みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

あなたの神を恐れなさい

2015年02月28日 | レビ記

レビ記 25章29−55節

 2月はきょうが最後の日。今ごろが4ヶ月先の「みことばの光」編集をしていますので、油断をするとタイムリミットが…となります。29日、30日、31日の三日間は、そんなものにとっては貴重なものです。

 ヨベルの年が来ると、土地は元の所有者のところに戻るけれども、城壁に囲まれた町の中の住宅を事情があって売らなければならない場合は、一年の買い戻しの権利の期間を過ぎれば、ずっと買った人のものとなるとあります。他方、城壁のない村落の家は土地といっしょに売買されるのでヨベルの適用範囲以内ということになるのでしょう。「土地は神のもの」ということに基づいた配慮ですね。

 さらにきょうの箇所には、土地の売り買いのほかに同胞を奴隷としてはならないとの戒めもあります。目に留まったのは、それらの戒めの合間にちりばめられていることば。

 「わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたにカナンの畑を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。(38節)「あなたの神を恐れなさい。」(43節)「わたしはあなたがの神、主である。」(55節)

 土地を売るというのはよほどのこと、土地を買うのは豊かさの現れの一つ。卑下したり、高慢になったりする危機です。そのようなときに、神を忘れないで神を恐れることは、人生の一大事に誤った選択をしない鍵のようなものだと思うのです。

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わたしのものであるから

2015年02月27日 | レビ記

レビ記 25章1−28節

 近ごろは、夫婦とも忘れ物をして笑い合っています。月曜日に子どもたちの家族と夕食をしました。おいしい食事に満足して宇都宮から戻って来ましたが、何かが足りない…。気づいてみたら、コートをお店に置いたままにしてしまいました。お店の人が取っておいてくれたので、土曜日に受け取れることとなりました。きのうはきのうで、きょうの分の記事を掲載してしまいました。だいじょうぶでしょうか??? 

 たとい高価なものでなかったとしても、持ち物をなくしたり、忘れたり、壊したりしたら、落ち込みます。きょうの箇所には、安息年、そしてヨベルの年のことが記されています。がつがつ稼いで必要以上に富を蓄えないように、力の強い人も弱い人も、あるところまで来たらリセットできるように…というのですが、これらの規定には、すべてが神のものだという基本が示されているのだと思います。「地はわたしのものであるから」という23節のことばを心に留めました。

 自分のものに名前を記すのは、所有物だということを明らかにすることです。働いて購入し、あるいは相続して自分の名義にした土地は、自分のものだと誰はばからず言うことができます。しかし、よくよく考えてみたら、それをいつまでも自分のものとして持ち続けることはできません。神のものだからです。

 6年目に3年分の収穫を与えるとの主の約束を読むと、目が開かれるます。自分の力や持ち物に頼るな、主に信頼して生きるようにと…。

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目には目、歯には歯

2015年02月26日 | レビ記

レビ記 24章

 午前の家庭集会の帰り道、このブログにコメントありとのメールがはいっているのに気づきました。読者の方からのご指摘です。今朝更新したのはあすの聖書箇所だとのことでした。ありがとうございます! うっかりしていました。

 イスラエルの宿営にトラブルが起こり、当事者の一人が御名を冒瀆してのろうということをしてしまいます。モーセはこの問題に、「主の御名を冒瀆する者は必ず殺されなければならない」との主の命令を伝えます。併せて、人や動物に危害を加えた者に対する扱いについても明らかにします。

 「目には目。歯には歯…」というのはよく誤解して使われます。「やったらやり返せ」というような意味だとして、仕返しすることを正当化する戒めだと考えられているからです。しかし、「みことばの光」が書くように、損害を被った人が、損害を与えて人に復讐しないようにとと、復讐を抑制することを意図とした命令なのです。

 ちょっと前に、人気テレビドラマの主人公が語る「倍返し」ということばが流行りました。ひどいことをした相手にどうにかして仕返しをしたいという気になります。「自然の感情」に身を任せていたら、「やったらやり返せ、さばかれたらさばき返せ」ということになって、人と人との間の溝は埋まりません。主にしっかりと心と思いを握りしめられてこそ、不可能を可能にする道が開かれていくように思えます。

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仮庵に住む

2015年02月25日 | レビ記

レビ記 23章23−44節

 日本では空き家が増えていて、5年ごとの住宅・土地統計調査によると、2013年の空き家率は全国で13.1%で、戸数はおよそ757万戸とのこと。10軒に一軒以上は空き家ということになりますね。人は生きていていろいろな物を買い求めます。食料のようにすぐに消費してしまうものもありますが、家となると「一生物」。借家暮らしから始まり、家族も増え経済にも見通しが立ったので自分の家を持つというようにという道筋をこれからも進むのでしょうか。

 きょうの箇所には、イスラエルの民が守るべき主の例祭のうちの「仮庵(かりいお)の祭り」のことが記されています。イスラエルの暦で第七月、太陽暦で言えば10月というのは収穫が終る時期です。主は七日間仮庵に住まなければならないと、彼らにお命じになります。この祭りが覚えられるのは、彼らが約束の地カナンに定住した後のこと。土地を分け与えられ、家を建てて生活をする彼らが、年に七日はしゅろ、柳、その他自生の木の枝で編んだ庵の中で過ごすのです。それは、「わたしが…彼らを仮庵に住ませたことを、あなたがたの後の世代が知るため」というのが理由です。

 考えてみれば、私たちにとってこの世とは、仮庵暮らしのようなもの。間近に引っ越しを控えている身としては、「旅人であり寄留者であるあなたがたは…」(ペテロの手紙第一2章11節)ということばがこころに響きます。

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聖なる会合の日

2015年02月24日 | レビ記

レビ記 23章1−22節

 月曜日、近くの日帰り天然温泉(このように書いてありました)でゆったり。風呂上がりに初めてマッサージをしてもらいました。ここ数日首が痛いのでやってもらおうと思いたったのです。20分コースというものでしたが、施術してくださる方が「これはひどい!」「体が悲鳴を上げています」などと言うのです。そんなにも凝(こ)っていたのですね。

 23章は、聖なる会合の日についての記述。「安息日」に始まり、「過越の祭り」、「五旬節」そして「仮庵(かりいお)の祭りの、いわゆる三大祝祭のことが記されています。きょうの箇所では、「安息日」「過越の祭り」「五旬節」が取り上げられます。

 「わたしの例祭」ということばに目が留まります。民が話し合って定めたのではなくて、主がお決めになり、召集するのです。ですから、これらの特別な日を「聖なる会合」「主の例祭」「わたしの例祭」として覚えるのです。いや、覚えよと主が命じておられるのです。

 「安息日」は一切の仕事をしてはならない主の安息日、「過越の祭り」は出エジプトの際の罪の贖に感謝し、「五旬節」は初穂の刈り入れと収穫を祝います。そして、新しい約束の下に歩む教会にとっては、週の初めに覚える主の日が安息の日、そして主イエスの復活を覚えるイースター、さらに聖霊がおいでになった日として五旬節を覚えています。

 「わたしの例祭」をすり替えて自分たちによる、自分たちのためのものになっていないだろうかと、問いかけます。

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