コリント人への手紙第一 10章1−13節
9月も終わろうとしています。夏の服をしまって冬の服を出しました。「こんな服があった」と思い出すことも…。アップルパイを焼くためにうってつけの林檎も売っています。秋ですね。
自分自身が失格者にならないようにと書いたパウロは、出エジプトを経験しながらも偶像にすがったために荒野で滅ぼされたイスラエルの民のようにならないようにと警告しています。「みことばの光」には、それは、イエス・キリストを信じて救われたコリントのクリスチャンたちが「真のイスラエル」とされた者だからだと書いています。
「偶像に献げた肉を食べることについて」という質問を受けたパウロは、コリントの教会を揺さぶっていた偶像礼拝(神でないものを神として拝むこと)を憂えています。イエス・キリストを信じてまことの神との生きた結びつきを得たコリントの信者たちが、神ならぬ神々に心を寄せていく様子に、しかもことば巧みに、知識を持つ者は何をしても自由だからとけしかけるいかがわしい教師のことばに乗せられてしまう様子に、大きな危機感をもっていたのです。
信じて救われたのだから、何をしても神は守ってくれるという甘い考えでいてはならないと厳しく警告しています。旧約の民のように偶像礼拝によって倒れないようにと…。
13節のことばは多くの人々に親しまれています。しかし、元々は偶像を慕うという試練に直面しての励ましのことばとして届けられたことばです。コリントの教会が直面している試練は、他でも経験されていること、されたこと。そのようなとき、クリスチャンは神に頼り、神の助けをあてにしてもよいのです。確かに神はその試練から脱出させてくださるのだから、神に信頼して「偶像礼拝を避けなさい」(14節)とパウロは話を進めます。
「どうしよう!」というときにこそ、神を頼りにして神に願うならば、必ずどこかに脱出の道が用意されている、ありがたい約束です。