列王記第一 2章1−15節
きのうのバザー。ちょうど良い陽気に恵まれてたくさんのご近所の方がおいでになりました。開場とともに各売り場にはお客様が…。ちょっと落ち着いたと思って時計を見たらまだ20分も経っていません。ということで、写真を撮る間もありませんでした。
ここは、人は自分の死を間際にして何を言い残すかについて考えさせられる箇所です。「みことばの光」が書いているように、ダビデの遺言には信仰者としての基本がしっかり伝えられている部分と、ダビデの心覚えていた人物についてのことばの部分とに分けられます。前半は、いつの時代の信仰者も用いることのできる普遍的な遺言ということさえできます。
ヨアブやバルジライ、シムイの名が、ここでダビデの口から出たのは、ずっと心に掛かっていた人物だったからではないでしょうか。自分の弱みを握られていたために、思い切った対応がとれずにきた相手もいます。ダビデほどの人が…とも思えますが、私はこの部分を読んでいて、なぜかホッとします。ダビデがぐっと身近に感じられます。(もちろん、それが良いということではありません)
いっしょに生きていますと、いろいろなことが起こります。誰かの一言で傷つけられ、逆に自分の一言が誰かを傷つけるということも…。「主にあって赦す」「和解する」場合もあれば、何となくうやむやになってしまうこともあり、距離を置いてしまうということもあります。表向きは普通に付合ってはいても、心の深い所ではわだかまりがある、心を開いていないのです。
十字架の上で主イエスが祈られたことばのすごさに気づかされます。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23章34節)