みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

それでも目を留める神

2021年12月31日 | 詩篇

詩篇 106篇24−48節

 2021年大晦日(おおみそか)をどのようにお過ごしでしょうか。私たちは日本の家族と年越し蕎麦を食べることにしました。当地時間で午前10時です。「かき揚げ蕎麦」にしようとイカを買いに行きましたら、ありました! 美味しそうなものが…。

 「みことばの光」今年の最後は、詩篇106篇の後半を読みます。度重なる選びの民の不信仰と不従順に主は怒り、彼らを苦しめられます。43節には「主は幾たびとなく彼らを救い出されたが 彼らは相謀って逆らい 自分たちの不義の中におぼれた」とあります。「主は幾たびとなく…」ということばが心に刺さります。なんと忍耐とあわれみに富んだ神さまだろうか…と。

 さらに、「それでも 彼らの叫びを聞いたとき 主は彼らの苦しみに目を留められた」と44節には続きます。何度相手の不始末を赦せるだろうかと考えるのですが、もしかしたら一度の相手の悪をさえも赦すことができずに自分はいるのではないでしょうか。イエス・キリストにペテロが「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」と尋ねたことを思い出します。七回までというペテロはずいぶんと心が広いと驚くのですが、「七を七十倍するまで」と主イエスが答えられたことばに、神の大きな愛を思います。

 そのお方を「ほむべきかな…とこしえから とこしえまで」と賛美して新しい年に向かいましょう。

 この1年もご愛読いただきありがとうございました。


忘れた者を忘れない神

2021年12月30日 | 詩篇

詩篇 106篇1−23節

 日本から何通かのクリスマスカードが届きました。日本と外国との往来がいろいろな制限のゆえに以前ほど自由でない中、郵便物はそれらの障壁を乗り越えて届きます。「 遠い国からの良い消息は、疲れたたましいへの冷たい水」という箴言25章25節のことばを思いました。覚えていただき、ありがとうございます。

 105篇後半では、イスラエルの民の出エジプトを神が力強く行われたことがうたわれていたのですが、本篇では同じ出来事を別の角度から取り上げているようです。民の不信仰、不従順にもかかわらず、神は彼らを見捨てられなかったと綴(つづ)るのです。

 葦の海を目の前にして迫り来るファラオの軍隊におびえてモーセに文句を言う民、主が葦の海を分けて彼らをエジプトから出してくださったにもかかわらず、食べ物がない、水がないと指導者モーセに不平を言う民、モーセがホレブ(シナイ)で十戒を神からいただいている間に金の子牛を作りそれを神にすり替えた民がここには描かれています。

 そのような忘恩、不信仰にもかからず、神は彼らをあわれんで滅ぼされなかったのです。改めて昨日読んだ105篇42節の「これらのことは 主がそのしもべアブラハムへの聖なることばを 覚えておられたからである」ということばを思います。

 23節のモーセの姿に、神に祈ることのできる者すべての歩みが映し出されています。「まずその人のために、そのことを祈ることから始めよう」と昨日の祈祷会で確かめ合ったことばが浮かんできます。


覚えておられたから

2021年12月29日 | 詩篇

詩篇 105篇25−45節

 ここ数日はどんよりとした天候でしたが、ついに昨日夕方、太陽が! 雨が上がったので郵便を投函するために外に出かけました。帰宅するとすぐにまた雨が…。目まぐるしく変化する空です。日本は寒波が襲っていると報じられていますが、お住まいの所はいかがでしょうか。

 詩篇105篇後半では、ヨセフに始まりヤコブと家族がエジプトに来た時代からモーセの時代へと変わります。神がモーセを、そして兄のアロンをご自分の民を約束の地カナンに連れ出される時の様子が歌われているのです。

 25節は、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷として苦しめられていた時の様子を描きます。ここでは「主は…」とあります。主がご自分の民を苦しめられる、ご自分の民が苦しむのをお許しになる…。そのようなことを神がするはずがないと思いたいのですが、実際にはこのようなことは起こります。確かにそれによって、彼らが約束の地カナンに戻るということが動き出したのです。

 28−36節には、モーセによって主が行った数々の奇跡が並びます。ここでの主語も「主は…」です。実際にはモーセが動くのですが、神がモーセを、そしてアロンを遣わして事をなさったのです。

 42節の「主がそのしもべアブラハムへの聖なることばを 覚えておられたから」ということばに目が留まります。約束が交わされても長い間事が動かないと、いつしか忘れてしまうのが私たちなのかもしれません。しかし、主は約束を覚えておられます。私が忘れても、主は覚えておられるのです。


忘れない神

2021年12月28日 | 詩篇

詩篇 105篇1−24節

 月曜日午後から、新型コロナウイルス第三回目のワクチンを接種しました。これを書いている時も、少しだけだるい感じがします。帰りにアジア食材店に立ち寄って「胡麻あんまん」(冷凍)を購入。さて味はどうでしょうか。

 詩篇105篇にタイトルをつけるなら、「主は忘れない」とか「約束を必ず守る主」などでしょうか。ここには、イスラエルの民への約束を忘れることのない神について歌われています。

 1−5節で作者は、イスラエルを主のしもべ アブラハムの裔(すえ)、主に選ばれた者 ヤコブの子ら」に行動を呼びかけています。「感謝せよ」「御名を呼び求めよ」「みわざを…知らせよ」「歌え」「みわざを語れ」「聖なる御名を誇りとせよ」「喜べ」「尋ね求めよ」「慕い求めよ」「みわざを思い起こせ」です。

 これらの呼びかけ、命令は、主に対するもの、自分たちに対するもの、そして他の人(民)に対するものです。神に選ばれたイスラエルは、自分たちのの行動、いや生きている様子によって、主をあがめ、主を伝えるのだということを、ここから考えることができます。

 主がイスラエルの父祖アブラハム、イサク、そしてヤコブに与えられた約束は、必ず果たしてくださったということを、この詩篇の作者はヨセフの生涯をたどることによって告げています。兄たちの憎悪がヨセフをエジプトへと追いやりました。しかし、神はヨセフの数奇な体験さえ用いて、ご自分の民をエジプトへと導かれるのです。それは、イスラエルをやがて約束の地へと連れ上るための最初のステップでした。

 その時には「なぜ…」と嘆くようなことさえも、神は約束を果たすために行われるのというのは、私たちにも言えることです。その時はとても受け入れられないことであったとしても…。


なんと多いことでしょう

2021年12月27日 | 詩篇

詩篇 104篇19−35節

 お借りしている会堂の暖房が再び故障しているとの連絡があったために、今年最後の日曜日の礼拝は、牧師宅からのオンライン配信で行われました。礼拝後にスモールグループを持ちますと、いつもの方の隣に初めてのお顔が…。義母の方が途中から一緒に礼拝に加わってくださったとのことです。神の祝福がありますように。

 詩篇104篇はすぐ前の103篇と同じように、「わがたましいよ 主をほめたたえよ」で始まり「わがたましいよ 主をほめたたえよ」で終わります。103篇は人を罪から救ってくださる神をほめたたえていますが、104篇は創造主である神をほめたたえています。

 後半は特に、人間に恐れられている獅子や、海の巨大な獣であるレビヤタンさえも神が養っておられるということを歌っています。24節の「主よ あなたのみわざはなんと多いことでしょう。…地は あなたのもので満ちています」ということばを心に留めました。

 この詩人のように、「あなたのみわざはなんと多いことでしょう」と気づいて賛美するために、今の自分には何が必要なのだろうかと、立ち止まっています。自分は神のみわざを数え上げているのでだろうかと…。今この目で見ているのはほとんどすべてが直接に神がお造りになったものではなくて、人の手によるものです。人が出すぎてしまうことで、創造主である神を脇に追いやるというようなとんでもないことをしてはいないだろうかとも問われます。

 ここからは、神がなさることと人がすることとが明確にされているようにも読めます。創造主である神の前に私が今できること、それはこの詩篇の初めと終わりにある「わがたましいよ 主をほめたたえよ」ということです。

 「私はいのちの限り 主に歌い 生きるかぎり 私の神をほめ歌います。」


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