを喜んでいるようにも見えてきませんか。

 この箇所の後半には王についての格言が並びます。ここに明らかにされているのは、自分を国の上に立ててくださった神の心を自分の心とし、行おうと努める王の姿です。現代ならばそれは、大統領、首相にも適用できます。果たしてどれだけの「王たち」がここにあるような姿勢を持っているだろうかと考えてしまいます。

 国のために、民のために、正しく務めを貫くのは、簡単なことではありません。何よりも権力者としての欲望のようなものが立ちはだかると思います。その中で、10節の「王の唇には神々しさがある。さばくときに、その口は神の信頼を裏切らない」とあります。王が神々しいのではない、神を恐れるからこそ王のことばには力や慰めがあるのだと、ここを読んで考えました。良い時のソロモン王はこのようであったのかもしれないと、想像しています。

 「ソロモンの箴言」で一貫しているのは、語ることばの大切さです。「神々しい唇」「正しい唇」、それは主を畏れることから出てくるのだと、改めて教えられます。


知恵と創造

2023年11月20日 | 創世記

箴言 8章22−36節

 私のIPadの画面の壁紙を、自分で撮った自然の写真に替えました。「美しい! だれが撮ったのだろう?」と疑うほどの出来栄え。オリジナルの写真を見栄えが良くなるように補正しているようです。それにしてもきれいな風景です。

 8章後半は、神の創造における知恵の役割を歌っています。まず、神はご自分の働きの最初に知恵を得ておられたのだということばに目が留まります。よく考えるとうなずけます。もしも知恵が神による創造によるものならば、創造される前の神には知恵はなかったということになります。知恵は神によって創造されたものではなくて、神ご自身がもともと持っておられたもの、得ておられたものだということをここから考えることができます。

  このことばは、「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方」という、コロサイ人への手紙1章15節のことばと重なります。

 30節での「わたし」(知恵)の働きにも目が留まります。「わたしは絶えず神の傍らに」いて、天地創造の働きに従事していたと、ここから読むことができます。今日の「みことばの光」が書くように、このことばは新約聖書コロサイ人への手紙1章16−17節を思わせます。

 「天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」

 神の知恵が創造のみわざに携わっていた、だからわたしの呼びかけに人は答えなければならないのだと、知恵は訴えます。この章後半の知恵の呼びかけと約束は、神のことばとしてお出でになったお方の呼びかけと約束に通じます。だからこそ、だれに聞くのかが大切なのです。いい加減なことをもっともらしく語るこの世のさまざまな声に呑み込まれてしまわないようにと、ここから教えられてます。


主の声

2023年11月04日 | 創世記

詩篇 29篇

 街路樹の葉が次第に落ちて行く様子が美しく映ります。来週にはすっかり無くなってしまうことでしょう。

 詩篇29篇は「主に帰せよ」ということばの繰り返しから始まります。それは「栄光と力」「御名の栄光」だとあります。神お一人が持つべきものを神に返すようにと呼びかけているのです。どんなに立派で、どんなに力のある者であっても、人間が横取りするようなことがあってはならないということを、ここから考えます。

 3節から9節には「主の声」という言葉が度々用いられます。ここでは、「主の声」が単なる自然の力ではなくて創造者なる神の力だということを歌っているのです。大水の轟(とどろき)に加えて鳴り響く雷鳴が耳をつんざくばかりのものであるように、主の栄光と力は生ける者たちを圧倒するのです。

 人間の力や知恵が優るように思われるこの世にあって、神はどこにおられるのだろうかと信仰者たちの心も揺さぶられます。しかし、自然の人を圧倒するかのような現象や力に遭遇した時に、栄光と力を主に帰して、「栄光!」と神をたたえる者たちのの中に、自分もいたいと思わされます。

 終わりの部分では、あらゆるものから「栄光」とあがめられる神、主の力は、人を正しくさばき、力と平安を、つまり救いを小さな者たちに与えてくださるとしています。そしてここに、私たちの主イエスのお姿を見ることができました。


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