みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

再出発のために

2022年09月10日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 21章1−14節

 昨年9月から、近隣に住む同胞に「パンと魚」というフライヤー(教会の読みもの)をポスティングしていて。しばらく「パンの話」を続けています。

 この箇所にも「パンと魚」が出てきます。

 復活したイエスは、再び弟子たちにご自分を現すのですが、場所はティベリア(ガリラヤ)湖畔。元々が漁師であったペテロたちは夜の漁に出かけます。しかし、何も捕れませんでした。あるいは彼らは、漁師として再出発をしようとしていたのかもしれないと想像するような行動です。

 同じようなことが以前にあったと思い出す人もいるかもしれません。ルカの福音書5章初めに書かれている出来事です。まるで同じような体験をペテロたちはしていたのです。その時彼らは、「すべてを捨てて」イエスについて行くことになりました。

 何かに行き詰まった時に、出発したところに戻ることの大切さがよく語られます。イエスはこの時、彼らに漁師としてではなく、ご自分の弟子としての再出発の機会を与えられたのだと思います。

 目に留まるのは、彼らのためにすべてをイエスが整えておられたということです。網を降ろす場所について、炭火を、パンと魚を、イエスが用意しておられました。イエスについていこうとするとき、イエスのためにあれも、これも…というような考えが湧いてくるのですが、よく考えてみるとそうではないということに気づく出来事です。

 ついていこうとする者のためには、イエスがすべてを整えてくださるのです。それは間違いのないこと。


平安があるように

2022年09月09日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 20章 19−31節

 リビングルームの窓に電動シャッターが設置されました。工事をしてくださった方が、声をかけるとシャッターが上がり、また声をかけると下ります。こんなところにもITとは驚きです。ちなみに、ドイツ語は聞いてくれますが、日本語ですと動きません。

 イエスが復活された日曜日、しかし夕方まで弟子たちはその事実を受け入れることができずに、恐れで心が満たされていました。その時、彼らの真ん中にイエスが立っておられたのです。戸に鍵がかけられていたのにイエスが立っておられるというのは全く不思議なこと。そしてイエスは彼らが最もこの時に必要としていたことを、語ってくださいました。

 「平安があなたがたにあるように。」 しかもイエスは、ご自分の手と脇腹を見せてご自分であることを示し、再度「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。彼らの恐れは喜びへと変わりました。

 イエスは、私たちがその時に最も必要なことばをもって語ってくださるとは、聖書を読むうえでの励みとなります。でも、こちらに都合の良いことばを自分で探す必要はありません。

 その時一緒にいなかったトマスは、なおも疑心の中にいました。しかし、イエスは彼のために現れてくださいました。トマスにかけられたのも同じことばでした。

 「平安があなたがたにあるように。」 この時も、イエスはご自分の手と脇腹を彼にお見せになりました。イエスを見たトマスは、大切な信仰の確信へと足を踏み出しました。

 弟子たちに、そしてトマスに繰り返し語りかけられたことばは、いつでもどこででも私たちに必要なもの。イエスは、平安を賜るのです。


悲しみから喜びへ

2022年09月08日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 20章11−18節

 9月を迎え、音をたてて日の出が遅くなり、日の入りが速くなる感があります。水曜日夕食の後、公園を歩くと、夕焼けが刻一刻と色を変えていきます。その瞬間だけ見ることのできる景色です。

 この箇所には、悲しみから喜びへと変わるマグダラのマリアの姿が描かれます。

 彼女は二度同じことばで声をかけられます。「なぜ泣いているのですか」と。彼女はたとえ遺体であっても、イエスにお目にかかりたかったのです。しかし、そのことも叶いません。「だれかが私の主を取って行きました」ということばには、悲しさだけでなく悔しさも感じられます。

 二度目は「私の主」からの問いかけでした。彼女はこの時も、声をかけたのは「私の主」の体をどこかに運び去った園の管理人だと思っていました。それは、問いかけた相手を責めているようにも思えることばです。

 15節最後に置かれている「私が引き取ります」とのことばからは、マリアのイエスへの情の深さが伝わってきます。自分が心を込めて愛する対象がいなくなってしまったのだから、せめて亡きがらを…という思いです。

 しかし、愛する対象は目の前にいたのです。「わたしにすがりついてはいけません」というマリアへのことばは、「あなたには今、私のために為すべきことがある」としても響きます。私たちが心を込めて愛する相手は、復活して生きておられるというメッセージを、ここからいただきましょう。


信じた、しかし…

2022年09月07日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 20章1−10節

 雷鳴が暑かった夏の終わりを告げているようでした。水曜日からは天候が崩れ、雨模様の日が続くとの予報です。待望の雨が降ります。

 ヨハネの福音書は、読み終えるのを惜しむかのようにゆっくりと読んでいます。ここは、イースターの日曜日によく読まれる箇所です。

 ここでヨハネは、日曜日の朝墓に来た女性たちのうち、マグダラのマリアに一人を描いています。それは、イエスとマグダラのマリアとの出会いに焦点を絞ろうとしたのかもしれません。

 マリアはもちろん、この朝に主イエスが復活するなどと思ってはいませんでした。心から慕うお方の死体に、せめて香油を塗ろうということだったでしょう。しかし、彼女の深い悲しみは戸惑いに、そしてことばで表し尽せない喜びへとわずかの時間の中で変わっていくことが、分かります。

 一方ペテロともう一人の弟子(著者ヨハネ)は、マリアの「誰かが墓から主を取って行った」との知らせに墓に急ぎます。先に着いたヨハネはイエスを包んでいた亜麻布を見ました。しかし彼は、外からのぞいただけなので、イエスのからだはまだ巻かれていたと思っていたようです。

 イエスの体がなかったのを初めに確認したのはペテロ、そしてペテロに促されヨハネは墓に入り、「見て、信じ」たのです。その後の9節の「まだ理解していなかった」ということばが目に留まります。復活はそれほどのこと、なのです。

 信じた、しかし理解していないということはあると思います。神がなさるのはそれほどのことなのです。


明らかにする行動

2022年09月06日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 19章31−42節

 

住まいの屋根窓を新しいものを交換していただきました。これまでのものは木の枠でしたが、白色の枠になって、部屋全体が明るくなりました。写真は以前の窓です。

 ここは、十字架上でいのちを落としたイエスの葬りについての記事です。

 イエスの十字架刑にはユダヤ人が絡むのですが、ここでも安息日を何としても守ろうとする彼らの願いによって、イエスの死体は十字架から降ろされることになります。ピラトによる審問の際にも、彼らは過越の食事が食べられるようにするためにと。ピラトの公邸に入らなかったことが18章28節にかいています。ここまでして律法を守るために古くからの言い伝えに固執する彼らが、イエスがメシアとして来られたことを知らないのです。

 イエスの死は、そこに居合わせた人々にさまざまな動きを与えました。そのなかでも、アリマタヤのヨセフとニコデモの姿が目に留まります。イエスの隠れた弟子だった二人は、ついにそれを明らかにする行動をするのです。自分とイエスとのつながりが知られるのを恐れ続けていた彼らは、イエスのために動きます。ヨセフはイエスの葬りのための墓を用意し、ニコデモは没薬のために多額の財を費やします。

 イエスは彼らにとって、そうするのにふさわしい、いや、それでもまだまだ足りないほどのお方なのです。しかし二人とも、その墓で何が起こるのかは分かりません。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki