みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

平和を語る者

2022年05月17日 | エステル記

エステル記 9章20節−32節、10章

 日本での滞在も残りわずかになりました。月曜日は「鉄道博物館」へ。新幹線E6系が大好きな孫の「てっぱく」デビューを先導するためでした。いや扇動かもしれません。いつ行っても心が動くのは、かつて乗っていた特急や急行車両と再会できた時。

 エステル記の終章です。ここには、今でもユダヤ人の間で覚えられている「プリムの祭り」がエステル記に記されている出来事に基づいていること、つまり、この祭りの起源について記されています。

 今プリムの祭りでは「ハマンタッシェン」というクッキーを食べるのが慣習になっています。。けしの実のジャムをクッキー生地で三角形に包んで焼いたお菓子です。ハマンの耳の形が三角形だったため、彼の耳の形をしたハマンタッシェンを食べるのだそうです。それにしても、エステルの時代から2500年も後でも、このことが覚えられているというのは驚きです。今年のプリムの祭りは3月16―17日にかけて行われました。

 この部分を読んで目に留めたのは、「平和」ということばです。まず9章30節に王妃エステルとユダヤ人モルデカイがプリムを守るようにとの書簡を王国に住むすべてのユダヤ人に送られた折りに、「平和と誠実をもって」送られたとあります。さらに10章3節には、モルデカイについて「平和を語る者」だったということばがあります。

 3節には、モルデカイは自分の民の幸福を求める人物だともあります。自分の…ではなく、自分の民の幸福を求める人物こそ、国の指導者にふさわしいと今だからこそ、強く思います。自分の民の幸福を求め、平和を語る者モルデカイは、平和の君としてやがておいでになるイエス・キリストを指し示す「型」だということが分かります。

 神、神の名が一度も出てこないこの書には、神のお働きが豊かに描かれていました。


勝利とは

2022年05月16日 | エステル記

エステル記 9章1−19節

 日曜日は、私たちがキリストへの信仰を持つことになった教会の礼拝に出席しました。懐かしい人々に再会する時でしたが、初めてお目にかかる人々も大勢いて、神の祝福を覚えることができました。さらには、以前一緒に中学生のキャンプを準備し、行っていた方々も訪ねて来てくださいました。たくさんの方々の祈りによって、私たちが生まれ育ち、そして今があるのです。

 エステル記のこと箇所を読むときには、いつも複雑な思いになります。1節には「王の命令と法令が実施された」と書かれています。それは、ハマンの画策によって出された、アダルの月の13日にすべてのユダヤ人を根絶やしにせよという王の命令であり、また、エステルの訴えによって出された、アダルの月の13日にユダヤ人を襲う者たちを根絶やしにせよという命令です。一日のうちに、同時に相反する二つの命令が実施されるのです。

 しかし、この箇所を読むと、結局はユダヤ人も大量に人を殺しているのではないかと疑問を覚える人は少なくはない、いやほとんどがそのように受け止めるのではないでしょうか。それに対しては、ハマンの虐殺が実行されたとしたなら、もっと多くのいのちが落とされることになるので…などと、ユダヤ人の行動を理解すべきだという解説もあります。

 国と国との戦いが続いている中でこの箇所は、さまざまな思いで読まれるだろうと思います。剣で、今ならば戦車などの重装備の兵器を駆使して、双方の戦いが続きます。

 ここから、真の勝利は…? と考えます。民族が根絶やしにされないために、その民族が今度は自分たちを根絶やしにしようと画策した人々を根絶やしにようとする、これは解決なのだろうかと、悩みつつ読んでいます。

 勝利とは何かを、イエスの十字架を見上げつつ静かに思いめぐらす時が持てますようにと、祈ります。


ドラマのような…

2022年05月14日 | エステル記

エステル記 7章

 エステル記を読み進めて思うのは、まるでドラマのよう…ということです。そこに登場するのは、悪者、ヒロイン、ヒロインの後ろ盾、王と、性格も役割も分かりやすいですし、はらはらさせられる場面もあれば、どんでん返しもあるといった具合です。

 7章はまさにどんでん返し。ユダヤ人虐殺を企てたハマンは、エステルによってその悪事を暴かれ、さらにはエステルにいのち乞いをしようとする姿が王を怒らせ、挙げ句の果てにモルデカイをかけるために立てられていた柱に、当のハマン自身がかけられてしまうのです。

 3、4節でエステルは、「私の民族」が売られ、根絶やしにされ、虐殺され、滅ぼされようとしていると、王に訴えます。彼女が王に自分がユダヤ民族だと明かすのは、勇気のいることだったことでしょう。しかし、エステルはちょうど良い時に自分の素性を明らかにしたのだと言えます。彼女は王の妃として召し入れられ、王の寵愛を得ていました。その彼女がハマンの悪事をさらけ出すのです。エステルにとっての挑戦は、勇気を出して王に訴えるということでした。その勇気は、神が彼女に賜ったものです。

 はじめに「まるでドラマのよう…」と書きました。しかし、多くの人はそんなにうまくいくはずはないと考えることでしょう。今日は昨日と同じ、明日も今日と変わることがないだろう、こうして平凡な日々が重ねられているように思えるのです。

 そんなことはありません。何の代わり映えのしないように思う毎日だととしても、そこに神をお認めできるならば、毎日はドラマのようなのです。


神がともにいる者の強さ

2022年05月13日 | エステル記

エステル記 6章

 せっかく遠くまできたのに、降水確率は80&。確かに一日のうち何回かは雨が降りますが、しばらくすると青空が…を繰り返す一日でした。東南アジアのスコールのような天候です。それもそのはず、ここから西には台湾が近くにあります。

 エステル記6章は、モルデカイにとっては好転、ハマンにとっては暗転の章だと言えます。昨日の本欄では、「ハマンの我慢」について考えたのですが、ここでは「ハマンの勘違い」が際立ってます。しかも、ハマンがユダヤ人虐殺を考え出したのは、モルデカイがハマンに頭を下げなかったことがきっかけでした。ハマンはモルデカイを処刑するための柱まで用意して、王に上奏しようとしていた矢先に、王はモルデカイにに栄誉を与えたいと決めていたのです。

 「王が栄誉を与えたいと思う者には、どうしたらよかろう」という王のことばを、ハマンは自分のことだと思い違いをするのです。ですから彼は王に、ありったけの最高の栄誉を与えるようにと上奏します。ところがそれは、自分ではなくあのモルデカイでした。エステル記には「神が…した」、「神は…と言われた」などということばはいっさいありません。しかし、この章を読み進めて思うのは、見えない神のはっきりとした働きです。「そんなことは全くない」はずのことが起こり、その一つ一つがぴったりと組み合わされていく様を、エステル記は伝えます。まさに、それは「神のみわざ」、神わざです。

 13節のことばに目が留まります。「モルデカイがユダヤ民族の一人なら…決して勝つことはできません」とハマンに届けられたものです。モルデカイの強さは、彼自身の何かということではなくて、彼とともにいる神の強さなのです。しかし、信仰者が自分の強さだと考えているのだとしたら、それはとんでもない勘違いです。

 お間違えのないように…。


ハマンの我慢

2022年05月12日 | エステル記

エステル記 5章

 家族と石垣島に来ています。沖縄はすでに梅雨に入り天候は優れませんが、飛行機を降りたときの暖かでじめっとした空気に南国を感じました。

 エステルはユダヤ人絶滅計画をダメにしようと早速行動に移ります。この章には「凛として」難しい問題に取り組むエステルの姿が生き生きと描かれています。

 クセルクセス王から差し出された金の笏(しゃく)。エステルが懸念していたことは何事もなかったかのです。むしろここでは、エステルへのクセルクセス王の温かなまなざしが心に留まります。前章でもエステルは彼女を知る人々に好意的に見られていました。

 ここではエステルが、王の信頼を勝ち得ていたことが描かれ、それによって虐殺計画阻止に向けてのさらに大切な一歩が進むのです。

 一方でここで描かれているハマンは、愚かさをさらけ出してしまっているようです。エステルが催そうとしている宴会に招かれたことが、ハマンに喜びをもたらしたのです。注目は10節。あのいまいましいモルデカイが相変わらず自分にそれなりの敬意を表さないことが、ハマンの機嫌を損ねてしまったのです。

 10節の「しかしハマンは我慢をして…」ということばが目に留まります。彼の我慢はどのようなものだったのでしょう。王妃に招かれたのが自分と王だけだったということが彼を我慢させました。

ハマンはこんなでしたが、さて私は我慢ができるだろうか、そうだとしたらだれのため、何のためにだろうと立ち止まってこの箇所からしばし考えていました。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki