みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

「滅ぼすな」という調べ

2024年08月31日 | 詩篇

詩篇 58篇

 8月最後の日が土曜日。私たちのために祈り支えてくださる日本の教会では、明日から新しい会堂での礼拝が持たれます。送られてきた写真を見ると夢のよう。パイプオルガンも新しい会堂での礼拝に間に合いました。子どもたち(私たちにとっては孫たち)も礼拝を心待ちにしています。私たちも…。

 詩篇58篇のはじめの部分(表題)に二つの不思議なことばが並びます。そのうちの一つは「『滅ぼすな』の調べで」。57篇、58篇、59篇そして75篇のはじめにも置かれています。このような調べがあり、それに合わせてこの詩が歌われたのでしょう。

 なぜそれがが「滅ぼすな」というタイトルなのでしょうか。諸説ありますが、ダビデの人生とのつながりで「滅ぼすな」を思わせる出来事は何でしょう。逃亡中のダビデがハキラの丘という場所で、サウル王を殺害するべきだと提案する勇士の一人アビシャイに、ダビデが「殺してはならない」とたしなめたことがありました。これと関係がある調べだという説があるとのことです。

 さて本篇では、正しい人と悪しき者とが並んでいます。ここで悪しき者は人々をさばく立場にいます。しかしダビデは問うのです。悪しき者にはできない、と。さらにダビデは悪しき者の歯を、牙を折ってくださいと神に強く願います。

 ここには悪しき者の支配に虐げられている「正しい人」の苦境が窺えます。ダビデがその人です。彼はこの世にあっては正しい人が顧みられず、悪しき者が大手を振っているという現実を見ながらも、神は正しい人にふさわしい報いをくださると信じるのです。

 「滅ぼすな」には、悪しき者のさばきを神にゆだねるという意味もあるのかもしれないと、考えました。


主が心を動かす祈り

2024年08月30日 | サムエル記第二

サムエル記第二 24章

 昨日はこの夏一番の暑さ。仕事部屋はわが家で最も気温の高い場所で、一時台所に「避難」しました。夕食後にスーパーに西瓜を買いに行きました。暑い時には西瓜が一番ですね。あと数日30度越えが続くとの予報です。

 サムエル記の最終章を読むと、ちょっと混乱します。1節は、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がりということばから始まります。「再び」というのは、21−24章が交差構造であるのを踏まえるならば、21章1−14節の出来事を前提にしていると考えられます。

 次に、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がったのでダビデは人口を数えたのか、それともダビデが人口を数えたので主の怒りがイスラエルに対して燃え上がったのかという疑問もあります。

 私は後者ではないかと考えます。しかし、主がイスラエルへの怒りを発せられたのでダビデはふと人口を数えることを思い立ったという可能性も残ります。並行記事の歴代誌第一、21章1節には「サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした」と記します。

 しかし、どちらかが事実ではないという結論は出せません。サタンは神の許しによって働くのですから、サムエル記、歴代誌とも矛盾した記述ではないのです。

 さらなる疑問は、人口を数えることのどこが罪なのかということです。別の箇所では主ご自身が人口を数えよと命じておられます。ですから、人口を数えること事態が主の怒りを招いたのではなく、ダビデがこの時どのようないとで人口を数えよと命じたのかということに、主は目を留めておられるのです。

 事実、人口調査の報告を聞いたダビデは、「良心のとがめを感じ」、「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました」と主に申し上げています。ここから、ダビデが悪しき動機で人口を数えたことが分かります。それは、高慢という罪です。

 主の怒りにはさばきが伴います。ダビデは主の3つの提案のうちの一つを選び、王として大変に厳しい罰に甘んじなければなりませんでした。それは主ご自身が「もう十分だ」と言われるほどのものでした。

 最後の部分には、21章の14節と同じことばが置かれています。罪の悔い改めの祈りが為されることに主は心を動かされたのです。本書が「イスラエルへの主の罰は終わった」で終わるのは、この書にふさわしいことなのだと思いました。


ヒッタイト人ウリヤ

2024年08月29日 | サムエル記第二

サムエル記第二 23章8―39節

 編集していた「みことばの光」11月号がほぼ仕上がりつつあります。3か月先、「みことばの光」では詩篇とイザヤ書を読みます。読みごたえのある月です。

 数日前に、21―24章の構造を書きました。ここでは21章15−22節と交差的にダビデに仕えた勇士たちのことが紹介され、ここでは特に「三勇士」ヨシェブ・バシェベテ、エルアザル、シャンマの活躍の様子を記しています。

 ペリシテ人との戦いにおいて、彼らは超人的な力を発揮しました。8節や10節、12節にはそれぞれがどのように戦ったのかが印象的に描かれます。それでもサムエル記の著者は、彼らの大きな貢献を記しつつ「主は大勝利をもたらされた」とまとめます。

 目に留まるのは39節。ここに「ヒッタイト人ウリヤ」の名があります。彼はダビデが関係を持ったバテ・シェバの夫。ダビデ王に忠実に仕えながらも、ダビデの罪に巻き込まれるようにして殺されてしまいました。ダビデは自分のために使えた勇士の一人のいのちを奪ったのです。

 クリスチャン、教会が陥りやすい課題が、この箇所から明らかになります。それは、「神がなさること」「神がなさったこと」だからといって、人への感謝を怠ることです。そのような歪んだ姿勢がしばしば、クリスチャンでない方々をつまずかせるというようなことが起こります。よくしていただいたら、「ありがとう」と言うべきです。それが神を崇めないことになるなどということはありません。


ダビデを通して語られたことば

2024年08月28日 | サムエル記第二

サムエル記第二 23章1−7節

 8月が終わろうとしていますが、当地では今日と明日最後の真夏日が予想されています。何となく名残惜しいような気がします。

 この箇所は、「これはダビデの最後のことばである」で始まります。これを読んですぐに考えたのは、さて、自分は人生の最後に何を語るだろうかということです。昨日の家庭集会で「私は10年後に生きているのだろうかと考えることがある」と話しましたら、ほぼ同年齢の方は「毎日のように考えている」と言っておられました。

 サムエル記の著者はダビデについて四つのことを紹介しています。誰の子か、神によって上げられた、神に油注がれた、そしてイスラエルの歌の歌い手が、それです。これは、ダビデの人生をまとめているとも言えます。ここでも、神は私の人生をどのようにご覧になるのかとの思いが湧いてきます。

 2節に「主の霊は私を通して語り」とあるように、ここでのダビデのことばは神がダビデに授けられたものです。

 3節は神がダビデに言われたことば、油注がれたダビデに求められたことが確認されています。王として人を治めるのに必須なのは、神の義をもって治めること、彼自身が神を恐れて治めることです。自分の勝手な義を振りかざすのではなくて王が人を治める規準は神の義です。そして治める者自身がが神を恐れることが求められています。

 そしてこれは、ダビデがそうであったということとともに、いやむしろ、やがて来られる「王」にこそふさわしいことばなのだと、読み返す中で思うようになります。


神、その道は完全

2024年08月27日 | サムエル記第二

サムエル記第二 22章26−51節

 久しぶりに隣町にある韓国食材店を訪ねました。今回はお米やみりん、蕎麦(そば)、乾燥椎茸などを購入。いつも教会の案内を、お店入り口の一番目立つ場所に貼っていただいています。

 昨日も書きましたが、ダビデの賛美の後半は、詩篇18篇25−50節とほぼ同じですが、サムエル記の終わりにあることで、ダビデの人生との絡みで味わうことができると思います。

 この部分には、取り出して壁に貼っておきたいと思うことばがいくつもあります。

 たとえば、26―28節です。ここでダビデは、主が自分のすべてを知っておられるということ、知っておられるだけでなく、その人にふさわしく扱うお方であると歌っています。

 この詩は、「主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に」 ダビデによって歌われたものとあります。振り返るなら、ダビデはサウルから26―28節とは全く違う扱いを受けました。それではダビデ自身はここで歌われているような生き方をしたかというならば、そうではありません。

 彼は自分のいのちをしつこく狙う王から逃れながら、主についてのこの真理を何度口ずさんだことだろうかと想像しますし、自分がここで歌われる人としてのあり方から逸れるようなことがあった時も、このことばに蓋をしないで口ずさむことで、このような主を覚えることで生き延びることができたと思うのです。

 神は守ると約束されたらそのようになさる方、助けると約束されたらそうなさる方、勝利すると約束されたらそれを実現させてくださるお方。それが31節のことばです。

 「神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて身を避ける者の盾。」これは、一般論ではありません。ダビデ自身の人生で味わった一つ一つを通して知った神についての真理。そしてこの神は、私にも、私たちにとっても変わらないお方なのです。

 そうだとしたら、このお方を賛美しないという道はありません。


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