みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

自分の家に面する所を

2012年05月31日 | ネヘミヤ記
ネヘミヤ記3章1-14節


 昨日掲載した花の名前が判明。Photo

 早速教えていただきました。あいこさん、ありがとうございます!
 そこで、きょうは同じ花の写真をもう一枚載せます。
 「ブラシノキ」です。写真に写っているのは、「撮影会」のもう一人の参加者です。
 
 月末になると朝日新聞1面の「天声人語」では、その月の「ことば」をいくつか紹介しています。
 そのうちの一つは、2000本安打達成の宮本慎也選手の一言。
 「脇役の一流にはなれたかなと思う。」

 エルサレムの城壁修復工事が始まりました。きょうはそのうちの前半、町の北にある「羊の門」から反時計回りに「糞の門」までの取り組みを読んでいます。
 大祭司たちが「羊の門」を修理しました。率先して指導者が工事に携わったことがわかります。一方、工事に協力しなかった人々がいたことも記されています。何か、不都合があったのだろうかと想像してしまいます。

 エダヤという人は、「自分の家に面する所を修理」したとあります。ほっとする一言です。この章に「自分の家に面する所を修理」ということばは、全部で4回出ています。手近な所を修理したということでしょうか。
 地位もあり、才能にも恵まれた人たちは、それこそ今でいうならば最新の機材を用いて修復することでしょう。けれども、「自分の家に面する所を修理」するということばには、大きな機材を使うことなく手作業で…を連想します。

 主役もいるけれども、たくさんの脇役によって城壁修復工事が行われたともいうことができるのです。

 ところで、本日の「みことばの光」には誤りがあり、次のように訂正いたします。おわびいたします。
 72ページ6行目
 「北側の羊の門から南西側の谷の門までは、城壁があまり崩されてはいなかったのか、一節から一二節に羊の門から谷の門に至る北側から西側への広い範囲が記されている。」

 





現場を知る

2012年05月30日 | ネヘミヤ記
ネヘミヤ記2章


 きょうの一コマも、月曜日のウォーキングの折りのもの。ずいぶんとトロピカルな雰囲気の花だねぇと写真を撮っていると、向こうから自動車が。にこにこと私たちの「撮影会」を見ながら車を近くに停めました。どうやら、このお家の方のようでした。花の名前を聞けばよかったと後悔。
 どなたかご存知でしょうか。Photo


 2章には、アルタシャスタ王がネヘミヤに、城壁再建のためにエルサレムに帰ることを許したこと。早速ネヘミヤが現場を秘密裏に視察したことが書いてあります。新改訳聖書の巻末にある何葉かの地図の中に、「ネヘミヤ時代のエルサレム」というタイトルの地図があります。この地図には、ネヘミヤが夜間調査した経路がありますので、確認してはいかがでしょうか。

 ネヘミヤはもちろん、一人では城壁再建という大事業を行うことはできません。王や王妃という賛同者がいる一方で、ネヘミヤの計画を聴いて不機嫌になる者たちもいます。何事かを行う際に、「みんなが賛成」ということはまれなのだということを、ここからも知ることができます。

 そしてネヘミヤから学ぶのは、彼が予め現場を調査したということ。大事業、掛け声だけでは人はついて来ません。現場を知るからこそ、17節のようなことばが出てくるのだと思いました。それを受けて、「さあ、再建に取りかかろう」と言ったのは、ネヘミヤではなくてネヘミヤの話を聞いていた人々だったというのも注目すべきことです。





祈りから始まる

2012年05月29日 | ネヘミヤ記
ネヘミヤ記1章


 今、住む町に「福祉の店」を開店するための準備に加わっています。
 課題は場所。昨年来適地を捜し求めていますが、お金をかけないでよ居場所を見つけるという、とても矛盾した課題に取り組んでいます。
 昨日は市の空き施設を何人かで見に行きました。よい場所でした。借りられたらよいのに…と思いました。
 ちょうど見に行っている時間に土砂降りの雨。30分ほどで上がりましたが、後で近くを通ると、街路樹の枝が強い風と雨とで折れて歩道に落ちていました。
 夕方は妻とウォーキングです。途中葱坊主(ねぎぼうず)を見つけました。それは立派な葱坊主でびっくり。Photo

 「みことばの光」、きょうからはネヘミヤ記を読みます。ぜひ、本文の解説の前にある「ネヘミヤ記を読む前に」をお読みになるのをおすすめします。

 1章はネヘミヤの祈りです。「みことばの光」に書いてある順に従えば、ネヘミヤは「自分の罪として」祈り、信じて祈り、みことばの約束を握って祈り、絶対に捨てられることはないと確信して祈っています。きょうの箇所には「祈りは悔い改めから」とのタイトルがつけられています。

 何事もまず祈りから、そして祈りは「誰かのことを」ではなくて、自らのことなのですね。もし、ネヘミヤが「私には関係がありません。父祖たちが愚かだったのです」と祈ったのならば、ネヘミヤについての出来事はずいぶんと違ったものになっていたのではないか、と考えます。
 





さらに願う

2012年05月28日 | 詩篇
詩篇126篇


 赤レンガ駅舎として知られている東京駅丸の内駅舎の復元工事がほぼ終わり、昨日はその一部が報道関係者に公開されたと報じられていました。大正3年に建てられたときには3階建てで丸いドームでしたが、東京大空襲で破壊され、戦後の修理では2階建てで三角のドームに変わっていました。工事に携わった方々の喜びはどれほどのものだろろう、と思います。
 ホームに発着する列車を見ながら、ホテルに泊まってみたいなぁ、と思います。

 シオン(エルサレム)の繁栄が元どおりにされているのを見た「私たち」は夢を見ているようだったと、126篇のはじめにあります。「私たち」は捕囚の地バビロンから帰還した人々なのかもしれません。破壊されてみるも無残だったシオンがにぎわっているのです。「私たち」は、それを「主が元どおりにされた」と喜んでいます。1,2節からは喜びや笑いの表情がこぼれてきます。
 そしてそれは、「私たち」ばかりでなくて、周りの国々の人々の驚きでもあったのです。シオンの回復が、どれほどのものであったのかを伝えています。

 しかし、「私たち」はさらに主に願います。ネゲブの砂漠に雨期には奔流が出現するように、私たちの繁栄をもと踊りにしてほしいと祈ります。それは「棚ぼた」を期待する祈りではなくて、願いに主が答えてくださると信じて、収穫を主が与えてくださると信じて、涙とともに種を蒔きますとの決意の祈りでもあるのですね。

 



「もういっぱいです。」だから…

2012年05月26日 | 詩篇

詩篇123、124篇


 昨日は曇りとの予報でしたが昼前から雨になり、一時は土砂降り。かかわりのある障がい者施設では午前中にグループホーム予定地の草刈りにみんなで出かけたのですが、雨で中断してしまったそうです。私は留守番。
 室内でいろいろなことをしていましたら、あっという間に夕方になっていました。夕方、ウォーキングしてからだと心を調整しました。気持ちの良い時期ですね。

 きょうは123、124篇を読みます。
 何となく「お得感のある」きょうの通読かな、と思いました。

 123篇だけですと、「この人はこの後どうなってしまうのだろうか」と気がかりになりますが、続けて124篇を読むことで、「ああ、ほんとうに良かった」と区切りをつけられる感じがします。もっとも、この二つの詩篇が同じ作者によるものではないでしょうから、あくまでも読者としての受け止め方ですが…。

 123篇の「私たちはさげすみで、もういっぱいです」ということばを思います。この場合の「もういっぱい」は、ぎりぎり、限界だという叫び。「捕囚時の屈辱に苦悩していたと思われる」と「みことばの光」にあります。そのような状態の中で、この人の目は主に向けられます。
 「もういっぱい」であっても、私たちの目を向けるところ、向けるお方がいるのですね。
 でも、ほんとうに自分は神に目を向けているのだろうかと問われる一言です。

 「主は私たちの味方」だと124篇の作者は歌います。大変なところを通され、そこで神さまに助けていただき、救いを体験したからこそ言える確信なのですね。


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