みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

信仰の自立

2021年08月31日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 24章

 夕方いつもどおりに歩いていると、何かフラフラします。具合が悪いのかなと心配になりましたが、よく考えてみると空腹によるものでした。

 7歳でユダの王となったヨアシュは、ダビデとの契約ゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった主が与えられた具体的なしるしのような存在でした。24章は、ヨアシュ王を書いています。ある意味、彼の王としての歩みは分かりやすいです。幼いときから彼をかくまった祭司エホヤダはヨアシュにとっては恩人というだけでなく、育ての親のような存在でした。エホヤダ存命中、彼は主の目にかなうことを行ったのです。そしてそれは神殿の修復工事に表れました。

 しかし、エホヤダの死とともに、彼の方向は正反対になります。17節のことばに目が留まります。エホヤダが死ぬと王のところにやって来たのはユダの首長たち。彼らはなぜ王を伏し拝んだのでしょうか。願い事があったのです。それが偶像に仕えるようにとの願いだったことは、前後関係から推測できます。王は彼らの願いを受け入れます。

 王の方向転換を、神は祭司ゼカリヤを用いて厳しく非難させます。「あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた」ということばが響きます。真っ当な助言をする者を陰謀によって殺すということで、自分たちの思いを成し遂げたいという野望に、ヨアシュ王も加わったのです。しかし、ヨアシュの最期は悲惨なもの。彼はあってはならない方向を転換をしたゆえに、自分に破滅をもたらしたのです。

 ヨアシュの歩みは、そばにいる人々のことばや助言によっていました。信仰の自立とはどのようなことなのだろうか…と、彼の姿から考えさせられます。


この町は平穏となった

2021年08月30日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 23章

 土曜日、結婚式に出席しました。式はおよそ1時間少しで終了。そのあとはお祝いの時間ですが、延々と続きます。しかし、来賓の挨拶や祝辞があるわけではなく、芝生の上にセットされたテーブルで皆で持ち寄ったケーキなどをいただきながらのティータイム。それがひとしきり終わると、夕食。ゆっくりと時が流れ、私たちが帰宅の途についたのは、お祝いが始ってから5時間半ほど経った夜の9時近くでした。良い時を過ごしました。

 アタルヤ支配下の6年間は、ゆったりと時が流れたというようなものではなく、多くの者が早く過ぎ去ってほしいとひたすらに願う6年間ではなかったかと想像します。

 そして7年目、祭司エホヤダが動きます。彼は一人残ったダビデ王家の子である幼子ヨアシュを隠したエホシェバの夫です。7歳になったヨアシュを王として立てるという計画は、もちろんアタルヤには極秘に、用意周到に進められました。そしてついに、その日が来ました。ヨアシュの王位就任とアタルヤの死の日が…。

 21節のことばが心に残ります。「民衆はみな喜んだ。アタルヤは剣で殺されこの町は平穏になった。」アタルヤ支配下の6年間、エルサレムには平穏がなかったことがここから分かります。凶暴な専制者、独裁者のもとにあることが社会から、そして一人一人から平穏を奪うのです。

 誰が王であるか、誰が上に立つかは、私たちが平穏に暮らすことができるかどうかを分けるほど大切です。イエス・キリストが私の王として、常に上に立っておられることのゆえに、私には平穏があるのだということをここから確認できます。いろいろなことが起こる中でも、イエスにある平穏が自分にはあるのです。


アハブの家、ダビデの家

2021年08月28日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 21章

 歴代誌に戻りました。今回はこのまま終章まで読み進めます。

 本章は、南王国ユダが暗黒時代を通っている頃のことを描きます。信仰の王ヨシャファテの死後、王位を継承したのはヨラム。ヨラムの妻は北王国イスラエルの王アハブとイゼベルとの娘アタルヤ。それを機に、ヨラム王はバアル崇拝にはまりこんでしまうのです。「アハブの家」が行っていたことが、「ダビデの家」でも行われるようになっていたのです。

 ちなみに、アハブの死後に北王国の王になったのはヨラム。ヨシャファテの死後に南王国の王になったのはヨラム。南北に分かれた二つの国で、この時期には同じ名前の王なのです。アハブたちが目論んでいたのは、南王国ユダをアハブの家のようにすること。同名の王というのは、アハブ家のもくろみが暗示されているのではと、読んでしまいます。

 そのような中で、7節のことばに目が留まります。主はダビデとの契約ゆえにダビデの家を滅ぼすのを望まれなかったとあります。そして、ダビデとその子孫に常にともしびを与えると約束されたからだと理由が明らかにされています。

 そしてこの7節のことばは、この後にともしびが消されてしまうような出来事が起こるのを予告しているようにも読めるのです。お立てになったご自分の国が霊的な危機の中にある時、神はエリヤやエリシャたち預言者を送って、ご自分のことばをお伝えになります。北王国の預言者として知られるエリヤが、南王国ユダの王ヨラムにも神のことばを届けています。そして、エリヤのことばどおりにヨラムはいのちを落とします。

 「惜しまれることなく世を去った」ということばに、王としてのヨラムはどうだったのかが凝縮されています。


イスラエルの望み

2021年08月27日 | 使徒の働き

使徒の働き 28章17−31節

 きょうで使徒の働きを読み終えます。いつものことですが、ボリュームのある聖書を読み終える頃には、名残惜しい気持ちになります。「みことばの光」では5年に一度、使徒の働きを読むのですが、今回はどのような発見があったでしょう。

 ここには、ローマ到着後のパウロの生活がどのようなものだったかが書かれています。

 彼がまず行ったのは、ユダヤ人の主だった人々を集めて、自分がなぜローマに来たかの理由を話すことでした。彼がカエサルに上訴したことについて、誤解があるのならばそれをとり除こうとしていたのです。パウロは、自分が鎖に繋がれているのは、「イスラエルの望みのため」だと言います。それは、自分がこのような身なのは、長い間イスラエルが待ち望んできた神の約束ゆえだというのです。

 話を聞いたユダヤ人は、「イスラエルの望み」について、直接パウロから話を聞くのがよいとして、日を改めて改めてパウロの滞在先を訪ねました。そこでの反応は、これまでパウロが「イスラエルの望み」がイエスにおいて実現したとユダヤ人に話をした時と同じものでした。受け入れる者と信じない者とに分かれたのです。

 これは、福音が語られるときの人々の反応を表しています。そして信じない人のほうが多いのです。だからといって、多くの人に受け入れてもらおう、受け入れやすくしようとして、福音を変えることは許されません。「イスラエルの望み」とはナザレ人イエスが十字架で死に、復活して生きておられるメシアだというメッセージです。それはイスラエルの望みであり、すべての人の望みなのです。

 この福音を信じた時から、神による新しい創造が一人の人のうちに起こるのです。パウロの時代も、そして今も…。


勇気づけられた

2021年08月26日 | 使徒の働き

使徒の働き 28章1−16節

 昨日の祈祷会では、「みことばの光」のその日の箇所を読み、参加者で分かち合いをしていますが、困難な航海の中で、パウロと同船者たちが次第に絆が深められていったことを皆で確認できました。とても良い時間を共有できました。

 使徒の働きはついに最終章。前半は、船が座礁した所がマルタ島であったこと、島の人々が暖かくもてなしてくれたこと、マムシに噛まれたパウロが死ななかったので人々がパウロを神様だと言い出したこと、長官プブリウスの父はじめ島の病人たちをパウロが癒やしたことが書かれます。パウロの同船者たちはパウロのゆえに、いや、パウロの神ゆえに、マルタで三か月手厚いもてなしを受けたのです。

 このようなことから、「パウロは特別」という声も聞こえてきそうですが、私は、一人のクリスチャンが存在は大きいのだということを考えました。ルカもアリスタルコもいましたので、「わずかなクリスチャンが…」というのが正しいかもしれません。一人だけで、少人数なので…と、ともすると縮こまりがちになる時、マルタでの出来事は勇気を与えてくれます。

 そして、いよいよローマへの最終路。シラクサはシチリア島の港町。余談ですが、ローマからの夜行列車は、連絡船に客車を乗せてシラクサに着きます。一度乗ってみたいと思う列車です。

 パウロはローマからの人々に迎えられ、彼らと一緒にローマに入ります。ローマへの航海はパウロのすごさが際立つように読めるのですが、15節には「パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた」とあります。同船者たちを何度となく勇気づけたパウロも、勇気づけられることが必要だったのだと、安心したのです。


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