列王記第二 4章18−44節
月曜日、フランクフルトから約一時間の地に住む教会のメンバーのご自宅を訪ねました。バス停から家までおよそ2キロを歩いたのですが、なだらかな穀倉地帯を吹き抜ける初夏の風が心地よかったです。
2時間近くかけてお昼をご馳走になり、その後でアイスクリーム、さらにはケーキが…! お昼、そしてデザートをおいしく、太り過ぎを心配しないで食べられるように、あらかじめ2キロを歩いたのだと納得。おもてなしに感謝です。ごちそうさまでした。
納得といえば、せっかくエリシャによって与えられて成長した子どもが死んでしまった母親の思いこそ、納得のいかないことではなかったかと思うのです。エリシャは死んだ子どもを生き返らせます。
採ったうりを釜の中で煮ていると毒が入っていることを発見したのも、納得のいかないことです。ここでもエリシャは、麦粉を釜の中を入れて毒をなくしてしまいます。
預言者のともがら100人を養うのに、大麦のパン20個と新穀一袋で…というのも納得のいかないことです。しかしエリシャは、これで十分に養って余りが出ると言い切ります。そして、言ったとおりになりました。
なぜゲハジはエリシャの杖をもってしても、子どもを生き返らせることができなかったのかということが気にかかります。子どもを生き返らせるのは、エリシャの杖ではない、いやエリシャでさえない、エリシャが信頼する神なのだということを、伝えてくれているのだと考えるのですが…。
神さまが第一だと言いながらも、「あの人が」「この人が」という段階でとどまっていることが、案外教会には多いのではないかと考えさせられます。