みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

キリストを学ぶ

2020年01月11日 | 創世記

エペソ人への手紙 4章17−32節

 木金と「みことばの光」を発行している聖書同盟に行きました。金曜日の行きは朝の通勤時間帯と重なるので、電車も駅の乗り換え通路もたくさんの人。特に乗り換えの駅では人の多さに圧倒され、歩く速さにびっくり。年齢的なものもあるとは思いますが、もう少しゆっくり歩く流れならいいのに…と自分を基準に考えたりするのでした。

 パウロがエペソの人々に福音を伝えた時のことが使徒の働き(使徒言行録)19章に記されています。それによると、パウロはここに2年以上滞在して福音を宣べ伝え、神はパウロによって奇蹟も行なわれたとあります。

 魔術を行っていた者たちが悔い改める一方で、アルテミス神殿ゆえに儲けていた者たちが起こした騒ぎに巻き込まれるということもありました。エペソでは当時、アルテミスが豊饒多産の女神としてあがめられていましたが、パウロが携えてきた福音は、この宗教都市エペソを激しく揺さぶったと言うことができます。

 このようにして誕生したエペソの教会ですから、周囲の影響と無関係ではありえません。4章後半でパウロは、異邦人のようなむなしい心で歩まないようにと厳かに命じています。ここには、好色、人を欺く情欲、偽り、盗み、怠惰、悪いことば、ののしりなどのことばを見つけることができます。周りの人々が追い求めているもの、夢中になっていることをどのように捉えるかは、キリストが何を教えられたかがいつも基準となります。

 エペソのキリスト者たちが直面していたことと、人のことばに一喜一憂して大きな時代の流れによく考えもせずに引きずられて行きやすい今の教会の姿とが重なります。「キリストを学ぶ」ということばに心に留めたいと思います。

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神は必ず顧みて

2018年04月23日 | 創世記

創世記 50章

 礼拝後のお茶の時間。会話の中で、二ヶ月半当地に滞在された方が私たちが存じ上げている方の親戚であったことがわかり、驚きました。こんなところでつながっているなんて!

 1月から読み進めてきた創世記はきょうが終章。ここには、盛大なヤコブの葬儀の様子と、父ヤコブ亡き後の兄弟の真の和合、そしてヨセフの死のことが書かれています。

 父や母の死というものは、兄弟たちの間に様々な動きを引き起こします。ましてや、ヤコブの兄弟たちの間には、自分たちがひどい目に遭わせたヨセフに世話になってエジプトにいるということからも、複雑な思いが交錯していたのではないでしょうか。確かに互いに抱き合って、ヨセフの赦しを得たのです。しかし、兄たちの胸中にはヨセフとのことで未解決なものが残されていたのです。

 17節のことばは嘘ではないと私は思います。自分が去った後のことを案じて、父ヤコブが実際にそのように言ったということはありえることです。それに対して、ヨセフは泣きます。なぜ泣いたのかについてはいろいろな憶測がありますが、兄たちがそこまで思い詰めていることを哀れに思ったのか、兄弟の思いを受けての感動の涙なのか、はっきりはわかりません。しかしヨセフの、兄たちへの思いやりに満ちたことばが兄弟の絆を深めることになったのは確かでしょう。

 これまでのヨセフのことばから思うのは、自分が受けたどんなにひどい仕打ちも神を主語として受け止めているということです。それは、死を目前にしたヨセフのことばにも表れています。

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ヤコブの神の祝福

2018年04月21日 | 創世記

創世記 48章

 死を迎えようとしたヤコブを、ヨセフとヨセフの息子たちが訪ねます。その時、ヤコブは力を振り絞って床の上に座ったとありますので、ヤコブがどれほど弱っていたのかがわかります。

 ヤコブは、まずエジプトの祭司の娘との間に生まれたヨセフの子どもたちを自分の子とします。「ルベンやシメオンのように」ということばには、分け隔てをしないで他の兄弟、孫たちと同じように、との意味が込められています。やがてイスラエルがエジプトを出てカナンに定住する際には、マナセとエフライムはそれぞれ相続地を割り当てられることになります。

 15,16節はヤコブの祝福の祈りです。「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ」との呼びかけのことばが心に留まります。彼は自分を迷いやすい羊だとしています。確かに、ヤコブの147年は、よく用いられることばで言えば波瀾万丈の人生。彼は死を目前にして自己満足に浸ることなく、自分を羊、主は「ずっと私の羊飼いであられた」と振り返るのです。

 マナセとエフライム頭の上に置く手は、決して取り違えではなくてヤコブが神からの促しを受けてのことでした。このことにも、神の選びの不思議さのようなものをおぼえます。考えてみると、アブラハムの祝福を受け継いだのは先に生まれたイシュマエルではなくてイサクでしたし、イサクからの祝福を得たのは兄のエサウではなくて弟のヤコブでした。そしてここでも…。

 自分が今このようにあることを振り返るならば、神の選びの不思議を思わざるをえません。

 

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祝福するヤコブ

2018年04月20日 | 創世記

創世記 47章

 住んでいるアパートの屋根を新しくすることになり、大家さんと業者の方が屋根裏に…。私が仕事をしている部屋に屋根裏へのはしごが通じています。「工事が終わると夏は快適になりますよ」と大家さんは言っておられましたが、さて…?

 創世記47章は、前半にファラオとヤコブの家族との面会、後半には飢饉に際して発揮されたヨセフの知恵について書いています。ヨセフは、ファラオと家族が会うためにも周到な準備をしました。まず兄弟五人をファラオの前に連れて行きます、五人は、ヨセフが予め教えたことばで、ファラオの質問に答えます。これによって、家族はエジプトでもっとも良い地に住むことができるようになりました。

 次にヨセフは、父ヤコブを連れて来ます。ここでヤコブがファラオを祝福するということに目が留まります。はじめに祝福し、立ち去る前にも祝福します。立場から言えば、ファラオはエジプトの最高権力者で一方のヤコブはカナンの地からやって来た寄留者です。

 しかし、この場面では立場が逆のようにも見えるのです。130歳の年長者だから、ヤコブは若いファラオを祝福するということなのでしょうか。全能の神によって祝福の基としての使命をえたアブラハムの子孫として、ヤコブはここでファライを祝福していると考えられます。

 それは、イエス・キリストによってアブラハムの子どもとされた神の民が、この世界に何をもたらすためにいるのだろうかということを、表わしているように思えるのです。

[お詫びと訂正]4月20日の「みことばの光」誌、47頁4、5行目の文章に誤りがありました。お詫びし、次のように訂正いたします。

[誤]ヤコブの「しあわせ」は息子たちにも及んだ。彼らはエジプトで住む場所を備えてくれたヨセフに感謝し、パロの奴隷となると言った(25)。

[正]ヤコブの「しあわせ」は息子たちにも及んだ。

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再会

2018年04月19日 | 創世記

創世記 46章28−34節

 スマートフォンのコネクタが壊れて、充電ができなくなってしまいました。どこで修理をと、ネットを検索するといつも歩いて行くモールの中に、「スマートフォン即時修理センター」を発見。購入したお店の一角にあります。受付してもらうと「一時間後に来てください」と一言。なんと、一時間後には直っていました。もっと時間がかかる思っていたので、よい意味で予想が外れました。

 ヨセフとヤコブとは、ついに20年以上の間を経て再会を果たしました。死んでいた、いなくなったと思っていた我が子と抱き合えるという日が来るとは、ヤコブは思ってもみなかったのではないでしょうか。「もう今、私は死んでもよい」とのことばは、この時のヤコブの思いがどんなであったかを読む者たちに想像させます。そしてこのことばから、拉致(らち)などによって長い間生き別れになっている人々、家族にこのような日が来るようにと、神に祈りました。

 ヤコブは、息子たちからヨセフがエジプトで生きていると聞いた時に、「十分だ」と言い、そしてここでは「死んでもよい」と言っています。これらのことばから、ヤコブのヨセフへの熱い思いを垣間見ることができるとともに、人には何が必要なのかをも読む者たちに問いかけているように思えます。

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2011-2020 © Hiroshi Yabuki