みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ともに働き、労する

2013年10月31日 | コリント人への手紙第一
コリント人への手紙第一 16章13-24節

 きょうは宗教改革記念日。およそ半月の旅も終わり、到着した空港から更新しています。
 3年続けて同じ教会の修養会でみことばを届けるという、神さまの御用にあたらせていただきました。
 そして、きょうは読み進めてきたコリント人への手紙第一の締めくくり。
 パウロは、13節から14節において立て続けに命令を与えます。その一つ一つは、この手紙で述べてきたこと。問題の多いコリントの教会を決してあきらめていないことが伝わってきます。

 そして、終わりに登場するのは主にある同労者たちの名前。
 コリント教会で苦闘してきたステパナとポルトナトとアカイコたち。特に、コリントが含まれるアカヤ地方での初穂だったステパナは家族を挙げて、教会に仕えました。神はご自分の教会に必ずこのような人々を置いてくださるのだと改めて思わされます。さらに、パウロたちとともにいるのは、どれもがコリント教会を建て上げるために主が用いられた人々。
 教会は、キリストをかしらとする主にある同労者たちの集まりなのです。

 今回、様々な方とお会いしました。
 その方とお会いするのは3回めです。ほぼ1年ぶりにお会いした時に開口一番、「毎日お祈りしています」とおっしゃいました。その方は病に負けずに力強く前に進んでいます。くしゃみで骨折するほど骨がもろくなっているからと、階段をわざわざ昇り降りし、歩くことを欠かしません。お別れに握手をする際に、微熱が伝わってきました。ああこの方は、いつも病の中にあるのだと感じる瞬間でした。けれども、主はこの方を熱心な奉仕者として、教会になくてならない器として尊く用いておられます。

   

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何に期待するか

2013年10月30日 | コリント人への手紙第一
コリント人への手紙第一 16章1-12節


 ドイツやスイス滞在中も、Wi-Fiが利用できる場所では家族とほぼ毎日、顔と顔とを合わせて会話を続けることができました。子どもの頃、「鉄腕アトム」の中に「テレビ電話」が出てきて、こんなことができるようになるのかしらと信じられないでいたことを思い出しますが、片手で操作できる電話でできるようになったというわけです。

 コリント人への手紙第一も終章まで来ました。きょうの箇所はパウロがそばにいるようです。飢饉のために援助を必要としていたエルサレム教会への献金についての具体的な指示、パウロを始めテモテやアポロのコリント訪問の見通しについて読むと、パウロがコリントの教会に期待し、彼らと共に働きたいと心から願っていたことが伝わってきます。

 ところでパウロは、不確定なことや困難だと思えることについては、「主がお許しになるのなら…」と書いています。自分ではしたいと思うけれども確かではない、だから主に期待し、ゆだねようというのです。
 見通しがつかないけれども主がなんとかしてくださると期待しよう、ダメかもしれないけれども主が進めてくださるかもしれない、このように期待できるのは幸せなことだと思います。

 あすは、駅に荷物を預け、日本語教会の祈祷会に行き、終わったら駅に戻って荷物を受け取って空港に行き、チェックインして予約していた便に乗って帰国するという予定です。そのために、市内電車(トラム)の路線地図をダウンロードし、教会がある近くの停留所を確認するという準備をしました。その通りに行くのか行かないのか、今のところ私にもわかりません。なんとかなるだろうと思っています。そう思わなければ、心配でたまらなくなるでしょう。

 不確かなことがたくさんある中でも、共に主が歩んでくださるという事実が自分を支えていると教えられます。
  
     

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むだでない

2013年10月29日 | コリント人への手紙第一
コリント人への手紙第一 15章50-58節


 スイスからドイツまでの鉄路は、途中まではとても順調に走り、乗り換えもスムーズだったのですが、最後の乗換駅で牽引する機関車が故障して、しばらく止まったままになってしまいました。結局新しい機関車と取り替え、40分ほど遅れて目的地の駅に着きました。
 すべての働きを終えたあとでしたので、40分ぐらいの遅れは全然気になりませんでしたが、慌てて、代わりの列車を探す人なども大勢ありました。私は…、じっと動き出すのを待っていました。

 展開されてきた復活についてのパウロの確信は、いよいよクライマックスです。ここでは、キリストの復活が私たちの究極の勝利と深く結びついていることが語られています。
 死に対する勝利は、死に至らしめるとげがポロリと抜け落ちるさまに例えられています。勝利とは、私たちの努力や英知によって勝ち取るものではなくて、キリストが復活されたことによって勝ち取られたものだということがわかります。「私たちに勝利を与えてくださいました」ということばが印象に残ります。死に対する勝利とは、私たちもまた復活する、変えられるということに基づくものです。

 心に留めるのは、「主にあってむだでない」とのことば。これを、新共同訳聖書では「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」と訳します。
 復活の主、勝利の主と結びついているのならば、何をしてもむだではない、だから動揺することなくいつも主のわざに励むことができるというのです。

 キリストが復活されたことが、私がなすこと、かかわることのすべてに意味を与えるているのだと考えるならば、心を大きく広げ、高く上げることができるように思えます。

   

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愚かな人だ

2013年10月28日 | コリント人への手紙第一
コリント人への手紙第一 15章35-49節


日曜日はどのようにお過ごしになりましたか。
 スイス・チューリッヒ郊外の日本語福音キリスト教会で礼拝を捧げました。一年ぶりです。この教会では、基本的には隔週日曜日に礼拝が持たれています。西から東から、そしてドイツ南部からも礼拝に集まって来られます。「みことばの光」を用いて聖書を読んでおられる方が多くいる教会で、喜んで迎えてくださいました。昨日はイザヤ書54章から「変わらない神の愛」というテーマで宣教しました。
 きょうは、泊めてくださった教会のメンバーのお家からドイツのダルムシュタットに戻ります。鉄道の旅が楽しみです。

 この箇所を読むと、喜びが湧いてきます。
 人はどのように努力しても、やがてからだは朽ちていきます。80歳でエベレスト登頂を果たした冒険家がおられますし、100歳を越えてなお現役のお医者さんもおられますので、「まだまだ!」と叱られそうですが、人間はどんな人でも「死亡率100%」。少しずつ、あっちが痛いとかこっちが悪いなどという話が周りに増えてくるものです。

 しかし、キリスト者には希望があります。むなしい希望ではなくて確かな希望が…。くどいようですが、間違いのない希望です。キリストが初穂として復活されたことが、私たちもやがて天上のからだをいただくという希望の土台です。

 心に留めるのは、「愚かな人だ」というパウロのことば。「どのように…」という疑問を一蹴する力強いことばです。けれども、自分も時に愚かな人だと呼ばれるような心境や態度に至っているのではないだろうかと、問われる一言です。
 キリストが復活していきておられるので、まるで死んでしまい、過去のお方になったような物の見方や人の見方をしていないだろうかと、探られました。

    

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復活がなかったのなら

2013年10月26日 | コリント人への手紙第一
コリント人への手紙第一 15章12-19節


 昨日の午後は、おじゃましているお家でみことばを読みました。「みことばの光」にある「毎日聖書を読む聖書同盟の方法」を用いて、エペソ人への手紙2章1-10節を時間をかけて読んだのです。参加した5人がそれぞれ、5つの項目別に「考える」に取り組み、それぞれが得たことを分かち合いました。
 改めて思ったのは、一人でみことばをいただくのはもちろん素晴らしいひとときですが、分かち合うことでさらに未ことばの豊かさを教えられます。あっという間に2時間が経ってしまいました。

 福音を改めてコリント教会に知らせるパウロは、ここからはキリストがよみがえられたことに焦点を絞って書いていきます。福音の真髄が復活にあるからです。
 キリストがよみがえられなかったならば、「宣教は実質のないもの」「信仰は実質のないもの」だとパウロは話を進めます。キリストが事実復活されたので、教会は福音を力強く伝え、生きておられるキリストに信頼して歩めるのです。

 印象に残るのは、19節の「私たちがこの世にあってキリストに単なる希望をおいているだけなら…」ということば。この世の生活をどのように過ごすかは私たちにとっては決して小さなことではありません。けれども、それだけに望みをおいているのであれば、なんとみじめでむなしいものかを、改めて問いかけられます。

    

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