みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

良いことを述べる預言者

2015年06月06日 | 列王記第一

列王記第一 22章1−28節

 

 妻の念願だった布団の打ち直しを、近所の寝具店にお願いしました。木綿の布団は打ち直しがききます。古くなってすっかり陽に焼けた布団側(がわ)も新しくしてもらいます。今月下旬には仕上がるとのことですが、私たちはしばらく使うことはできません。うーむ、残念!

 アラムに奪われたラモテ・ギルアデを奪い返そうと、イスラエル王はユダのヨシャパテを誘います。「イスラエル王」とはアハブのことですが、ここでは名が記されません。殺された後で初めて名前が出てくるのです(39節参照)。なぜユダの王のようには名を記さないのでしょうか。何かの意図があったのかもしれません。

 誘われたヨシャパテはさすが南王国ユダの王。イスラエル王に「まず、主のことばを伺ってみてください」と答えます。そこでイスラエルの王が揃えたのが、自分の都合の良いことだけを語ってくれる「お抱え預言者」。けれども、ヨシャパテはそれを察知したのでしょうか、「みこころを求めることのできる主の預言者がほかにいないの」かとイスラエル王に言います。

 イスラエルの王はしぶしぶミカヤの名を挙げます。アハブはミカヤに「ほんもの」を感じ取っていたのかもしれません。ゼデキヤを初めとする御用預言者が良いことを語るのに引き換え、ミカヤは、イスラエルには王がいなくなる、つまりアハブが殺されると預言して、王の気持ちを逆なでします。

 数日前に、どうしても今度の国会で通過させたい「あの」法案について、政府与党が都合の良いことを言ってもらうために用意した憲法学者が、この法案は憲法違反、問題があると明言したとのことが大きく報じられていました。一部のメディアは「人選ミス」と書いていましたがそうでしょうか。

 「みことばの光」が書くように、自分に都合の良いことを語ってもらいたいとの誘惑は、教会にもあります。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。…というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」テモテへの手紙第二 4章2−4節

 ミカヤとゼデキヤ、どちらが良いことを述べる預言者だったのでしょうか。

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わが敵よ…?

2015年06月05日 | 列王記第一

列王記第一 21章17−29節

 聖書同盟が新しい書籍を出すことになり、編集をしています。

 校正をしておりますと、いろいろなミスを見つけます。特に、原稿をコピーしたあとで、OCR(文字認識)ソフトでテキストデータにした文章には固有のミスが目立ちます。たとえば、「永遠のいのち」となるべき語が「水遠のいのち」と変換される、などということが起きるのです。ところが、それを人は「えいえんのいのち」だと読んでしまうのです。読めてしまうのですから、すごい! ですね。というわけで、誤りを発見する「快感」を味わっています。けれども、「なんだこれ! アハハ」と文章に向かって独り言をつぶやいている姿は、人には見せられません。

 誤りや間違いを発見して、「違いますよ」と誰かに伝えるのは厄介ですね。言われるのもいやですし、言うほうだって気を遣います。アハブがエリヤを「わが敵よ」と言う気持ちも、アハブの立場からしてみたらわからなくもありません。「みことばの光」が書くように、アハブはエリヤから幾度となく嫌な思いをさせられ、面子を潰されているのですから…。

 人は自分のことをあれこれ言う人を避けようとします。悪意で言う人もいるでしょうが、ほんとうにその人のことを思って、嫌なことを言ってくれる人もいます。確かに、敵だと思っていたその人が、実は自分の味方、理解者だったなどということに、後になって気づく場合も多いのです。

 飛躍があるかもしれませんが、次の聖書のことばを心に留めました。

 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」テモテへの手紙第二 4章2—4節

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神に従う人、神を利用する人

2015年06月04日 | 列王記第一

列王記第一 21章1−16節

 梅雨入り前最後のさわやかな晴天になりそうな、今朝の空気です。大きな変化を前にして、いろいろな方と会うことのできる日々をすごしています。何年か前に倒れられた方が、少しずつ回復して原付バイクを運転している姿を見、会話も弾み、嬉しい時を持ちました。

 ナボテが所有するぶどう畑がほしくて、譲ってほしいと願うアハブ王。けれどもナボテは、先祖から譲り受けた地を与えることはあり得ないと断ります。それは、ナボテが意固地だという理由ではありません。「みことばの光」には民数記36章7節が記されていますが、ナボテは神のことばに従って王の願いを断ったのです。

 ほかならぬ王さまの願いだから、神のことばはとりあえず脇において…などという選択肢はナボテにはありません。その結果、ナボテはアハブ王の妻イゼベルの策略によって殺されてしまいます。みことばに従っていのちを落としたのですから、彼は殉教者です。どのような有利な条件を示されても、ナボテは神のことばに基づいて神に従おうとしました。

 ところがイゼベルは、どのような手を打っても夫の欲望を叶えてあげようと、神をさえ利用します。ナボテが「神と王をのろった」というのは全くの冤罪。しかし、神の名を使えばこの民は動くと知ったイゼベルの狡猾(こうかつ)な作戦でした。

 神に従う人と神を利用する人との間に、神を恐れつつ徹底できないアハブ王がいるように映りました。

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全地の神

2015年06月03日 | 列王記第一

列王記第一 20章22−43節

 久しぶりの雨。関東地方も梅雨入り間近ですね。色づき始めた紫陽花が喜んでいることでしょう。

 アラムは体制を整えて再度隣国イスラエル(北王国)への侵攻を企てます。その際の、家来たちのことばに心が留まりました。彼らはイスラエルの主を「山の神」だと考えているのです。だから、平地で戦えば必ず勝てるからと、平地で戦うようにとアラム王ベン・ハダデに進言します。

 「山の神」(日本では別の意味がありますが…)、「海の神」「安産の神」「商売の神」「学業の神」…日本に限らず、神々にはそれぞれに得手があり、固有の御利益(ごりやく)があると考えられているようです。アラムの家来たちのことばから、「全地の主」「全地の神」ということばを思いました。

 主なる神には得意の守備範囲、あるいは不得意分野というものはありません。「全能」なのです。ですから、アラムはイスラエルを平地におびき出して…とあれこれ作戦を講じ武具を備えますが、「あの預言者」の進言はシンプルです。神が「全地の主」「全地の神」だからです。

 「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」詩篇8篇1節

 「まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。」詩篇47篇2節

 「シンプルライフ」とひところ言われましたが、それって「全地の主」に信頼することから始められるのでは…と、ふと思いました。

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「あなただ」

2015年06月02日 | 列王記第一

列王記第一 20章1−21節

 お昼を回転寿司屋さんで食べました。回転寿司というと、駅前にあってお皿がぐるぐる回っていてその中ですしを握っているという光景を想像していたのですが、きのうのお店は違いました。お皿がフタでちゃんと覆われています。注文するとぐるぐるお皿が回っているレーンとは違うレーンに載って「シャーッ」という音とともに特急で到着。しかも、注文したテーブル番号の停止位置にピッタリ止まるのですから面白い…。さらに、周りのテーブルを見ると食べ終った皿がありません。「みんなあんまり食べないんだね」などと言っていると、そうではないのですね。食べ終った皿をテーブル上の回収口に入れるようになっているのでした! しかも、5枚入れると1ゲームできるということのよう…。きっと、4枚皿がたまったのテーブルの子どもは、「あと1枚食べたーい」とおねだりすることでしょうね。目を白黒しながら、「ゲーム」を楽しみました。

 きょうの箇所はゲームではありません。アラムが北王国イスラエルを攻めて来ました。アラム王ベン・ハダデのことばは、「ここまで言うか!」と思えるほど高飛車で自分中心。3節は芝居や冗談で聞けば面白いでしょうが、実際にこのように言われたアハブにとっては、生死を決する深刻なことばとして受け止めざるを得なかったでしょう。しかし、この危機こそ背信の王アハブに神が与えられた回復のチャンスでした。

 預言者のことばに戸惑いつつ、「だれが戦いを仕掛けるのでしょうか」とアハブが尋ねると、「あなただ」と預言者は答えます。「あなただ」ということばに立ち止まってみました。

 アラムを打ち破るために、アハブが選ばれたのです。主に逆らう王を、主がお選びになったのです。驚くような「ご指名」です。しかしよくよく考えると、私たちもそのようにして選ばれたのですね。

 それは、きょうの「みことばの光」が記すように、主はあきらめることをなさらないから、ということなのだと思います。

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