みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

豊かな実りの約束

2021年02月27日 | 民数記

民数記 29章20−40節

 外歩きからの帰り道、バニラ色の花を発見。雨上がりの一枚を写真におさめました。

 「仮庵(かりいお)の祭」が行われる第七の月の頃は、太陽暦では9―10月ごろになり、乾期から雨期への変わり目に当たるとありました。そして昨日も書きましたが、秋に始る暦では新年に当たります。この仮庵の祭を、現代のイスラエルでも覚えられているというのは驚きです。

 今日の箇所では、七日間にわたる仮庵の祭の三日目から八日目に、神にささげるささげ物が記されています。水曜日の祈祷会で、「このささげ物は一人びとりがささげるものなのか」という質問がありました。28―29章のささげ物は、個人によるものではなくて、神の民として選ばれたイスラエルの民全体としてささげるもので、朝夕、安息日ごと、新しい月ごと、そして過越の祭、七週の祭、仮庵の祭の三大祭ごとにささげるべきささげ物のことです。

 これをまとめますと、約束の地に住むことになるイスラエルの民は、毎年113頭の雄牛、32頭の雄羊、1086頭の子羊、13頭の雄やぎ、1トン以上の穀物(小麦)、大量のオリーブ油とぶどう酒をささげることになります。ということは、神は約束の地での彼らの生活を祝福し、豊かな収穫を約束しておられるということが言えます。

 物事の表層だけを見ていると、心が縮こまったり、気が滅入ったりすることがあります。けれども、そのような時に、その出来事に先に神は何を用意しておられるのだろうかという思いを持つことで、私たちの捕え方は違ってくるように思えるのです。

 やはり2月は短かったですね。3月はどのような一か月となるのでしょう。


いかなる仕事も

2021年02月26日 | 民数記

民数記 29章1−19節

 今日も道の話を…。肩の注射を終え、いつもなら地下鉄で真っ直ぐ帰るのですが、買いたいものがあったので中心街の店に歩いて向かいました。スマホアプリの助けを借りてほぼ真っ直ぐに進むと、「なんと、ここに!」という所にたどり着きました。頭の中でちぎれていた道が繋がるという経験をしました。

 29章には、ユダヤ教の三大祭の一つ「仮庵の祭」をどのように覚えるかが主によって定められています。「第七の月」とは春に始まる暦によるもので、秋に始る暦によればこの祭の頃が新年になります。

 この祭はおよそ三週間に亘るもので、ここには第一日にささげるもの、十日目の「宥(なだ)めの日」にささげるもの、そして第十五日から七日間にわたって祭を祝えと命じられています。これが「仮庵の祭」です。

 目に留めるのは、それぞれの節目に当たる日には「いかなる仕事もしてはならない」とあることです。仕事は人にとって大切なものです。農耕者にとってこの時期は、地を耕し種を蒔く時。しかし、どんなに忙しくても主の前に聖なる会合を持つことが優先されます。人が大切、仕事が大切、…などと言われ、それを脇において主を覚えることが後回しにされるということがあるのではないかと、心が探られることばです。


覚え続けること

2021年02月25日 | 民数記

民数記 28章16−31節

 散歩の途中、工事中の狭い道を後ろから自転車が…。脇に避けると、「ありがとう」と大抵の方は礼を言うのですが、昨日はそれに加えて「ありがとう」と日本語で言われました。「日本語で!」と言うと、「ちょっとだけね。さよなら」と言い、乗って行かれました。

 28章前半では、朝ごと、夕ごと、安息日ごと、月ごとにささげ物をささげるようにとの主からのことばを読みましたが、後半には、イスラエルの民が覚える過越(すぎこし)の祭と七週の祭で何を神にささげるのかについての教えが記されています。過越の祭は私たちの暦では3―4月ごろ、七週の祭は5―6月ごろで秋蒔きの小麦の初穂が刈り入れられる頃に行われます。「過越」は、イスラエルの民が奴隷の家エジプトを脱出する際に神がエジプトをさばかれた時、鴨居と門柱に子羊の血が塗られたイスラエルの家へのわざわいは過ぎ越されたことからこの名があります。

 そして、過越の祭はイエスの十字架、七週の祭は聖霊が弟子たちに臨まれたペンテコステに重なります。今日の「みことばの光」には、この二つをイスラエルの民が覚えるのは、自分たちが神によって救われたことを忘れないことと、約束の地での収穫を経験した時に自分たちの力で成し遂げたのではなく、神が収穫の恵みを与えてくださったことを忘れないという意味があると説いています。

 形あることを行い続けるというのは、それ自体が大切なのではなく、大切なことを忘れないためです。


日ごと、週ごと、月ごとに

2021年02月24日 | 民数記

民数記 28章1−15節

 散歩コースの一つに「アイスカフェ」があります。このところずっとシャッターを下ろしていたのですが、張り紙を見ていた男の子につられて見てみると…。28日からオープンとありました。春が来ました。

 28−29章には、イスラエルの人々の主へのささげ物のことが書かれています。そのはじめは、日ごと、安息日ごと、そして新しい月を迎えるごとの全焼のささげ物です。これら全焼のささげ物は、祭壇で内臓を除いてはすべて焼き尽くされるもので、ささげる者たちが自分たちを神のものだと言い表し、神にささげるとの姿勢を具体的に表すものです。

 これだけしょっちゅう神への献身を新たにするのは、自分が神のものなのだということを忘れてはならないという意味があります。傷のないもの、再良質のものをささげるのは、きよい神の前のささげ物としてそれだけがふさわしいからです。

 このような箇所を読むと、「献げることばかり」と思うかもしれません。けれども、ささげるように命じられているものはもともと、神が彼らにお与えになったもの。その一部を神のものとして献げるというと考えるならば、それこそ、もったいないなどと考えるはずはありません。

 日ごと、週ごと、月ごとに神にささげる、これを私たちの信仰の歩みに照らしてみると、神をほめたたえ、感謝し、神への献身を新たにしていつも歩めということ。


聴き続ける指導者

2021年02月23日 | 民数記

民数記 27章

 お友だちから乾燥蓬(よもぎ)をおすそ分けしていただきました。お友だちのまたお友だちが日本で採られたものとのことです。そう言えばこの時期、小川のそばなどに出ている蓬の葉を摘んだことでした。あれこれ想像しているとふきのとうの味を脳が思い出させてくれたのでびっくり。

 27章には二つの大きな出来事が書いてあります。一つはツェロフハデの娘たちの願いを主が聞き入れてくださったこと、二つ目は民を約束の地に導き入れるために、神がモーセの後継者としてヨシュアを立てると言われたことです。16−17節の祈りを感動をもって聴きました。教会であれどのような組織であれ、働きを受け継ぐ人材をどのように選び、誰にするかは大切な課題。この地で間もなくいのちを終えようとしているモーセは、このように祈ったのです。

 二つの出来事に共通しているのは、どちらもモーセが主に祈ったことを神が聞かれて実現したということです。モーセはこの時120歳、イスラエルの指導者として神がお立てになって40年が経っていました。しかし、これほどの経験を積んでもなおモーセは神に祈り求め、そして神のことばを聴いて従い続けているのです。

 何歳になったから、何年たったからもう神に聴かなくてもできる、神に祈らなくても大丈夫などということは決してありえない、ということに改めて気づきます。

*散歩コースの一つにあるロシア正教会の会堂


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