みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ささげる

2015年03月04日 | レビ記

レビ記 27章16−34節

 

 雨音が時々聞こえる夜でした。関東地方、きょうは暖かくなりそうですね。

 1月の途中から読み進めてきたレビ記、きょうが最後の箇所になりました。終わりに、「以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である」とあります。「命令である」ということばを思い巡らしてみますと、レビ記は神の命令に貫かれているのだということを改めて覚えます。

 「あなたが何をしたいかが肝心」「あなたが望むように」などと、個人の意志が尊重され、主体的に自分で判断し、自分で決定して歩むのが当たり前で、良いことだとする世の中。何よりも神の命令にしたがって歩むようにと書き連ねているのを読み続けると、ときには反発したり、できっこないと思ったりします。もちろんレビ記は神とイスラエルとの旧い契約ですから、ここに命じられていたいけにえを今の私たちが言われたとおりにささげることはありません。しかし、そこにある「心」は今に至るまで生きています。

 きょうの箇所には誓願についての規定が示されていますが、新約聖書ではどのような誓いも義務づけてはいません。けれども、人生のいろいろな場面で神の前に約束することはあります。結婚における誓約、洗礼を受ける時の誓約など、人は前に向かって行く希望と喜びの中で、「はい、約束します」と言います。その重さを、誓願についての規定を初め、レビ記の一つ一つの命令は思い起こさせてくれます。

 あすからはペテロの手紙を読み進めます。

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誓願

2015年03月03日 | レビ記

レビ記 27章1−15節

 長い働きにピリオドを打とうとしている今、自分でも気がついていなかったのですが、体のほうも「ご苦労さんでしょ?」と訴えているようです。

 首の痛みで近所の整骨院にほぼ週に3回通っています。それがとても良い休息になっていて、電気をかけてもらっている間は眠ってしまいます。きのうは強すぎて「シビレ」ましたが…。最初の時「ちょっと見てみましょう」と体に触れてくださったのですが、問題の箇所がわかるようでびっくり。これで仕事をなさっているので当たり前といえば当たり前でしょうね。

 レビ記は最後の章になりました。ここは誓願についての規定。神に誓うことによって、人や持ち物が特別に聖別された関係になるということです。エフタが自分の娘をささげることになったことや、ハンナがサムエルをささげたことなどの旧約聖書の出来事を思い起こすでしょう。誓願は神の民に負わされた義務ではなくて、自主的なものなのです。そしてそれは、「みことばの光」が書くように、誓願をする人が何かの思惑をもって神との取引の手段としようとするものではありません。

 主イエスが「誓ってはならない」とお教えになったことを思い起こします。→マタイの福音書5章33−37節 それは、誓いを禁じているのではなくて、人が自分のことばを不用意にもてあそぶことをい戒めておられるのです。神に対して誓ったことばをいい加減にしながらも抜け道を設けてさも守っているかのようにふるまうのではなくて、誓ったことができなければできないと、素直に告白することの大切を覚えます。そしてまた、人と人との間が真実でありたいと願うならば、神との真実なつながりを大切に…、と思うのです。

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にもかかわらず

2015年03月02日 | レビ記

レビ記 26章27−46節

 日曜日の夕方、お父さまを亡くされたお宅を訪ねました。99歳までほぼ自立した生活をしておられたとのことです。葬儀を終えてご夫妻ともお疲れのご様子でした。ご家族に神の慰めがあり、お疲れが癒されますように。冷たい雨の中で咲く庭の水仙の花々が春の到来を告げていました。

 きょうの箇所には二つの「にもかかわらず」があります。

 一つは民の「にもかかわらず」。 神に選ばれた聖なる民であるにもかかわらず偶像を慕い求め、土地に安息を与えず七年目に種を蒔いていると、食べ物に困り果て、町は廃虚となり、土地は荒れ、ついには人々が国々の間に散らされてしまいます。神との契約を破ったものが受ける当然の結果がこれらのことなのです。

 もう一つは神の「にもかかわらず」です。 国土が荒れることは地が安息を取り戻す期間、町が壊されて民が散らされるのは、彼らのこころがへりくだり自分たちの咎(とが)の償いをする期間。罪を犯し滅ぼされても仕方がないにもかかわらず、神は、ご自分の民との契約を思い出して彼らを回復させてくださるというのです。

 神の「にもかかわらず」によって今の自分があるのです。

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あなたの神を恐れなさい

2015年02月28日 | レビ記

レビ記 25章29−55節

 2月はきょうが最後の日。今ごろが4ヶ月先の「みことばの光」編集をしていますので、油断をするとタイムリミットが…となります。29日、30日、31日の三日間は、そんなものにとっては貴重なものです。

 ヨベルの年が来ると、土地は元の所有者のところに戻るけれども、城壁に囲まれた町の中の住宅を事情があって売らなければならない場合は、一年の買い戻しの権利の期間を過ぎれば、ずっと買った人のものとなるとあります。他方、城壁のない村落の家は土地といっしょに売買されるのでヨベルの適用範囲以内ということになるのでしょう。「土地は神のもの」ということに基づいた配慮ですね。

 さらにきょうの箇所には、土地の売り買いのほかに同胞を奴隷としてはならないとの戒めもあります。目に留まったのは、それらの戒めの合間にちりばめられていることば。

 「わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたにカナンの畑を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。(38節)「あなたの神を恐れなさい。」(43節)「わたしはあなたがの神、主である。」(55節)

 土地を売るというのはよほどのこと、土地を買うのは豊かさの現れの一つ。卑下したり、高慢になったりする危機です。そのようなときに、神を忘れないで神を恐れることは、人生の一大事に誤った選択をしない鍵のようなものだと思うのです。

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わたしのものであるから

2015年02月27日 | レビ記

レビ記 25章1−28節

 近ごろは、夫婦とも忘れ物をして笑い合っています。月曜日に子どもたちの家族と夕食をしました。おいしい食事に満足して宇都宮から戻って来ましたが、何かが足りない…。気づいてみたら、コートをお店に置いたままにしてしまいました。お店の人が取っておいてくれたので、土曜日に受け取れることとなりました。きのうはきのうで、きょうの分の記事を掲載してしまいました。だいじょうぶでしょうか??? 

 たとい高価なものでなかったとしても、持ち物をなくしたり、忘れたり、壊したりしたら、落ち込みます。きょうの箇所には、安息年、そしてヨベルの年のことが記されています。がつがつ稼いで必要以上に富を蓄えないように、力の強い人も弱い人も、あるところまで来たらリセットできるように…というのですが、これらの規定には、すべてが神のものだという基本が示されているのだと思います。「地はわたしのものであるから」という23節のことばを心に留めました。

 自分のものに名前を記すのは、所有物だということを明らかにすることです。働いて購入し、あるいは相続して自分の名義にした土地は、自分のものだと誰はばからず言うことができます。しかし、よくよく考えてみたら、それをいつまでも自分のものとして持ち続けることはできません。神のものだからです。

 6年目に3年分の収穫を与えるとの主の約束を読むと、目が開かれるます。自分の力や持ち物に頼るな、主に信頼して生きるようにと…。

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