みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

アハブにとっての真実

2020年06月06日 | 列王記第一

列王記第一 22章1−28節

  「彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言すると。」 列王記第一 22章18節

 金曜日は、数日前の夏を思わせる陽気から一転して肌寒い一日でした。でも雨もたくさん降りましたので、植物にとってはとても良いお湿りになったことでしょう。

 列王記の前半も最後の章。ここは、北王国イスラエルの王アハブと南王国ユダの王ヨシャファテが一緒になってラモテ・ギルアデを奪還するためにアラムと戦おうとする場面です。

 ヨシャファテはユダの王らしく戦いに行くべきか否かについて、主のことばを聞くことをアハブに提案します。そこでアハブが集めたのは400人の言ってみれば「お抱え預言者」。彼らは常に王が好むことを語っていたので、答えは明らかでした。ヨシャファテが欺瞞を見抜いたのはさすがだと思います。

 ヨシャファテの「他に…?」ということばを受けて、アハブはいつも自分に悪いことばかりを預言するミカヤの名前を挙げます。ここで思ったのは、アハブがしらを切って「イスラエルには他に預言者はいない」と言ってもよかったのに、なぜミカヤの名前を持ち出したのだろうかということ。ヨシャファテに圧倒されたのかもしれません。

 しかし、案の定ミカヤはアハブの好むこととは正反対のことばを届けます。18節に「彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言する」というアハブのことばがあります。確かに、こんな人がいたら、気が滅入るかもしれません。でも、悪いことは「悪い」と言ってくれる人がいないのは不幸なこと。また、この箇所からは語る側の動機も問われます。

写真:ユダヤ人街博物館


「わが敵」こそ真の味方

2020年06月05日 | 列王記第一

列王記第一 21章17−29節

おまえは私を見つけたのか。わが敵よ。」 列王記第一 21章20節

 礼拝の再開のために、お借りしている教会を訪ねました。すでに礼拝堂には椅子が間隔をかけて置かれており、7日から礼拝を再開するとのこと。日本語教会の再開はもう少しあとになります。

 アハブは妻イゼベルの悪巧みによって、欲しかったナボテのぶどう畑を手に入れました。16節には、ナボテが死んだと聞いてすぐにアハブがぶどう畑を取り上げに向かったとありますので、よほど欲しかったのだろうと想像してしまいます。

 アハブイゼベル夫妻にとっては、これでめでたしめでたしというはずでしたが、その一部始終をご覧になっている神が二人の罪を放っておくはずはありません。神はエリヤを遣わしてアハブとイゼベルがさばかれることを伝えさせます。神の怒りのことばがアハブに届けられます。

 目に留まるのはエリヤが現れた時のアハブのことば。「おまえは私を見つけたのか、わが敵よ」とは、「どうしておまえは私を見つけたりするんだ!」というように、一番嫌な相手に会ってしまうとは…という思いの表れでしょうか。

 神のことばを直言するエリヤを「わが敵よ」と呼ぶのですが、実はエリヤこそアハブの方向を転換させるための大切なメッセージを運ぶ者、真の味方なのです。

 アハブがこの時、主の前にへりくだったのは神のことばを自分なりに真剣に受け入れたということでしょう。しかし、彼の方向が転換することはなかったのです。


また不機嫌になった王

2020年06月04日 | 列王記第一

列王記第一 21章1−16節

アハブは寝台に横になり、顔を背けて食事もしようとしなかった。」 列王記第一21章4節

 隣町にある、韓国の方が経営する食料品店には、日本のものもたくさん売っています。以前は近くに住む方と隔週に聖書を読んでいたので、その都度訪ねていたのですが、帰国なさってからは回数が減りました。昨年12月に、店主の方が日本語教会の案内(パウチしたもの)を作るのを提案してくださり、本のしおりになるような小さなシールができました、先日訪ねた時、「もっと大きなものを作ろう」と提案してくださったので、昨日デザインを送りました。お客さんがいない時には、お店のレジのところで聖書を読む姿が度々見られます。日本語教会のためにもよく祈ってくださるすてきなご夫妻です。

 きょうの箇所には、アハブとイゼベル夫妻が描かれています。

 神のことばに基づいて、ぶどう畑を売らないと断るナボテのことばに、アハブはまたもや不機嫌になり、激しく怒ります。「寝台に横になり、顔を背けて食事もしようとしなかった」アハブの様子は、思いようにならない駄々っ子のようです。もしかしたらアハブは、「腐ってもイスラエルの王」として神のことばの前に話す術がないと引き下がったのかもしれません。それで、持って行き場のない憤りが王宮での不機嫌、そして食べないという行為に表れたのでしょう。

 そんな時の妻のことばから、二人の力関係を垣間見ることができます。イゼベルはアハブを励ますのです。「あなたは王でしょう。ご飯を食べなさい」と。そして「私がとってあげるわ」と畳み込むように言います。そしてイゼベルは恐ろしい企てを実行するのです。

 欲求を満たすためなら何をしてもよいとするのは、神を知らない人間のおおきな特徴の一つ。この社会は、「あなたの欲求をかなえてあげましょう! 」との誘いに満ちています。


不機嫌になった王

2020年06月03日 | 列王記第一

列王記第一 20章22−43節

イスラエルの王は不機嫌になり…。」列王記第一 20章43節

 博物館シリーズ、今回は「ユダヤ人街博物館 Musium Judengasse」を訪ねました。博物館の場所に、シナゴグ(ユダヤ教の会堂)を中心におよそ3000人以上ののユダヤ人の暮らすヨーロッパで最も古いゲットーがありました。展示室で大きなスペースを占めるのが、五つの建物の跡です。あまり訪ねる人もいなく、ゆっくりと見学できました。

 20章後半には、アラムと北王国イスラエルの戦いとその結果が書かれています。ここを読んで、アハブ王について興味を持つ方は少なくないと思います。

 神のあわれみによってひとまずはアラムを退けたアハブに、預言者は再度アラムが攻め上ってくることを伝えます。事はそのとおりになります。

 興味深いのはアラム王ベン・ハダドの家来たちのことばです。イスラエルの神を「山の神」と言い、平地で戦うことを王に進言しています。ついでですが、「山の神」と言うと日本語にはもう一つ別の意味がありますが、最近は使われなくなったようです。神々がいて、それぞれに得手不得手があるというのは、アラムばかりでなく今も多くの人の神観の一つです。もちろん、神に不得手なことはありません。

 神はアラムの家来たちのことばを皮肉るかのようにして、アフェクでの戦いに勝ちました。そのあとがいけません。

 アハブは敗北して下手に出てきたアラム王のことばに乗せられて、「私の兄弟」と呼びます。このことにアハブの優しさというか甘さを見ることもできるでしょう。けれども、神は予めアハブに「わたしはこの大いなる軍勢をあなたの手に渡す」と言っておられたのに、アラムの王との同盟関係を締結するのです。人の良さそうな感じもするアハブ、しかし、かえってそれが神のことばに従うことから目をそらさせてしまうのです。

 もう一つ、この章最後のことばを目に留めましょう。ここにあるのは、預言者が謎をかけながらアハブのしたことをとがめたときの反応です。不機嫌と激しい怒りです。直言されたことに今風に言えば「キレた」のです。


神のあわれみに気づく

2020年06月02日 | 列王記第一

列王記第一 20章1−21節

こうしてあなたは、わたしが主であることを知る。」 列王記第一 20章13節

 6月を迎えました。新緑が少しずつ色濃くなっています。森の中のサクランボの木には実がたくさん。それはおいしそうに色づき始めていますが、なにせ木は空を突くように高いので上のほうの実は鳥たちのご馳走なのでしょう。

 この箇所は読んでいて不思議な気持ちになります。あのアハブ、つまり北王国イスラエルに妻の力でとは言いながら、バアル礼拝を持ち込んできたあのアハブを、神がことばを語って助け、イスラエルを隣国アラムの脅威から守られたからです。

 鳴り物入りで導入したバアルの神々に、どうしてアハブはこのような危機の時に願わないのでしょうか。それは、カルメル山でのエリヤとバアルとの預言者との対決の結果を見たからでしょう。バアルが無力であることをアハブは知ったのです。

 神はこの時、何故にアハブを助け、アハブに勝利を与えたのでしょう。「アハブよ、悔い改めてバアルを捨てよ。そうするならばあなたを助ける」とは言っておられません。

 それなら助けずにさばきを…と考えるところですが、神はアハブを助けられます。どうして…? まったくこれは、神のあわれみによるとしか説明がつきません。神があわれまれ、勝利を与えられたのはアハブに悔い改めの機会を与えられたと考えられます。しかしアハブは、カルメル山を体験しても、アラムとの勝利を体験しても、神お一人を拝み仕えるという道へは進みません。

 あわれみに気づくこと、それは悔い改めのチャンスなのだということ…。


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