みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

光が照った

2014年09月23日 | イザヤ書
イザヤ書 9章


 普段通っていながらも、気づかないままにいるような場所があり、改めて「こんな所だったのか!」という発見があるときがあります。私の場合は道です。「エッ? この道はあそことつながっていたんだ。ホォー…」という具合に…。幸せな瞬間です。聖書を読み進める際にも、こんな喜びがたくさんあります。

 「みことばの光」が書くように、イザヤ書9章は「メシヤ預言」の箇所であり、クリスマスの時期には必ずといってよいほど読まれています。読むたびに希望と喜びが湧いてきます。教会のクリスマス会で子どもたちが演じる聖誕劇のなかの、羊飼いのせりふを思い起こします。
 「暗い夜だねぇ。」
 「さびしい夜だねぇ。」
 「羊たちはだいじょうぶかな?」
 大きな光が照るとやみが追い払われるのは、一瞬のことです。自然の営みによらなくても、真っ暗な部屋で電灯のスイッチをつけると経験することです。
 そしてこれは、イエスを救い主と心に迎えた多くの人が体験したことではないだろうかと考えます。

 社会がどうすることもできないという中でキリストの福音に多くの人々が耳を傾ける、めちゃめちゃな家庭の中で一人がイエスを迎えることで新しくなるなどということもあります。やみを知らなければ光のありがたさがわからないのだと言えます。
 私も振り返ると、その当時は気づきませんでしたが実はどうすることもできないやみの中にいたのだ、その時にキリストいう大きな光を見たのです。全く人生が変わったのだと、キリスト信者としての数十年を眺め返して思います。

 今回の発見の二つ目は、人の心はなんとかたくななか、ということ。8節から21節に三度繰り返される「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている」ということばが目に留まります。
 
 「黙想」のことばをヒントにして、しばらく静まりましょう。

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