みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

生きる限り主を

2017年03月31日 | 詩篇

詩篇 116、117篇

 隔週の木曜日に聖書をいっしょに読んでいる方が、イエスを主と心に迎えました。神の子どもが誕生した喜びをその方といっしょに分かち合いました。これほどの感動はありません。

 詩篇116篇を読み、作者はどのような中でこの詩を詠んだのだろうかと想像してみました。作者は、死の綱が自分を取り巻き、よみの恐怖が襲い、苦しみと悲しみの中にあった時に「私のいのちを助け出してください」と主の御名を呼び求めました。主は作者の願いに耳を傾けて、助けてくださったのです。それゆえ作者は、「生きる限り主を呼び求めよう」と心を定めます。

 この詩には、自分に良くしてくださった作者が自分の決意を神の前に述べることばがいくつかあります。「私は主を愛する」という1節のことば、「私は生きる限り主を呼び求めよう」という2節のことば、「私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう」という9節のことば、「私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう」という13節のことば、そして、「私は自分の誓いを果たそう」という14,18節のことばです。

 詩篇103篇に、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とありますが、それはただ覚えているということでとどまるのでなくて、主を愛する、主を呼び求めるなどという姿勢、生き方を左右するほどのものだということに気づきます。

 あえて117篇を結びつけるとしたら、作者の決意が世界大に広がっていくという素晴らしさをも覚えます。

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確かな答え

2017年03月30日 | 詩篇

詩篇 115篇

 近所の桜が満開。散り始めの花びらが歩道を桜色に染めていました。

 「春が来た」という文部省唱歌があります。「春が来た、春が来た、どこに来た」という問いかけに、「山に来た、里に来た、野にも来た」と答える歌詞ですね。単純なことばのやりとりの中から、花が咲き、鳥が鳴く、だから春が来たのがわかるでしょ…という雰囲気が伝わって来ます。もうコートを着なくてもいいとか、昼が長くなったなどという目に見える「しるし」があるので、「ほら、春が来たでしょ!」と答えることができるのです。

 作者は、国々の問いかけに「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる」と答えています。「みことばの光」は、「その問いかけに対する毅然とした二つの答えがある」と書いています。確信をもって、神はおられると答えているのです。

 この問いは、今に至るまで特に神を信じる者に向けて投げかけられてきたのではないでしょうか。そして、往々にしてこのような問いかけは、事件や事故などが起こったときになされる場合が多いように思います。また、「見たら信じる」というようなことばにも触れます。

 主イエスのもとに「…あなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか」と問うた人々のことばを覚えました。⇒ヨハネの福音書6章30節

 もう一つ、復活なさった主イエスが弟子のトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」とおっしゃったことばも思いました。⇒ヨハネの福音書20章29節 

 「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。だからまず信じなさい」と、確信をもって答える者でありたいです。

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出て来たとき

2017年03月29日 | 詩篇

詩篇 114篇

 きのうは午後、生まれて三か月の赤ちゃんを育てている方を訪ねて、いっしょに聖書を読みました。二週間ぶりの訪問でしたが、この時期の赤ちゃんの成長は速いのだと改めて納得。聖書を読み終えた後、抱っこさせてもらいました。ニコッと笑顔を見せてくれると、たまりませんね。

 この詩篇の「みことばの光」のタイトルは「歴史に向き合う」とあります。「イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が異なることばの民のうちから、出て来たとき」ということばから始まるのです。作者は、エジプトから出て来たときのことを回顧します。もちろんこの詩篇の作者自身が出エジプトの体験者だったということではありません。彼に限らず、旧約聖書には自分たちの父祖の歩みを思い起こす記事が多くあります。

 けれどもそれは、「私たちはよくやった」などという類のものではなくて、往々にして父祖たちは神に背いたけれども、主はあわれんでくださったということが主題のようです。年を重ねるとこれまでの自分を回顧することの方が多くなると言われます。そしてそれは、「あの頃はがんばった」とか「あれは恥ずかしい失敗だった」と、自分を中心に歴史を捉えるようなことになりやすいと思うのです。「向き合う」のは、正直言って苦手だという人が多いのです。私もそうです。

 神が私の主であるということに心からうなずくことができて初めて、そのお方が、義とあわれみの神、さばきの神であり赦しの神だと信じることができるので、負の人生、負の歴史に向き合うことができるのではないか、と考えるのです。

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主の日が来る

2017年03月28日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 14章

 春の陽射しの中、森の中を歩きました。地面には花が咲き、木々は芽吹き、鳥たちがさえずっています。その中を遠慮気味に歩かなければ…というような気持ちになりました。

 「みことばの光」が書くように、ゼカリヤ書の終章はエルサレムの敗北から始まります。驚くことに、エルサレムはすべての国々によって攻められるとあります。さらに、それを主がなさるというのにもっと驚かされます。ここは、ヨハネの黙示録11章にある都が獣によって踏みにじられるという場面と重なります。しかし、そこに主が出て来てその国々と戦われるのです。

 興味深いのは、主の足がエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立つと、山が二つに裂けて、東西に延びる大きな谷ができるという預言です。「みことばの光」はこのことについて、「だれもが新しいエルサレムに近づくことができるようになったことを象徴する」と書きますが、5節を読みますと、エルサレムから人々がこの谷を通って逃れられるためにということだと考えられます。

 主がおいでになるまでには、苦難を通され悲惨な出来事も経験するけれども、それでも主に信頼することを促しているのではないでしょうか。5節の「私の神、主が来られる」ということばは、すべてを変えることば。この日を待ち望んでいるのかと自分に問うのです。

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罪と汚れをきよめる泉

2017年03月27日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 13章

 日曜日は、ケルンにある日本語教会を訪ねました。いつものように、iPhoneに入れた地図アプリをナビゲーションとして便利に用いましたが、詰めの所で道を間違え、ちょっと遠回り。ナビは間違っていなかったのですが、ナビを読み取る私がミスをしました。聖書を読み違える自分の姿が重なりました。

 1節の「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」とのことばから思うのは、エゼキエル書47章に描かれている情景です。聖書をお持ちの方は、エゼキエル書47章を開いてみてください。エゼキエルは、神殿の敷居の下から東の方へ水が流れ出ているのを見ます。水かさは足首からひざ、そして腰の深さにまで増し、やがて渡ることのできないほどの川になり、やがてアラバに下り海に入ります。アラバというのは、ヨルダン川が流れる地を含むパレスチナを北から南に縦断する低地のことです。ですから、エゼキエル書47章8節の「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る」ということばの「海」とは死海を指しています。

 驚くことに、「海に注ぎ込むとそこの水は良くなり、…あらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる」とまで言われています。今の死海は、浮遊体験をするには大変良いのですが、高い塩分濃度ゆえに一匹の魚も生息しません。けれども、エゼキエル書47章にはさらに驚くようなことが書いてあります。「漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。」死海で網を引くという、信じ難いことが起こるのだと言われるのです。

 けれども、それにも増して信じ難いのは、人間の罪と汚れがきよめられるということではないだろうか、と思い巡らすのです。「みことばの光」が引用した聖句をここにも記します。

 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」ヨハネの手紙第一 1章7節

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