みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

全地の王

2014年01月31日 | 詩篇
詩篇47篇


 きょうは1月最後の日。
 個人的な印象では、1月は比較的長く感じるのですがそのあとはあっという間に3月が来るようです。近所の梅の木に白い花が咲き始めました。もっともこの木は、特別に花が咲くのが早いようなのです。春の到来が待たれます。「みことばの光」は5月号の編集に取り組んでいます。

 本日のタイトルは「王である神を賛美せよ」。「みことばの光」では、この詩篇にふさわしい歴史上の出来事として、エルサレムがアッシリヤの攻撃にさらされていたことだと解いていますが、なるほど、ここには主がイスラエルの民にとっての王であるばかりではなく、「全地の王」だということが強調されています(2節と7節)。一夜のうちにアッシリヤ軍18万5000人が倒されるということはアッシリヤ自身、また脅威にさらされていたエルサレムの民も、そしてヒゼキヤ王も簡単には信じられなかったことではないでしょうか。列王記第二 19章、歴代誌第二 32章にこのことが書いてありますので、ご参照ください。

 そして、このようなことは国と国との間のいわゆる「大事」においてだけでなく、個人の小さな出来事にも数え切れないほど起こると思うのです。自分で自分の人生を動かしているように錯覚することもありますが、全地の王がすべてを仕切っているのです。

 仕切るといえば、朝刊に電力各社が政権与党の議員に原発新設の必要性を訴える「模範解答」を配付していたとありました。議員たちを動かして原発再稼働、さらには新設をと目論んでのことでしょうが、姑息な仕切りです。
    


そこにある助け

2014年01月30日 | 詩篇
詩篇46篇


 週4回を目標に朝歩きをしています。いろいろなことを考えながら、ヒヤリングを兼ねてアメリカのラジオ番組を聞きながら歩いています。「習うより慣れろ」とはよく言ったもので、少しずつ聞き取れるようになってきたのは不思議です。今朝は歩きながら、今ここで大きな地震が来たらどこに逃げればよいのだろうかと一瞬考えました。急にそんな思いが湧いてくるのですから不思議なものですね。

 詩篇46篇は「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」で始まります。同じ箇所を新共同訳聖書は「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と訳します。「『そこにある助け』とは困難の中で容易に見いだされる助けのことで、他のところに助けを求める必要なはいこと」と「みことばの光」は解いています。

 この詩篇を読むたびに、穏やかさを覚えます。何も問題がない穏やかさではなくて、大きな問題にさらされる中での穏やかさです。考えてみれば、何も問題がないなどということはありません。大きなことから小さなことまで、目の前にはいろいろな課題や問題、悩みが次々に訪れます。そのようなとき、私はよくこの詩篇を声を出して読みます。

 神が遠くに行ってしまわれたように感じるようなときに、そうではなくて「そこにある助け」なのだとの一言で、平安が訪れるということが幾度もありました。


父の家を忘れよ

2014年01月29日 | 詩篇
詩篇45篇


 朝歩きの終わり頃に通る公園。工事が始まっていつもの歩道が通れないようになっていました。ちょっと遠回り。すると見慣れているはずの景色がいつもと違います。「あれっ? あの昭和レトロの建物は3階建てだった!」と今朝初めて気づきました。新しい感動です。

 詩篇45篇は王の結婚式に詠まれた歌だろうと言われています。作者は、わくわくする喜びをもって結婚する王と花嫁を描きます。
 
 王は麗しさ優しさと、雄々しさ強さを兼ね備えています。
 花嫁には懇(ねんご)ろに言って聞かせます。10節の「聞け。心して、耳を傾けよ」とのことばは、これから花嫁に話すことがどんなにか大切かを表しています。「みことばの光」」が解くように、「あなたの父の家を忘れよ」とは、これまでの親の恩を忘れるということではなくて、夫と一つに結ばれるようにとの促しです。

 新約聖書では、結婚における夫と妻の関係をキリストと教会になぞらえます。そのように考えますと、教会の魅力とは夫であるキリストのものになり切り、キリストに従うことによって醸し出されるものだということに気づかされますね。イエスのそばでみことばに聞き入るマリヤの姿とあるべき教会の姿とが重なります。
     


起きてください

2014年01月28日 | 詩篇
詩篇44篇


 しばらくぶりにおじちゃんとおばちゃんに会った1歳4ヶ月の孫。いつもとは違った雰囲気で二人を見比べています。いっしょに時間を過ごし、食事をするなどして、次第に通い合ってきたかな? と思った頃に二人が帰って行きました。
 車を見送ったらすぐに、がまんしていたものをどっと吐き出したかのように、大きな声で歌は歌う、話をするという普段の姿を取り戻しました。きっと、彼女は彼女なりに、いっしょうけんめいに客人を迎えもてなしていたのでしょう。

 かつては私たちの父祖たちに勝利を与えられた神が、今の国家的な存亡の危機にはそうではないというのが、この詩篇が謳(うた)うこと。多くの詩篇が個人的なものであり、苦難の中で自分の罪を神の前に悔い改めるという内容であるのに、この詩篇はそうではありません。

 心に留めたのは「起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください」との祈りのことば。作者たちが「助けてください!」と願うまさにこの時に、神は眠っているというのです。湖を渡る途中に激しい突風に遭って船が沈みそうになったとき、弟子たちが舟の中で眠っておられるイエスを起こして、「…私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」と訴えている姿を思い起こしました(マルコの福音書4章38節)。

 自分たちが願う「この時」と、神がお考えの「この時」とのズレを感じることが度々あるのではないか、「なぜ眠っておられるのですか」といらいらしている自分がいます。ある注解者は、「キリスト教の歴史にも…祝福と不毛の期間、前進と後退の期間があり、それらは人の忠誠心や方法の変化と一致しているようには見えない」と説いています。

 「起きてください」との懇願に、イエスは起き上がって嵐を鎮め、「信仰がないのは、どうしたことです」と弟子たちに言われました。
     


私の最も喜びとする

2014年01月27日 | 詩篇
詩篇43篇


 礼拝が終わった頃から強い風が吹き、畑の土が舞い上がっていました。数日の暖かさから寒さへの逆戻りです。

 昨日は、先月洗礼をお受けになった方を病院に訪ねました。たいそう良くなられ、今回はベッドにお座りになって話をしてくださいました。朝起きて神に祈り、しばらく休まれて神に祈りの日々ですと話しておられました。「60年以上のご無沙汰でしたから…」と、神さまへの「借りを返す」かのように祈りの日々を過ごしておられるご様子。
 初めての聖餐式を行ないました。

 詩篇43篇は42篇とのつながりで読むことができます。
 作者は神の宮で神の民とともに礼拝したいとの思いがほとばしり出ているのが42篇だとしたら、願いを神に訴えているのが43篇だと考えられます。

 心に留まったのは「私の最も喜びとする神」とのことば。
 昨日の礼拝でも、共に礼拝することをこの作者のように切望しているのかと問われたことですが、神を自分の最も喜びとしているだろうかと考えます。

 「私は、あなたを喜び、誇ります。」詩篇9篇2節


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