みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

愛に応えて

2015年01月31日 | レビ記

レビ記 11章29—47節

 1月はきょうで終わり。私にはいろいろなことがぎゅっと詰まったような一ヶ月でした。当地の雪は昼過ぎには雨に変り、夕方にはほとんど消えてしまいました。でも、今朝の朝歩きは要注意。まだ湿っている道の中には凍っている場所もあり、ツルっと滑りました。

 11章後半には、地に群生するものが死んだ場合の留意点、食用として買っている動物が死んだ場合に留意すべきこと、そして地に群生するものを食べてはならないとの命令が記されます。死んだ生き物が落ちた器(食器)やかまどを粉々に砕くなどとの指示からは、死んだ生き物に発生する何らかの菌の伝染を防ぐという理由があったのかもしれません。神は私たちの肉体の健康に配慮しておられるのです。

 「聖なる者となりなさい」ということばに目が留まります。しかも、「わたしが聖であるから」と主はおっしゃいます。「前後の関係から考えれば、汚れたものだと神がお定めになったものに触れたり食べたりして身を汚さないということ。それによって、イスラエルは神が聖いお方だということをその身をもって現すということでしょう。

 主は「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから」ともおっしゃっています。神はこの民を愛しあわれんで、あの奴隷の国から連れ出してくださったのです。この愛に応えて、彼らは聖なるものとなるとの求めに応えます。自分がどこから救い出されたのかを忘れずにいることが、神のことばに従おうとすることの動機なのだ、ということを覚えました。

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あなたがたには

2015年01月30日 | レビ記

レビ記 11章

 早朝の祈祷会が始まる頃からちらちらと舞っていた雪が今も降っています。本格的になってきたようです。暦ではあと少しで春の到来ですが、実際にはまだまだ、という感じがします。お住まいの所はいかがですか。

 レビ記11章から15章に題をつけると、「きよくないものときよくないもの」となるでしょうか。そして、その初めに、食べ物の「きよいものときよくないもの」についての区別があります。イスラエルの民にとって、聖い神に選ばれたにふさわしくきよくあるということは、漠然としたものではなく、礼拝という儀式の中でのことばかりではなくて、食べたり飲んだりという生活の基本においても意識すべきだというのでしょう。

 ハリソンという注解者はきよい生き物と汚れた生き物の区別が律法に記されていることについて考えられている3つの理由を紹介しています。第1は、カナンや周辺に住む人々の宗教儀式とは似ないようにということだったとの理由です。2つめは、食べることにおいてもイスラエルの民がカナンや周辺に住む人々とは一線を画するものだという理由。そして第3は「みことばの光」が書くように、健康あるいは食品衛生上の配慮だとしています。

 この箇所に何度も繰り返されているのは「あなたがたには」ということば。ほかの民はどうであったとしても、あなたがたにはこうだ、という強調がなされているように思えます。違った宗教、違った生活習慣を持つ人々とともに生活するのは、昔も今もストレスですし、摩擦の要因です。だからといって、大切にしているものを踏みにじったり、引っ込めたりはできません。そしてキリスト者ならば、どのようにしてキリストが救い主だということを証ししていくかという課題です。

 「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」とのパウロのことばを覚えます(コリント人への手紙第一 10章31節)。

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黙っていた

2015年01月29日 | レビ記

レビ記 10章

 祭司の任職の規程の終わりには、大祭司の子どもたちが主に撃たれるという衝撃的な事件が記されます。アロンの息子たちのうち、ナダブとアビフとが主に命じられなかった異なった火を主の前にささげたのです。

 「その上に香を盛り」と1節にあります。聖所の香壇で火がささげられるときには、祭壇で全焼のいけにえを焼いた火を用いるべきでしたが、二人はそうしませんでした。また、彼らが会見の天幕の中の奥まった至聖所の垂れ幕の前にある香壇で、この火をささげたのであれば、大祭司がするべき務めを奪い取ったということになります。

 「アロンは黙っていた」ということばを目に留めました。アロンは突然の二人の息子の死に、しかも神によって打たれたことに大きな衝撃を受けたのは間違いありません。しかし、アロンはモーセが神の聖さについて解くことばに、何の反論もすることなく、自分を正当化することなく、ただ黙っていたのです。

 神のことばによって、自分の罪が示され、プライドがずたずたにされるような時もあります。あれこれと言い訳を用意し、「それは…」「これは…」と言ってみようとする誘惑はいつもあります。へりくだって神のことばに聴き、従うことの肝要を「黙っていた」ということばから考えるのです。

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見て、叫び、ひれ伏した

2015年01月28日 | レビ記

レビ記 9章

 きのうのお昼は外でいただきました。メニューは「インドカリー」。新宿が本店のこのお店、さいたまにも支店があったのです。久しぶりの「インドカリー」でした。 以前は本店だと粉チーズがあったけど…今はないのでしょうか。 そして家での夕食。なんと「ライスカレー」! お昼の「インドカリー」がまだお腹のどこかに滞在しているような感じだったので、パスさせてもらいました。

 「八日目になって」というのは、8章33ー36節によるならばアロンの任職の期間が完了したということです。いよいよアロンと子どもたちの祭司としての務めがスタートしたのです。大祭司アロンは務めの初めに自分のために罪のためのいけにえと全焼のいけにえとをささげ、それから民のためのささげ物をささげました。

 24節の「主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した」ということばが心に留まります。モーセは民に「こうして主の栄光があなたがたに現れるため」だと言いました(6節)。その通りに、主の栄光が民全体に現れたのです。それが、主の前から火が出て来て一瞬のうちにささげ物を焼き尽くすということでした。

 新約聖書時代の私たちは、主イエスの十字架ゆえに、大胆に神の前に出ることが許されています。はたして、主の栄光が現れるとはどのようなことか、主の栄光が今も自分たちの前に現れることに気づくかを問われます。そして、「見て、叫び、ひれ伏す」礼拝者でありたい、です。

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耳に、手に、足に…

2015年01月27日 | レビ記

レビ記 8章14−36節

 きのう、朝に旧友から電話が…。近くに住むのになかなか会えないでいました。ある用件で会いたいとのことで、早速午後に時間を共にすることができました。良い時間を過ごせました。その友の課題としていることがを神がお許しになり、実現するように祈ります。

 大祭司と祭司の任職についての具体的な規定が、この章の後半に続いています。

 任職のために罪のためのいけにえが、そして全焼のいけにえがささげられます。それから、任職の雄羊がほふられ、その血がアロンの右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗られます。子どもたちにも同じようにされます。そのあとで、手のひらに載せられた雄羊の脂肪全部とパンの一部とを奉献物として主に向かって、アロンと子どもたちが揺り動かすのです。

 「みことばの光」は、右の耳たぶ、右の親指、右足の親指に雄羊の血が塗られることについて、「右はもっぱら神のみことばを聞き、世俗の情報から保護されるように、手はその働きがきよめられ神のみわざに携わっていくように、足は神の戒めを富美行って生活が守られるように、聖別された」と解きます。

 何を聞くか、何を手がけているか、どこに向かっていこうとしているか、こころを探られる箇所です。

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