みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

すべては神のもの

2020年03月03日 | レビ記

レビ記 27章26−34節

 月曜日、大きなスーパーに買物に出かけました。日本ではさまざまなものの不足が奉じられていますが、不安に駆られた購買行動をしてはならないと思いますので、いつもの買物をしました。

 「みことばの光」での「レビ記」の通読はきょうで終りです。いつも思うのですが、聖書は何度も読んでいるのに、その都度新しい発見があります。「一度読んだのでもういい」ということはないのですね。

 レビ記最後の部分には、誓願のささげ者に用いることのできないもののことが記されています。初子(ういご)と聖絶(せいぜつ)のもの、そして十分の一のささげ物です。どれもが主のものだからというのが理由です。

 元々私たちに「自分のものであって神のものではない」というようなものは一つもありません。すべては神のもので、人はそれを神から預かっているのです。ところが物や財産にはひとを惹きつけるものがあり、自分が働いて得たものはすべて自分のものという思い違いをしてしまいます。

 33節の「その良し悪しを見てはならない。それを取り替えてはならない」ということばに目が留まります。十番目のものが主のものであるとして、十番目に良いものが来て次の一番目が悪いものが来るとき、人はどのような行動をするのかということを前提にしての戒めです。神の戒めさえも自分に都合が良いように変えてしまうという誘惑は、どん欲から来るのだということを考えます。


誓いを果たす

2020年03月02日 | レビ記

レビ記 27章1−25節

 3月に入り最初の日曜日、教会までの道は肌を刺すような寒さもなく、春の訪れを感じさせるようでした。昨日から礼拝の受付には消毒用のジェルを置くようにしました。当地でも、いよいよに備えてマスクが売り切れたり、消毒用エタノールの購入が難しかったりしています。日本では500㎖の消毒用エタノールが2本で30000円近くで売られています。その値段の高さにびっくりするやらあきれるやら…。

 レビ記は最後の章。ここは誓願についての規定です。ここを読み、ハンナの祈りを思いました。夫に愛されながらも、夫のもう一人の妻に辛い目に遭わされていたハンナは、涙ながらに祈ります。

 「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」(サムエル記第一 1章11節)

 男の子が与えられたとき、ハンナは誓願どおりにわが子を主にゆだねました。その男の子とは、やがてイスラエルを導くサムエルでした。

 大きな問題を抱えたとき、人は神に必死に祈ります。そして、何とか自分の願いをかなえてほしいと、祈りが答えられたら何かをささげますと誓うのです。それが誓願です。人の弱さをよくご存じの神は、誓願する場合に心すべきことを定めておられるのです。

 誓願は果たさなければなりません。それとともに、ささげると誓ったものを再び自分のものにしたいときには、評価額に5分の1を加えて買い戻すことも定めておられます。

 「誓ってはならない」とのイエスのことばも思い起こします。誓ったことを果たさないままでいる身勝手な人間を戒めておられることばです。自分が用いることばの重さについて探られます。


もし…なら

2020年02月29日 | レビ記

レビ記 26章1−26節

 今日は4年に一度のうるう日。2月はずっと新型コロナウィルスの脅威にさらされていた感があります。日本では公立の学校を3月初めから休校とするとの要望が政府から出され、現場が混乱していると報じられています。教会の礼拝は人が集まる場所。対応に追われている方もおられることでしょう。

 1月から読み続けてきたレビ記も、あとわずかになりました。「みことばの光」の執筆者が1月号の「レビ記を読む前に」の冒頭に「レビ記、それは聖書通読挫折箇所ナンバーワンだからだろうか。2020年は半月ばかりの恵みの助走を経て、満を持してレビ記に挑む」と書いておられました。特に、「満を持して」ということばに「さあ読もう!」という強い呼びかけを感じました。いかがでしたか。

 今日の箇所には、2つの「もし…なら」ということばが見られ、そのことばに導かれて神の祝福とさばきの内容が書き連ねられています。「もし…なら」には、イスラエルの民が神の掟・命令・契約を守るなら、守らないなら、という条件節が入り、その結果が記されます。守るのならば、産業(農業)、治安、外交そして家庭に神の祝福が注がれ、守らなければ、健康が損なわれ、不作となり、敵に攻め込まれ、家庭に争いが…というようなことが起こります。

 神は厳しすぎる、恐ろしいと背を向けることもできるでしょう。しかし、私たちが当たり前だと思っていることや自分の力でやっていると思っていることの根幹は、じつは自分たちではどうにもならないのではないでしょうか。大切なものは神が与え備えておられるのです。ですから「もし…なら」を聞き逃すことのできません。

 神を恐れることと拠り頼むことが必須であることを、ここから教えられます。


わたしのしもべ

2020年02月28日 | レビ記

レビ記 25章29−55節

 仕事部屋の天窓を叩く雨音が静かになったと思って見ると、雪に変わっていました。予報どおりでした。1時間ほど強く降ったので、あっという間に景色が変わりました。感動する二人にはまだ子どもの心が残っているのだろうか、と話しました。一時帰国中のことはわかりませんでしたが、私たちの記憶では2月終りの初雪になりました。なごり雪ですね。

 クロッカスは縮こまり、待雪草(ドイツ語で「雪の鐘」の意味)は「待ってました!」と喜んでいるかもしれません。

 25章後半には、土地や財産の移動についての規定が明らかにされています。人には能力の違いがあり、また突発的なことも起こりますので、同じにスタートしても富を蓄える人と、今日の箇所に何度も見られますが、落ちぶれてしまう人とが出てきます。ここでは、落ちぶれた人を守るようにとの神の配慮が示されています。

 城壁の中の住まいを売らなければならないときもあります。そのような場合でも、一年の間は買い戻しの権利が与えられていました。けれども、五十年目のヨベルの年になっても、この家は元の持ち主のところには戻りませんでした。城壁のない家の場合は、買い戻しの権利があり、かつヨベルには元の持ち主に返されるというのです。

 イスラエルの同胞が落ちぶれた場合でも、その人を奴隷としてはならないとの規定もあります。その理由として挙げられているのが、42節の「彼らは、わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべである。奴隷の身分として売られてはならない」ということばです。皆が主のしもべ、つまり奴隷なのだから、持てる者は落ちぶれた者の尊厳を守り、落ちぶれた人を雇い人とし、家族の面倒も見なければなりませんでした。そして、その立場もヨベルの年には解放されたのです。

 今日の「みことばの光」に、信仰者はキリストによって罪から解放されて永遠のヨベルを与えられたとあります。ふさわしく歩みたい、です。


土地は誰のもの

2020年02月27日 | レビ記

レビ記 25章1−28節

 水曜日午後、おいでになった方がとても美しいスイーツを焼いてこられました。色合いもかわいらしく、甘さも控えめ。量もちょうどよかったです。ご馳走様!

 25章の前半には、7年目の土地の安息つまり「安息の年」について、安息の年を7回数えた50年目の「ヨベルの年」についての規定が神によって与えられています。

 土地にも安息を与えよという規定からは、土地への労りを感じますし、同時に人間がどん欲になることを防ごうとする神のみこころが示されています。収量をひたすらに増やし、より多くの利益を目指そうとする現代の価値観から見たら、もったいないということなのかもしれませんが、結果的に土地を労ることにつながるのではないでしょうか。20―22節には、「7年目には何を食べればよいのか」という問についての主のことばが目に留まります。主は6年目に3年分の収穫を生じさせると言っておられるのです。

 50年目の「ヨベル」についての規定は、土地は誰のものなのかという問いかけへの答えを示しています。そして、50年目の「ヨベルの年」がここで神が命じておられるように守られたのであれば、富む者と貧しい者との間に横たわる格差はどのようになるのでしょう。

 「買い戻しの権利」についての規定からは、ルツ記をおぼえます。この権利を行使した小さな家族がいたということは、この掟がイスラエルの民の間で生きていたということを知ることができます。 土地も、収穫物も、すべて神のものだと知ることが、「もっともっと!」というどん欲から自分を守るのです。


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