みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神は必ず顧みて

2018年04月23日 | 創世記

創世記 50章

 礼拝後のお茶の時間。会話の中で、二ヶ月半当地に滞在された方が私たちが存じ上げている方の親戚であったことがわかり、驚きました。こんなところでつながっているなんて!

 1月から読み進めてきた創世記はきょうが終章。ここには、盛大なヤコブの葬儀の様子と、父ヤコブ亡き後の兄弟の真の和合、そしてヨセフの死のことが書かれています。

 父や母の死というものは、兄弟たちの間に様々な動きを引き起こします。ましてや、ヤコブの兄弟たちの間には、自分たちがひどい目に遭わせたヨセフに世話になってエジプトにいるということからも、複雑な思いが交錯していたのではないでしょうか。確かに互いに抱き合って、ヨセフの赦しを得たのです。しかし、兄たちの胸中にはヨセフとのことで未解決なものが残されていたのです。

 17節のことばは嘘ではないと私は思います。自分が去った後のことを案じて、父ヤコブが実際にそのように言ったということはありえることです。それに対して、ヨセフは泣きます。なぜ泣いたのかについてはいろいろな憶測がありますが、兄たちがそこまで思い詰めていることを哀れに思ったのか、兄弟の思いを受けての感動の涙なのか、はっきりはわかりません。しかしヨセフの、兄たちへの思いやりに満ちたことばが兄弟の絆を深めることになったのは確かでしょう。

 これまでのヨセフのことばから思うのは、自分が受けたどんなにひどい仕打ちも神を主語として受け止めているということです。それは、死を目前にしたヨセフのことばにも表れています。

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ヤコブの神の祝福

2018年04月21日 | 創世記

創世記 48章

 死を迎えようとしたヤコブを、ヨセフとヨセフの息子たちが訪ねます。その時、ヤコブは力を振り絞って床の上に座ったとありますので、ヤコブがどれほど弱っていたのかがわかります。

 ヤコブは、まずエジプトの祭司の娘との間に生まれたヨセフの子どもたちを自分の子とします。「ルベンやシメオンのように」ということばには、分け隔てをしないで他の兄弟、孫たちと同じように、との意味が込められています。やがてイスラエルがエジプトを出てカナンに定住する際には、マナセとエフライムはそれぞれ相続地を割り当てられることになります。

 15,16節はヤコブの祝福の祈りです。「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ」との呼びかけのことばが心に留まります。彼は自分を迷いやすい羊だとしています。確かに、ヤコブの147年は、よく用いられることばで言えば波瀾万丈の人生。彼は死を目前にして自己満足に浸ることなく、自分を羊、主は「ずっと私の羊飼いであられた」と振り返るのです。

 マナセとエフライム頭の上に置く手は、決して取り違えではなくてヤコブが神からの促しを受けてのことでした。このことにも、神の選びの不思議さのようなものをおぼえます。考えてみると、アブラハムの祝福を受け継いだのは先に生まれたイシュマエルではなくてイサクでしたし、イサクからの祝福を得たのは兄のエサウではなくて弟のヤコブでした。そしてここでも…。

 自分が今このようにあることを振り返るならば、神の選びの不思議を思わざるをえません。

 

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祝福するヤコブ

2018年04月20日 | 創世記

創世記 47章

 住んでいるアパートの屋根を新しくすることになり、大家さんと業者の方が屋根裏に…。私が仕事をしている部屋に屋根裏へのはしごが通じています。「工事が終わると夏は快適になりますよ」と大家さんは言っておられましたが、さて…?

 創世記47章は、前半にファラオとヤコブの家族との面会、後半には飢饉に際して発揮されたヨセフの知恵について書いています。ヨセフは、ファラオと家族が会うためにも周到な準備をしました。まず兄弟五人をファラオの前に連れて行きます、五人は、ヨセフが予め教えたことばで、ファラオの質問に答えます。これによって、家族はエジプトでもっとも良い地に住むことができるようになりました。

 次にヨセフは、父ヤコブを連れて来ます。ここでヤコブがファラオを祝福するということに目が留まります。はじめに祝福し、立ち去る前にも祝福します。立場から言えば、ファラオはエジプトの最高権力者で一方のヤコブはカナンの地からやって来た寄留者です。

 しかし、この場面では立場が逆のようにも見えるのです。130歳の年長者だから、ヤコブは若いファラオを祝福するということなのでしょうか。全能の神によって祝福の基としての使命をえたアブラハムの子孫として、ヤコブはここでファライを祝福していると考えられます。

 それは、イエス・キリストによってアブラハムの子どもとされた神の民が、この世界に何をもたらすためにいるのだろうかということを、表わしているように思えるのです。

[お詫びと訂正]4月20日の「みことばの光」誌、47頁4、5行目の文章に誤りがありました。お詫びし、次のように訂正いたします。

[誤]ヤコブの「しあわせ」は息子たちにも及んだ。彼らはエジプトで住む場所を備えてくれたヨセフに感謝し、パロの奴隷となると言った(25)。

[正]ヤコブの「しあわせ」は息子たちにも及んだ。

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再会

2018年04月19日 | 創世記

創世記 46章28−34節

 スマートフォンのコネクタが壊れて、充電ができなくなってしまいました。どこで修理をと、ネットを検索するといつも歩いて行くモールの中に、「スマートフォン即時修理センター」を発見。購入したお店の一角にあります。受付してもらうと「一時間後に来てください」と一言。なんと、一時間後には直っていました。もっと時間がかかる思っていたので、よい意味で予想が外れました。

 ヨセフとヤコブとは、ついに20年以上の間を経て再会を果たしました。死んでいた、いなくなったと思っていた我が子と抱き合えるという日が来るとは、ヤコブは思ってもみなかったのではないでしょうか。「もう今、私は死んでもよい」とのことばは、この時のヤコブの思いがどんなであったかを読む者たちに想像させます。そしてこのことばから、拉致(らち)などによって長い間生き別れになっている人々、家族にこのような日が来るようにと、神に祈りました。

 ヤコブは、息子たちからヨセフがエジプトで生きていると聞いた時に、「十分だ」と言い、そしてここでは「死んでもよい」と言っています。これらのことばから、ヤコブのヨセフへの熱い思いを垣間見ることができるとともに、人には何が必要なのかをも読む者たちに問いかけているように思えます。

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イスラエルの恐れ

2018年04月18日 | 創世記

創世記 46章1−27節

 週に一度のドイツ語クラスは、街中のカフェでしています。ここの責任者は気さくな方で、私たちを見つけると笑顔で「元気にしているか」と声をかけてくれるのです。この一声に励まされます。

 ヤコブ(前の章の後半から、ヤコブをイスラエルとも呼んでいます)は、ヨセフの待つエジプトにカナンから旅立ちました。そして途中のベエル・シェバで父イサクの神にいけにえをささげるのです。彼は神が祖父アブラハム、父イサク、そして自分に約束しておられるカナンの地を離れてエジプトに下ることへの恐れを持っていたのではないでしょうか。

 祖父アブラハムがかつてエジプトに下って失敗し、父もエジプトに下ろうとして神からとどめられたのを、ヤコブは知っていたことでしょう。神にいけにえをささげ、祈るということの中には、自分たちがはたしてエジプトに下ってもよいのだろうか、それを神が望んでおられるのだろうか、という懸念というか、恐れを抱いていたと大いに考えられます。

 すべてをご存じの主は、彼に声をかけ、恐れを取り去ってくださいました。「はい、ここにおります」との答えに、ヤコブの信仰を見る思いがします。

 神はヤコブに、エジプトを下ることを恐れるな、大いなる国民とする、神がともにエジプトに下る、再び連れ上る、ヨセフがヤコブの目を閉じてくれると語られます。4節は、ヤコブ個人へのことばであるとともに、ヤコブの子どもたち〜つまりイスラエルの民への約束でもあります。

 ヤコブは神のことばによって、心を定めて約束の地をきっぱりと離れるという決意をしたのです。神が約束された地であるからと、そこに子どもたちのうちの何人かを残すようなことをしていません。それは、彼の恐れが取り去られたことを示しています。

 神に信頼すると言いながらも、実は別のものを当てにしているということに気づくのです。

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2011-2018© Hiroshi Yabuki