みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

あなたがたのためではない

2017年10月31日 | エゼキエル書

エゼキエル書 36章22−38節

 きょうは500年目の宗教改革記念日。いつもの年、当地が含まれるヘッセン州はこの日を祝日とはしないのですが、今年はすべての州が祝日としています。各地の教会で記念行事が行われます。私たちも友人に誘われて70キロほど離れた町の教会の記念礼拝に参加します。

 ここには、「あなたがたのためではない」ということばが繰り返されています。神がイスラエルを回復する理由です。神の御名が聖であることを示すためにであって、あなたがたのためではないのだというのです。もちろん神がイスラエルを顧みないということではありません。彼らは神の御名が聖であることを証しするために選ばれました。しかし、長い間かけて彼らはその反対に走ってしまったのだといえます。

 民が台無しにしたものをご自分で取り戻そうとしているというのが、イスラエル回復の理由です。

 さらにここには、神が一方的に民を顧みることも見られます。きよい水を振りかけて汚れからきよくするのは神、新しい心、新しい霊を与えるのは神、石の心を取り除き肉の心を与えるのは神、そして、たくさんの物を用意するのも神です。

 「あなたがたのためではない」とは、神をあがめて生きる、自分ではなく救い主を指し示して歩め、ということではないかと、私には響きました。そのようでありたいと願います。


帰って来るのが近いから

2017年10月30日 | エゼキエル書

エゼキエル書 36章1−21節

 日曜日からは夏時間が終わり、時計の針が時間が1時間遅くなりました。ちょっと説明がむずかしいですが、日本との時差が7時間から8時間に広がったということです。この日は時間で間違える人が多いと聞きますが、わが家の掛け時計は電波時計。朝起きたら自動的に調整されていました。日曜日の礼拝を終え、帰宅してこれを書いているのですが、何となく夜が長いような気がします。

 この章には、バビロンによって破壊されたイスラエルの土地と人々が回復する、つまり、捕囚から帰還するという預言があります。侵入してきた諸国軍によって、イスラエルの国土は荒れ、町は廃墟に、美しい山や丘、そして谷や川も涸れ果ててしまいました。主はそれを回復すると約束しておられるのです。

 心に留めたのは8節のことば。主はイスラエルの山々に向かって、「枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ」約束をお与えになります。なぜなら、彼らが帰って来るのが近いからなのです。「彼らが帰って来る」とは、バビロンに捕囚されていた民がエルサレムに、イスラエルに帰還するということを指しています。もうすく帰って来るから、山々は「枝を出し実を結ぶ」のだというのです。帰って来た人々が、飢えで苦しむことのないように木々に実りを与えられるのです。

 木々の緑や実りは人に対する神の恵みの一つなのだということに気づきます。今は紅葉が終わり、道路や公園にはたくさんの落ち葉。何となく春が来たら芽を吹いて、夏になったら緑に覆われ、秋になったら色づく…と思っていたのですが、その営みの一つ一つに、神の人への恵みが注がれているのですね。


良い牧者を…

2017年10月28日 | エゼキエル書

エゼキエル書 34章17−31節

 自動車のタイヤを冬のものに交換してもらいました。これで安心…。でも大切なのは安全運転ですね。去年の冬は雪がほとんど降りませんでしたが、さて今年は…?

 ご自分が羊である民の牧者になるとおっしゃった神は、強い羊と弱い羊、雄羊と雄やぎの間をさばくとも約束しておられます。それは、弱い者を強い者の横暴から守るということです。これをエルサレムの人々に置き換えてみますと、指導者ではない民の間でも弱い人を押しのけて、自分だけ良い思いをする者がいたということになります。強い者にいじめられている弱い人々の間で、さらにその中で強い者が弱い者を押しのけ、奪い取るということがあるのだというのです。「私たちはお互い弱い者同士で助け合いましょう」とはなかなかならず、弱者とみなされる人々の間にも差別やいじめの問題が横たわっているという現実は、昔も今も変わりありません。

 良い牧者はそのような羊たちを正しくさばくのです。

 23節以降にある「彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす」とは、やがてダビデの子孫としておいでになり、「わたしは良い牧者です」と宣言なさるイエス・キリストを指しています。この牧者が羊に何をもたらすのでしょう。悪い獣を取り除きます。それで羊たちは安らかに過ごすことができるのです。

 「安らかに」ということばがここには繰り返されます。「安心安全な…」ということばがいろいろなところで用いられていますが、この牧者のもたらす安らかさは究極の「安心安全」だと言えます。「良い牧者」なるイエスがおっしゃった、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません」とのことばを思いました。⇒ヨハネの福音書14章27節


わたしの羊、わたしの牧者

2017年10月27日 | エゼキエル書

エゼキエル書 34章1−16節

 聖書を読む会におじゃましたお宅には、日本語の本がずらりと並んでいました。その中に、私たちが親しんで来た絵本など子どもの本をいくつも見つけて、嬉しくなってしまいました。「いやいやえん」「ぐりとぐら」「おかえし」「あおくんときいろちゃん」「自然図鑑」「冒険図鑑」「アンデルセン童話」「グリム童話」ローラ・インガルスのシリーズ…。家で、幼稚園で、読み聞かせをしていた頃の子どもたちの表情が浮かんできました。故国を離れた場所に、こんなにもたくさんの日本語の本があるということに感動、です。

 聖書には、羊飼い(牧者)と羊があちこちに出てきます。詩篇23篇は「主は私の羊飼い」と始まり、ルカの福音書15章4—7節には「一匹のいなくなった羊を見つかるまで探す羊飼い」のことが出てきます。そして、イエスはご自分を「わたしは良い牧者です」と言っておられます。

 この箇所には、まず羊を散らす悪い牧者のことが出てきます。2節の「イスラエルの牧者たち」とは、イスラエルの政治的、宗教的な指導者たちのことを指しています。羊を養うはずの牧者たちが、羊そっちのけで自分を養っている姿が描かれています。結果として、羊たちはのの獣のえじきとなって散らされてしまいます。「散らされてしまった」ということばとバビロンへの捕囚が重なって響きます。

 主は、これらの牧者たちが羊を飼うのをやめさせ、代わりにご自分が牧者として羊を飼うのだと宣言しておられます。

 この箇所には「わたしの羊」「わたしの牧者」ということばが何度も出てきます。「みことばの光」が書くように、よみがえられた主イエスがガリラヤ湖のほとりでペテロに「わたしの羊を飼いなさい」とお招きになったことばを思い起こします。まことの牧者なるキリストの羊たちは、今で言えば教会です。「わたしの羊」「わたしの牧者」ということばの繰り返しは、導く側も導かれる側も互いに自分のものではないのだと覚え続ける必要があることに気づきます。


神のことばへの間違った態度

2017年10月26日 | エゼキエル書

エゼキエル書 33章17−33節

 週末と週前半に出かけていましたので、しばらくぶりに帰宅したよう。気がついたら近くの街路樹の上の方の歯はほとんど落ちていました。あと数日ですべての葉が落ちるのかと思うと、ちょっと寂しくなります。

 エルサレム陥落の知らせが捕囚の民のところに届きました。「都は占領された」との知らせは、捕囚の民の淡い期待を打ち砕くものでした。23—29節はこの時ユダに残された人々への、そして30—33節は捕囚の民へのメッセージです。

 この混乱の中で、エルサレムに残されたわずかな者が、アブラハムを引き合いに出して「当然この地はわれわれの所有地として与えられている」と主張します。「みことばの光」は火事場泥棒のようだと説いています。彼らは。どんなにおかしな理屈でも父祖アブラハムを引き合いに出せば無理が通るとでも錯覚したのです。けれども、それは勝手な理由づけ。

 アブラハムは神への信仰によって神から約束の地を賜ったのですが、ここで主張している者たちは私欲のためにかすめ取ろうとしているのです。

 捕囚の民は、「さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう」としてエゼキエルの所にやって来ます。神のことばへのあるべき態度のように映りますが、神は彼らの心をご覧になって、聞いても実行しないと語られます。

 自分のやりたいことを裏づけようとみことばを誤用し、聞くことだけで満足してはいないかと、心探られます。

*ブルームハルトが牧師をしていたバート・リーベンツェル メットリンゲンにある教会


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