みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

プリム

2017年05月23日 | エステル記

エステル記9章20節ー10章3節

 お昼にお茶をしました。私が頼んだのは「生姜ティー」。さて、どんなものが来たでしょう。熱湯の中にたくさんの生姜が…。それに蜂蜜がついていて、好きなだけ蜂蜜を入れられるようになっていました。とても美味しくいただきました。でも…、これなら家でもできるではないか! と思ったのでした。

 9章24、25節はエステル記の要約のようなものです。結末まで読み進めますと、こんなことだったと納得ですが、この書を初めて読んだ人は、途中ハラハラドキドキしたのではないでしょうか。

 ユダヤ人はこの出来事を忘れることのないようにと、「プリム」という祝日を設けました。そして、28節に「この記念が彼らの子孫の中でとだえてしまわないように」ということばのとおりに、「プリム」は現在に至るまで祝われています。太陽暦では春を前にした季節の祭りなので、大人も子どもも仮装をして祝うのだそうです。

 ちなみに、今年は3月12日がプリムの祭りの日。この日にはエステル記の朗読会も持たれるとのことです。朗読の中でハマンの名前が出てくると、机をどんどんと叩くのだそうです。

 心に留めたのは22節のことば。「自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日」とあります。キリスト者にとって「プリム」とは日曜日なのではないかと思うのです。そして、この日を喜びの日として、祝日としてうきうきと集って礼拝をする教会でありたいと願いつつ、今回のエステル記を読み終えることにします。

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一変して

2017年05月22日 | エステル記

エステル記 9章1−19節

 抜けるような青空とぽっかりと浮かぶ白い雲の日曜日。礼拝でお借りしているドイツの方の教会では、駐車場でランチをしていました。このブログは当地時間で日曜日の夜7時ごろに書いています。まだまだ明るいので、アップしたら近くの公園を歩いて来ます。

 ユダヤ人が恐れていたアダルの月の13日が来ました。しかし、この間ユダヤ人絶滅を企てたハマンは死に、ユダヤ人モルデカイがハマンに代わって総理大臣となり、ユダヤ人にとっての「死の法令」を無効にする法令がモルデカイによって発布されて、状況は一変しました。おびえなければならないのはユダヤ人ではなくて、彼らの敵でした。

 きょうの箇所を読むと、ユダヤ人が多くの敵を殺したという記事に何となく割り切れない思いを持つ人もいるのではないかと思います。しかし、事はそんなに単純ではなさそうです。ハマンの死後も、シュシャン(スサ)にはユダヤ人を憎む者たちが数百人の単位でおり、さらに帝国全土では75,000人もいたことがわかります。ということは、ハマンは殺されましたが、ハマンの企てに加わった者が相当数いたということがわかるのです。それは、エステルが残忍とも見えるようなことを王に願っていることからもわかります。手綱を緩めないのです。

 イエスを信じる者には、目に見えない強大な敵がいます。少しでも隙を見せるとたちまちつぶしにかかってくるような相手です。ですから、この相手に対して私たちは手綱を緩めてはなりません。きょうの箇所からは、そのような促しを受けます。

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彼をそれにかけよ

2017年05月20日 | エステル記

エステル記 7章

 あるお宅を訪ねようと車を走らせていました。次の四つ角を右に曲がると2分ほどで着けるのですが、なんとそこは工事で右折禁止。やむなく直進してUターン。結局遠回りをしてしまいました。その日はいつも通り慣れている道も思わぬ渋滞。「なんてこった!」という気分でした。結局約束の時刻を過ぎての訪問となりました。

 民族絶滅という危機がどんでん返しの結末になるために、エステルが、モルデカイが、王が…用いられたのはいうまでもありません。しかし、それらの人々を選び、ふさわしい時、あるべき場所に置いたのは、この出来事の真の主役である神です。

 エステルが招待した一度目の宴会の時のハマンは、天にも上るような気分だったことでしょう。けれども、それからの彼は、坂道を転がるように気持ちが落ち込み、いや、「なんてこった!」と落ち込むばかりか、いのちまで取られてしまうのです。

 「彼をそれにかけよ」という王のことばが心に留まります。ハマンはモルデカイをかけようとして作らせた、20メートルもの高い柱の上に自分がかけられいのちを落とすとは、夢にも思わなかったことでしょう。人の企ての頼りなさ、薄っぺらさのようなものを思わせることばに響きます。

 それとともに、飛躍があるかもしれませんが、柱にかけられたハマンの姿は、罪を犯したすべての者の行く末を表しています。ハマンがかけられた柱のはるかかなたに主イエスがかけられた十字架が見えるように思えました。私がかけられるべき柱に、神の子がおかかりになったことを…。

 よき週末、日曜日をお迎えください。

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なんという…!

2017年05月19日 | エステル記

エステル記 6章

 きょうの「みことばの光」には、終わりに「神は常にご自身の民のことを覚え、守り、導いてくださる。それを、何気ない日常の出来事を通しても行なってくださる」とあります。

 ここに登場するアハシュエロス(アルタクセルクセス)王、ハマン、モルデカイは、それぞれのところで、それぞれの日常を送っていました。

 王は眠れない夜に、これまでの記録を臣下に読ませていました。その中に、モルデカイが王の暗殺計画を報告して王のいのちを救ったことが記録されており、王の頭はますますさえて、モルデカイにどのように褒美をとらせたらよいかと思い巡らしていました。

 ハマンは、愚かな進言を真に受けてモルデカイを縛りつけて処刑するための、20メートルにもなる高さの柱を立てることを上奏しようと、王宮に上って来ました。

 王は心にあることをハマンに伝え、結果としてモルデカイはハマンの進言に沿って栄誉を受けるのです。モルデカイは、自分の身に起こったことが何が何やらわからなかったのでしょうか。いいや、見えない神の御手が確かに働いているのを、突然王服を着せられ、王冠をかぶらされ、馬に乗せられる中で、強く覚えたことでしょう。

 ある人と通りでばったり会った、それがイエスを心に迎え入れるきっかけとなったということが身近にありました。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」との伝道者の書(コヘレト)3章11節のことばを思いました。

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愚かな進言を気に入る

2017年05月18日 | エステル記

エステル記 5章

 きのうの気温は29度。あと一度上がれば日本で言う「真夏日」というところでした。夕方のウォーキングのついでに、アイス屋さんに立ち寄り、「アイスカフェ」を飲んで(食べて)きました。アイスカフェは日本のとは違って、無糖のコーヒーに、バニラアイスクリーム、さらに生クリームが乗ります。日本で言えば「コーヒーフロート生クリーム付」というところでしょうか。

 自分も、そしてシュシャンに住むすべてのユダヤ人も断食をして王への謁見を求めたエステル。王の好意を受けて、金の笏(しゃく)に触れることができました。王のことばから、エステルが王の寵愛を受けていたことを垣間見ることができます。

 エステルはハマンとともに自分が設ける宴会に出てほしいと願い、さらにもう一度二人で宴会に出てほしいと願います。このあとの展開を考えると、最初の宴席でエステルが王にハマンの悪巧みを明かさなかったことに、神の御手を見るのです。その晩にハマンが経験したこと、そして王が記録の書を読ませたことは、結末に向かって大きな意義を持つのです。宴会を二度持つということも、断食の中で神がエステルに授けた知恵だったのかもしれないと考えます。

 ハマンの行動を見ると、彼の人間性がくっきりと浮かび上がってきます。上機嫌から憤りへ。そして憤りを何とかしようと、友人や妻を呼んできて自分の自慢話を聞かせます。もう、ユダヤ人を絶滅するという法令が出されたのだから、「あんな奴放っておけ」と心を決めることもできたはずですが、そうではありませんでした。取り巻きたちはハマンに愚かな進言をします。それで気に入るのですから、ハマンの愚かさが際立ちます。

 心に湧いてくる苦々しい思いをどのように始末するかは、ハマンだけではなくて多くの人の課題です。

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2011-2018© Hiroshi Yabuki