歴代誌第二 24章
夕方いつもどおりに歩いていると、何かフラフラします。具合が悪いのかなと心配になりましたが、よく考えてみると空腹によるものでした。
7歳でユダの王となったヨアシュは、ダビデとの契約ゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった主が与えられた具体的なしるしのような存在でした。24章は、ヨアシュ王を書いています。ある意味、彼の王としての歩みは分かりやすいです。幼いときから彼をかくまった祭司エホヤダはヨアシュにとっては恩人というだけでなく、育ての親のような存在でした。エホヤダ存命中、彼は主の目にかなうことを行ったのです。そしてそれは神殿の修復工事に表れました。
しかし、エホヤダの死とともに、彼の方向は正反対になります。17節のことばに目が留まります。エホヤダが死ぬと王のところにやって来たのはユダの首長たち。彼らはなぜ王を伏し拝んだのでしょうか。願い事があったのです。それが偶像に仕えるようにとの願いだったことは、前後関係から推測できます。王は彼らの願いを受け入れます。
王の方向転換を、神は祭司ゼカリヤを用いて厳しく非難させます。「あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた」ということばが響きます。真っ当な助言をする者を陰謀によって殺すということで、自分たちの思いを成し遂げたいという野望に、ヨアシュ王も加わったのです。しかし、ヨアシュの最期は悲惨なもの。彼はあってはならない方向を転換をしたゆえに、自分に破滅をもたらしたのです。
ヨアシュの歩みは、そばにいる人々のことばや助言によっていました。信仰の自立とはどのようなことなのだろうか…と、彼の姿から考えさせられます。