みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

必要に応える神

2015年06月30日 | 列王記第二

列王記第二 4章18−44節

 月曜日、フランクフルトから約一時間の地に住む教会のメンバーのご自宅を訪ねました。バス停から家までおよそ2キロを歩いたのですが、なだらかな穀倉地帯を吹き抜ける初夏の風が心地よかったです。

 2時間近くかけてお昼をご馳走になり、その後でアイスクリーム、さらにはケーキが…! お昼、そしてデザートをおいしく、太り過ぎを心配しないで食べられるように、あらかじめ2キロを歩いたのだと納得。おもてなしに感謝です。ごちそうさまでした。

 納得といえば、せっかくエリシャによって与えられて成長した子どもが死んでしまった母親の思いこそ、納得のいかないことではなかったかと思うのです。エリシャは死んだ子どもを生き返らせます。

 採ったうりを釜の中で煮ていると毒が入っていることを発見したのも、納得のいかないことです。ここでもエリシャは、麦粉を釜の中を入れて毒をなくしてしまいます。

 預言者のともがら100人を養うのに、大麦のパン20個と新穀一袋で…というのも納得のいかないことです。しかしエリシャは、これで十分に養って余りが出ると言い切ります。そして、言ったとおりになりました。

 なぜゲハジはエリシャの杖をもってしても、子どもを生き返らせることができなかったのかということが気にかかります。子どもを生き返らせるのは、エリシャの杖ではない、いやエリシャでさえない、エリシャが信頼する神なのだということを、伝えてくれているのだと考えるのですが…。

 神さまが第一だと言いながらも、「あの人が」「この人が」という段階でとどまっていることが、案外教会には多いのではないかと考えさせられます。


それぞれの課題

2015年06月29日 | 列王記第二

列王記第二 4章1-17節

 教会に行くには、自宅近くから地下鉄7号線(日本ふうの呼び方でお許しください)に乗り、一度乗り換えてトラム(市内電車)18番で最寄り駅に向かうのですが、日曜日にはそんなに簡単には行きませんでした。

 まず地下鉄7号線は途中駅で通行止め。そこから4号線に乗り換えてトラムの乗換駅に向かいました。ところがトラムの停留所の表示に18番がないのです。表示板の一番下に「日曜日…18…」という文字の繰り返しが…。もしかしたら、18番が休み? 慌てて路線図を見ると12番が同じ路線を降りる2つ前まで通っているので、12番で行くことにしました。トラムの停留所二つ分ぐらいは徒歩で何とでもなります。無事に教会に到着! いろいろなことが起こるものです。

 預言者の妻には子どもがいるがお金がない、シュネムの女にはお金があるが子どもがいない、主は、預言者エリヤによってそれぞれの課題に解決を与えてくださったというのがきょうの箇所です。ある人は自分が持っていないものをもつ誰かをうらやみます。あんなに豊かな人だから、悩みなど一つもないだろうと思いやすいのですが、そんなことはありません。

 ですから、互いに比べ合って自慢したりうらやんだりするというのは、自分や相手を正しく知っていないということ。自分の悩みは誰にもわからない、などと思いやすいのですが、その通りだと思います。だからといってそこでとどまらずに、神に課題を持っていきたいと思います。


霊の分け前

2015年06月27日 | 列王記第二

列王記第二 2章

 

 夕食後、近くの公園を1時間ほど歩きました。8時を過ぎていましたが、まだまだたくさんの人たちがランニングやサイクリングを楽しんでいました。私も久しぶりに走って…気持ちよかったです!

 主がエリヤを取り上げられることは、預言者のともがらもエリシャも知っていました。エリシャはすでにエリヤの後継者として主に選ばれていました(1列王記19章16節参照)。ですから、エリシャはエリヤにぴたっとくっついて離れようとはしません。

 そしてエリヤがたつまきに乗って天に上げられて行った時、エリシャは主がエリヤに与えておられた霊の賜物を受け継いだのです。「霊の分け前」ということばに心を留めました。大切なのは、エリヤの何かをエリシャが引き継ぐのではなくて、主がエリヤに与えておられた霊的な祝福を、エリシャが受け継いだということだと思います。

 前任者から何かを引き継ぐ場合に大切なのは、机やイス、書棚、自動車などの目に見えるものではなくて、主がこれまでの人に賜ったものが何かを、良く知ろうとすることだと思います。


イスラエルに神がいないためか

2015年06月26日 | 列王記第二

列王記第二 1章

 

  「みことばの光」は、きょうから列王記第二を読みます。列王記第一22章52節で確かめますと、アハブの子アハズヤは、父アハブの道、母イゼベルの道、それに…ヤロブアムの道に歩んだと紹介されています。徹底して主なる神にそむいたということが強調されているかのようです。このアハズヤ、屋上の欄干から落ちて病気になります。この時、彼は主に尋ね求めずに、バアル・ゼブブという偶像を求めるのです。その時、主はエリヤによって必ず死ぬとアハズヤにお語りになります。

 「イスラエルに神がいないためか」ということばに心を留めました。人の生死の鍵を握っているのはエクロンの偶像ではなくて、イスラエルの神。それなのにアハズヤは主を求めようとしません。なんと悲劇的な行動なのかと思うのです。どんなに王として神に背いていたとしても、危急の時に上に求めるならば、神は苦しむ者をあわれんで、祈りに身を傾け耳を傾けてくださるお方です。アハズヤは、その唯一の助かる道を放棄してしまったのです。

 病になることもあります。貧しくなってしまうこともあります。そのようなときどうして神ではなくて、代用品のようなものにすがるのだろうかと考えつつ、果たして自分はどのようなときにも神を求め、拠り頼んでいるのかと問われます。

 


わかっていない

2015年06月25日 | ルカの福音書

ルカの福音書 9章37−50節

 きのうの午前は、こちらの教会の祈祷会の日。車がないので、地下鉄とトラム(市内電車)で通います。ここでは、市内であれば、地下鉄、国鉄、トラム、そしてバスに1枚の切符で一日いくら乗ってもよいというお得なチケットがあります。もちろん自由に乗れる範囲は決まっています。せっかく一日乗車券を買ったのだから、どこかに行こうということになってしまうのが問題ですが。

 きょうの箇所には、わかっていない弟子たちの姿を見ます。

 できると思ってやってみたらできなかった弟子たち。彼らはおそらく、主イエスに遣わされたときの「華々しい成果」だけが心に留まっていたのでしょう。なぜ彼らが悪霊を追い出し、病気を直すことができたかがわかっていないのです。

 だれが一番偉いかという議論も、弟子たちには偉いということがわかっていないことから出ているのでしょう。高い山の上で主イエスの変貌を見ることができたペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人が偉いだとか、悪霊を押し出せなかったから偉くないとかいうことを話していたのかもしれません。

 「仲間ではないので、やめさせた」と言うヨハネもわかっていない弟子の一人ではないでしょうか。主イエスのそばにいながらも、肝心なことがわかっていない弟子たちの姿と、自分が重なります。主はよくぞ、こんなにもわかっていない者たちをお育てになったことかを、改めておぼえます。


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