みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

国々の中で

2016年03月31日 | 詩篇

詩篇 96篇

 イースター休みに行ったマールブルクは、「大学の町」として知られています。市内には大学の建物(校舎、研究所、学生寮…)が散在していますが、神学研究の建物の隣にあるのが「大学教会」。説教壇のすぐそばに「子どもコーナー」がありました。神のことばが宣教される所に最も近くに子どもたちが座っているという在り方に感動しました。

 詩篇96篇も礼拝のための招きのことばとしてよく読まれることばです。今回の通読で目に留まったのは、「国々」ということばが5回用いられていることです。主の栄光を国々の中で語り告げよとの命令、そして国々に対しては栄光と力を主にささげよと命令され、主の民とされた者は国々の中で主は王であると言えと命じられ、主がやがて国々の民をさばかれるお方だとして歌われています。

 主の恵みとあわれみによって、主の民とされた私たちが縮こまることなく、主を国々の王として宣べ伝えるようにとの励ましに満ちた詩篇です。「みことばの光」が書くように、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という復活の主イエスの宣教大命令に従う者でありたいと願います。

*子どもコーナーの写真:左は説教壇です


何よりも礼拝が…

2016年03月30日 | 詩篇

詩篇95篇

 いろいろなことが身の回りに起きます。緊急の祈りの要請が飛び込んでくることもあります。急に何かが起こったなら、「これは大変!」「どうしよう」とあれこれと手を打とうとするのですが。詩篇95篇を読んで思うのは、神への礼拝が、神への賛美と感謝が、何よりも先に来なければ…ということです。

 この詩篇には私たちにとって神はどのようなお方なのかということが歌われています。何よりもまず礼拝…の理由がここにあると思うのです。一つは神は私たちを造られたお方だということです。私たちは神によって生きている、生かされているのです。もう一つが、私たちは牧場の羊だということです。飼われている、養われているのです。

 がんばっているから今があると思いやすいのですが、「私たちは、その牧場の民、その御手の羊である」とのことばは、そうではないことを知らせてくれます。

 ですから、何よりも創造主であり、飼い主なる主を礼拝することが、私たちにとって真っ先にくることなのだと教えられます。

 


思い煩いが増すときに

2016年03月29日 | 詩篇

詩篇 94篇

 イースター休みの月曜日は、マールブルクという町を訪ねました。ここは、1529年にルターとツヴィングリが聖餐をめぐって論争が行われた所として知られています。町の高台にそびえるマールブルク方伯城が会場となった場所。現在は博物館になっています。写真は、ルターとツヴィングリの聖餐論争の場面を絵画に描いたものです。

 詩篇94篇は「復讐の神よ。光を放ってください」という、ドキッとするようなことばで始まります。これに限らず、詩篇の中には、神にしか申し上げられないような「ハラハラするような」ことばがあちこちに見られます。それだけ、詩篇作者と神との距離の近さ、親しさを感じさせると言えるのかもしれません。

 作者は、自分に悪を行う者に悩み、しかし、復讐を神にゆだねて祈っています。「みことばの光」には、「ほかから受けた理不尽な仕打ちに対して、人は復讐を考える」とあります。「復讐」という人生の一大事を抱える場合もあるかもしれませんが、自動車を運転していて乱暴な車にあおられた時に、一瞬抜き返そうかとかなどという気持ちに支配されることがあります。「いつかあの車、事故を起こすよ」などと口走ってしまうのは、怒りの収め方としてはどうなのでしょう。相手の不幸を願うということであれば、やはり復讐心の発露でしょう。

 思い煩いが増す時には十字架の主イエスをおぼえるということを、日曜日の「メサイヤ」オペラ版を観ながら思ったことでした。

*立って指でテーブルを指しているのがルター、その右がツヴィングリです。


偉大さを証しする

2016年03月28日 | 詩篇

詩篇 93篇

 きのうは、いろいろなことがありました。

 まず、夏時間になったことです。きのうから時間が1時間進み、日本との時差は 7時間になりました。我が家の時計の多くは電波時計なので、朝起きてみたら自動的に夏時間が表示されていました。ですから、特に体調に変化なし…でした。

 次は、もちろんイースター(復活日)でした。教会では「イースターファミリー礼拝」を持ちました。以前にも書きましたが、この時期は旅行する方や一時帰国する方が多いのでおいでになるのは少ないだろうと思って、いざふたを開けてみたら普段よりも多くの方が礼拝においでになりました。礼拝の後、子どもたちは「イースタークイズ」に真剣に取り組んでいました。

 三つ目は、礼拝の後「メサイヤ」のオペラ公演を観に行ったことです。現代劇ふうに脚色された「メサイヤ」でしたが、みことばが心に響いてくるすばらしい公演でした。イースターにこのような公演を鑑賞することができるなんて夢のようです。本当に充実した日曜日でした。

 こんなふうに書いてきましたら、肝心のみことばの欄がだいぶ少なくなりました。93篇、そしてきょうの「みことばの光」から考えたのは、神は自然によってご自分の力や輝きを表しておられるということです。この詩篇には、川の流れる音、海の波の音などによって神の力が明らかにされているとありましたが、私は、今時の公園を歩いていて、絶えることなく聞こえてくるいろいろな鳥の声によって、神のみわざを覚えます。

 きのうの礼拝での賛美の一つの歌詞は、次のようでした。「遠くで家畜の声が聞こえると、近くで小鳥が何か歌い出す。わたしたちも 春の喜びを歌おう。春を造られた 神さまを歌おう」(新聖歌477より)


墓にいた人々

2016年03月26日 | 受難と復活

マタイの福音書 27章57—66節

 Karfreitag(聖金曜日、グッドフライデー)祝日のきのうは、あいにくの雨。家で一日を過ごしました。普段できなかったことがはかどりました。でも、これでは休みではありません…。けれども、主イエスが十字架につけられた日が休みで、街も静かなので、ハイドンの「十字架上の七つのことば」を聴きつつ、十字架を覚える幸いな日となりました。

 きょうの箇所は、十字架で息を引き取った主イエスのからだを、アリマタヤのヨセフが引き取り、自分の墓に埋葬する場面から始まります。ここに登場するのは、アリマタヤのヨセフとマグダラのマリヤとほかのマリヤ、そしてイエスのからだを盗まれないようにと対処する人々です。十一人の弟子たちがここにないのが印象に残ります。イエスの埋葬にかかわったのは、自分がイエスの弟子であることを隠していた者であり、それを見ていたのは女たちでした。また、祭司長とパリサイ人たちが願ったことで、墓はイエスの「敵」たちの手で「守られる」ことになりました。

 ここにはペテロたちの姿はありません。埋葬と墓の番を彼らがしなかった、いや、できなかったことは、日曜の朝に起ころうとしていることについて、神が備えておられることの一つだったと思うのです。イエスの十字架と埋葬、そして復活のために、神はいろいろな「伏兵」を用いておられるだということが印象に残ります。

 すばらしいイースターをお迎えください。


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