みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

心に残り続けるもの

2015年04月30日 | 列王記第一

列王記第一 2章1−15節

 

 きのうのバザー。ちょうど良い陽気に恵まれてたくさんのご近所の方がおいでになりました。開場とともに各売り場にはお客様が…。ちょっと落ち着いたと思って時計を見たらまだ20分も経っていません。ということで、写真を撮る間もありませんでした。

 ここは、人は自分の死を間際にして何を言い残すかについて考えさせられる箇所です。「みことばの光」が書いているように、ダビデの遺言には信仰者としての基本がしっかり伝えられている部分と、ダビデの心覚えていた人物についてのことばの部分とに分けられます。前半は、いつの時代の信仰者も用いることのできる普遍的な遺言ということさえできます。

 ヨアブやバルジライ、シムイの名が、ここでダビデの口から出たのは、ずっと心に掛かっていた人物だったからではないでしょうか。自分の弱みを握られていたために、思い切った対応がとれずにきた相手もいます。ダビデほどの人が…とも思えますが、私はこの部分を読んでいて、なぜかホッとします。ダビデがぐっと身近に感じられます。(もちろん、それが良いということではありません)

 いっしょに生きていますと、いろいろなことが起こります。誰かの一言で傷つけられ、逆に自分の一言が誰かを傷つけるということも…。「主にあって赦す」「和解する」場合もあれば、何となくうやむやになってしまうこともあり、距離を置いてしまうということもあります。表向きは普通に付合ってはいても、心の深い所ではわだかまりがある、心を開いていないのです。

 十字架の上で主イエスが祈られたことばのすごさに気づかされます。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23章34節)


立ち去る客たち

2015年04月29日 | 列王記第一

列王記第一 1章32−53節

 

 写真は、来月末に「新装開店」する福祉の店に設置する家具の一部。この街にあるものつくり大学の学生さんたちが製作に精を出してくれていて、すべてでき上がるのが楽しみです。見学に行った折りの一コマです。

 「ゴールデンウィーク」が始まりました。今年は概ね天候はよいようですね。しかし、陽射しは強く気温も上がるとのことです。水分補給が欠かせませんね。きょうは、通っている教会の年に一度のバザー。その隣にある障がい者支援施設の皆さんも協力してくださいます。

 年老いるダビデのすきを狙い電撃的にアドニヤが王に即位。一方、神のみこころを行うことに意を決したダビデはソロモンの即位式をするように指示します。一時、イスラエルには二人の王がいたということになるでしょうか。さて、どちらが神の義を実現しようとしているのか、神のみこころはどこにあるのでしょうか。それを端的に表しているのが49節ではないかと思うのです。

 「すると、アドニヤの客たちはみな、身震いして立ち上がり、おのおの帰途についた。」

 この時、客たちが真にアドニヤこそイスラエルの王にふさわしいと考えるならば、その場にとどまりアドニヤを支えたことでしょうが、彼らはサーッとアドニヤの前を去ります。損得で結びついた人間関係の危うさを垣間見る光景です。

 しようとしていることがはたして神のみこころであるのかは、信仰者であればいつも考えること。双方が神を信じる者であったとしたら余計にやっかいです。みことばを日々いただき、神との普段の交わりに生かされているかどうかが、そのような危急の折りにみこころに従うための鍵のように思えます。


神の人が動く時

2015年04月28日 | 列王記第一

列王記第一 1章15−31節

 本の整理をしました。洋服は2シーズン着なかったものは不要なものだと、何かで読んだことがありますが、本はなかなかそうはいきません。それでもずいぶん「減量」しました。聖書を学ぶ分厚い辞典類も、英語のものは多くが電子書籍になっているので、わざわざ持ち運ぶことはなくなりましたね。「断捨離」の春です。

 アドニヤが王になったとの知らせを聞いたバテ・シェバは「あなたは、あなたの神、主にかけて…」と、ソロモンが王になるとの誓ったことをダビデに思い起こさせ、預言者ナタンは、今起こっていることが「王さまから出たことなのですか」とダビデに迫ります。

 これを聞いたダビデは、年を重ねて老人になっていたのに迅速かつ適切に物事を進めます。「みことばの光」にあるように、ダビデはソロモンが次の王になるというのは、誰かへの誓いではなくて主への誓いだということに気づくのです。そうなると弱ってなどいられないのです。主への誓いは何としても果たされなければならないとの強い思いが、いや、主が自分をあわれんでここまで支えてくださったことへの深い感謝が、主のみこころを…との行動へと突き動かすのです。

 もう起こってしまったから仕方がない、として自分の失敗や過ちをうやむやにしないで、悔い改めと神への信頼によって再び立とうとする姿勢を持ちたい、と教えられます。


主の計画だけが成る

2015年04月27日 | 列王記第一

列王記第一 1章1−14節

 きのうは、福島県南相馬市の原町聖書教会の礼拝に出席しました。すばらしい礼拝のひとときの後は持ち寄りのお昼ご飯。こごみの胡麻和え、タケノコやフキや椎茸ニンジンなどの煮物、ほっき貝のご飯、ホタテご飯、玉コンニャクの煮物、ミニトマトのブランデー煮……食べ切れないほどのご馳走。春の味覚を満喫したお昼でした。そして何よりのご馳走はいっしょに食事をする人の笑顔、ユーモア。ごちそうさまでした。写真は私のお皿です。すごいでしょう!

 2011年3月の大震災発生、そして福島第一原発の放射能漏れの折には、当時七万人以上いた南相馬市民のうちのどうしてもとどまらなければならなかった事情のある一万人を除き、多くの市民がどこに行くのかを知らされないままに鞄一つでバスに乗って避難したのだそうです。「南相馬市を助けてください」との市長の嘆願はよく知られていることです。そのような中で、教会には震災以来南相馬市に移り住んだ方々が出席するようになって、震災以前よりも礼拝者が増えたとのことです。驚きですね。

 「みことばの光」はきょうから7月まで列王記を読みます。はじめに王位を巡っての心理戦が描かれています。王になりたかったアドニヤの目論みは巧みです。要人を自分の側に引き寄せています。けれどもダビデの後、ソロモンが王になるというのは、人間の目論みではなくて神のご計画。人はいろいろと画策しますが、神のみこころ、神のはかりごとだけが実現するのですね。アーメン。


わたしの心だ

2015年04月25日 | ルカの福音書

ルカの福音書 5章12−26節

 

 垣根の合間からサツキが顔を出しています。わが街の市議会議員選挙もきょうが最終日。これから不在者投票に出かけます。

 きょうの箇所には、全身ツァラアトに冒された人を、そして中風の人を主イエスがお癒しになるという出来事が記されています。ツァラアトに冒された人は、それが癒されたことを祭司が宣言するまでの間、周りから隔離されなければならず、偶然の接触を避けるためには、「汚れている」と叫ぶことが求められていました。→レビ記13章45節参照。

 ですから、この人が主イエスにひれ伏してお願いした時、この人と主イエスとの間にはかなりの隔たりがあったのではないでしょうか。この人は、イエスには自分の病を癒す力があるのは聞いて信じていたのですが、自分を癒してくれるかどうかについては確信がなかったのかもしれません。それが「お心一つで…」ということばから感じられます。

 しかし、主はこの人に歩み寄り手を伸ばして彼にさわられました。「わたしの心だ」とのことばに心が留まります。「あなたを癒す」という主のお答えだったでしょうが、それはまた、人の病が癒され、罪が赦されるのは主のお心だということです。

 罪に苦しみ、病に悩む者が赦しを願い、癒しを求めるならば、主は「わたしの心だ」と答えてくださるお方なのです。


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