みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

聞きたいことば、語りたいことば

2012年08月31日 | エゼキエル書
エゼキエル書13章


 真贋(しんがん)を見分け、鑑定をするテレビ番組があります。収集家が高値で買った壺が二束三文でがっくり…とか、蔵の中にしまい込んであった玩具が何百万との鑑定でびっくり…などと、こちら側はおもしろおかしく見ているのですが、本物だと信じていたのに偽物だと鑑定された人の心中はどのようなものなのでしょうか。

 「エルサレムはだいじょうぶ、必ず守られる」と信じていた人たちは、その確信に沿って「だいじょうぶ」「安心しなさい」と語ってくれる預言者の声を聞いたことでしょう。
 神は、「自分の心のままに預言する」預言者たちへの厳しいさばきを宣告しておられます。エルサレムは神にそむいたので必ず滅ぼされると、エレミヤやエゼキエルは語りました。人々が聞きたいとは思わないことばです。

 昨日、南海トラフ大地震の被害予測について書きましたが、甚大な被害が予想されている場所に住む人々の中には、「何をしてもむだだ」というあきらめムードをもっている人もいると報じられていました。
 確かに、大きな被害が予想されると脅すだけでは、片手落ち。人々に恐怖心やあきらめを引き起こすばかりです。だから、このような対策を講じましょうとあって初めて、立ち向かっていこうとする思いを抱くのだと思います。

 大変なことには口を閉ざし、聞いてもらいやすいことだけを話すという動機から、偽りの預言者は必要とされたとも言えます。「みことばの光」の「祈ろう」に取り組んでみましょう。






必ず成就する

2012年08月30日 | エゼキエル書
エゼキエル書12章


 朝刊トップには、マグニチュード9.1という規模で南海トラフ地震が起こった場合の被害想定が、「最悪32万人死亡」と踊っていました。昨年の東日本大震災を経て、改めて想定し直した結果とのことでした。
 驚くような被害想定です。場所によっては最大34メートルの津波が押し寄せるというのです。昨年は「未曾有」「想定外」ということばが飛び交っていましたが、このような記事を読むと、大惨事の予測が現実味を帯びてきます。高をくくってはいられません。

 エルサレムに住む人々の中には、「エルサレムは絶対に陥落しない。なぜならここには主の宮があり、主が守っておられるからだ」と信じている人々がいました。しかし主は、そんな彼らを「反逆の家」だと言われます。

 神は、彼らが間違った安心を捨てて危機感を持ち、罪を悔い改めてご自分のもとに帰って来るように、多くの預言者を用いて語ってこられました。エゼキエルもその一人です。
 
 神はことばによって、そして預言者の生活や行動によっても、エルサレムに迫り来る危機を伝えようとされました。「荷物を背負って壁を破って出て行く様子」はエルサレムが敵に破られて、王が捕囚の民の一人として、何も見ることも許されずに出て行くことを預言しています。これはゼデキヤ王において実現しました。
 また、「震えながらパンを食べ、おののきながら水を飲め」という預言者の仕草について、軍隊や戦車の地響きがする恐ろしさにおののきながら、パンを食べ水を飲むようになるとの解説もありました。

 「そんなことは起こらない」「まだずっと先だ」と高をくくっていた反逆の家イスラエル。しかし神は、それはすぐに来るのだ、必ず成就するのだときっぱり否定しておられます。

 神のことばは必ず成就する、と信じています。高をくくってはいられません。



 


石の心ではなく肉の心を

2012年08月29日 | エゼキエル書
エゼキエル書11章


 報告が遅くなりましたが、土曜日の少年野球大会の結果です。残念ながら今回も我がチームは二連敗。ここ三年間ずっと連敗が続いています。けれども監督は言っていました。「今回のは、価値ある敗北でした。」負け惜しみではなくて、チームとしてのまとまりができつつあることを、勝ち負けよりも評価できると言っていました。
 今度こそ! と期待が膨らみます。希望を感じる監督コメントでした。

 神に罪を犯したことを、あるべき仕方で始末することなく、自分たちはまだ生き残っているからこの町は大丈夫だとむなしい希望を持っている指導者たちのことばが、「家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ」です。これは、火が燃えさかってもなべを溶かすことはできない。北からバビロンがやって来てもこの町は滅びない。我々はそのようななべの中の肉のようなものだから大丈夫だ、という意味なのだそうです。

 しかし神は、指導者の一人を打つという仕方で彼らの希望を打ち砕きます。
 町が破壊され人々が捕囚されるという、あるべき仕方で責任がとられなければ、真の再生がないと、主は言われるのです。

 神は罪を悔い改め、罪に悲しみ、大切なものを失ったと嘆く者たちに、希望を与えられます。彼らが再びこの町に戻るという約束、その際には偶像を取り除くとの約束、石の心ではなく肉の心を与えるとの約束、民は神のことばに従って歩むので、彼らは主の民、主は彼らの神となるという約束が次々と示されています。

 だから、この時イスラエルの民がなすべきは、指導者も民も、罪を悔い改めて神に帰ることだったのです。
 私たちも、いろいろな出来事があってごちゃごちゃしてしまうと、何から手をつけたらよいのかがわからなくなります。まず何を! と考えさせられます。
 



ここにも主が

2012年08月28日 | エゼキエル書
エゼキエル書10章


 関わりのある法人の変更登記のために、県庁所在地まで出かけてきました。
 少し前までは、「暑いぞ! 」とアピールして街おこしをしている隣の市の法務局まで行けばよかったのですが、統合という理由でしょうか。そのようになってしまいました。
 ずっと前は、我が町にも法務局の出張所があって受け付けてくれたと聞きますので、ずいぶんと遠くに行ってしまったなぁ、不便になってしまったというのが実感です。
 二つの変更登記申請のために出かけたのですが、一度では済まずに、もう一度出かけることになってしまいました。フーッ。

 預言者エゼキエルは、神の臨在とともにいるケルビムを再び見ます。ちなみに「ケルビム」は「ケルブ」の複数形です。ケルブはエルサレムの街を火で焼くという神のさばきを実行しようとしています。さらに、ケルビムは主の栄光とともにエルサレムの神の宮から離れていこうとしている様子をも見ます。
 
 「みことばの光」には、神の臨在と栄光は場所に縛られることがないとの一言があります。思えば、エゼキエルは最初に、バビロンでケルビムを見たのです。神の栄光はエルサレムの宮にのみあるはず…というのがエゼキエルを含めて多くのイスラエルの民の確信でした。ところが神の栄光は異国にあっても現されるのです。

 「今、この場所に神の臨在があることを想像してみよう」との勧めを受け止めて、一日を過ごしたいと思います。

 


すべてではない

2012年08月27日 | エゼキエル書
エゼキエル書9章


 日曜日の午後、二つの大きな出来事がありました。まずは教会のファミリーキャンプの再会日としてもたれた「かき氷大会」。猛暑の中で、本格的なかき氷機二台を使って次々に削られていく氷に、いちごやメロン、レモン、そしてブルーハワイを好きなだけかけます。さらに練乳、ゆで小豆…。みんなたくさんおかわりしていましたけれども、お腹はだいじょうぶだったかな? 
 発見したのは、かき氷のためのシロップはやはり、毒々しくても舌が赤くなったり青くなったりするもののほうがうまい! ということでした。市販のシロップは上品すぎるのです。
 
 二つ目の出来事は、関わりのある特定非営利活動法人が計画しているグループホームについて、建設予定地のご近所の皆様のため開催した説明会でした。暑い中参加してくださって、率直なご意見を数多く頂戴しました。建設に向けて一歩ずつ進んでいるのは感謝です。

 エルサレムにさばきの鉄槌(てっつい)が下されました。しかし、それに先だって亜麻布の衣を着、書記の筆入れをもった者が、この町で行われているすべての忌みきらうべきことのために嘆き悲しんでいる人々の額に、しるしをつけて回りました。何が何でもこの町を破壊しすんでいるすべての者をさばかれるということではなくて、わずかであってもそこに住む「残りの者」「義人」の存在を神はお認めになり、彼らをさばきから免れさせようとなさったのです。

 よく「アメリカ人は…だ」とか「日本人は…」などという論調を見聞きします。何でもひとまとめにして色づけすれば、話はわかりやすく簡単なので、このような言い回しが受け入れやすいのでしょう。けれども、必ずしもそうとばかりは言えない、というのがこの社会。すべてではない、のです。

 「主はこの国を見捨てられた。主は見ておられない」というのが、隠れて偶像を拝む者たちの理屈でした(8章)。けれども、主は見捨ててはおられず、一人一人をよくご覧になっているのだということを、エルサレムを行き巡る書記の行動は示しているのだと思いました。






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