みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

すべての民が「アーメン」と言え

2016年12月31日 | 詩篇

詩篇 106篇32−48節

 帰宅しました。旅をするごとに思うのですが、「やはり家がいい」と思いました。普段とは違う場所に行き、初めてのものを見、食べられない物を食べる、…特別な日々が旅行です。けれども、日常があるので旅行が楽しいのだと思います。

 2016年はきょうが最後の日。「良い年だったか、悪い年だったかを」振り返る方が多いのではないでしょうか。頻発するテロ、主導権を巡っての国と国との駆け引き、経済的な格差の開きなどが脳裏に浮かびます。

 この詩篇の作者も、自分たちの歩みを振り返る中で、先祖たちがどれほど神の前に罪を犯し、神を怒らせ、悲しませたのかを次々に挙げています。二日前にも触れましたが、作者は「自分たちは立派にやっていますが、先祖たちはとんでもありませんでした」と綴っているのではありません。それは、「私たちの神、主よ。私たちをお救いください」という祈りのことばからもわかります。

 「みことばの光」の表紙には毎号「毎日聖書を読む聖書同盟の方法」が掲載されています。その中に、「神はどのような方、どのようなことをなさる方か」という問いかけのことばがあります。この箇所を読み、「主の怒りは見たいに向かって燃え上がり」ということばとともに、「主は幾たびとなく彼らを救い出された」「主は彼らの苦しみに目を留められた」ということばに目が留まります。この1年の歩みを振り返って、主なる神は私に対してもこのようにしてくださいました。

 新しい年に向けて、「すべての民が、『アーメン』と言え」。ハレルヤ」と祈り、神をほめたたえます。

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間に立って

2016年12月30日 | 詩篇

詩篇 106篇16ー31節



 王が建てた山の上の城を訪ねました。行きはバスでスイスイと、帰りは自分たちの足で山道を降りました。いつも思うのは、こんな山の上にどのようにしてこれだけの資材を運び上げたのかという疑問。それほどまでして、王の力の大きさを誇示するという目的があったのでしょう。

 詩篇106篇中段には、神を忘れ神に背いて怒らせた民と神との間に立つ人が出てきます。モーセとピネハスです。モーセは罪を犯した民のために神にとりなしました。ピネハスは、モアブの神々バアル・ぺオルを慕った、イスラエルの男とミデヤン人の女とを打つことによって神の怒りをを鎮めて、イスラエルは滅ぼされることを免れました。

 「みことばの光」が書くように、この二人の先には、神と私たちとの間に立ち私たちのためにとりなし、十字架にかかってくださった主イエスのお姿があります。主イエスの十字架は、私たちが一人として神の怒りを免れないのだということに気づかせます。もしもキリスト者が、自分が救われたのは自分のうちに神を喜ばせる何かがあったからだなどと思うなら、とんでもない…のです。救われるというのは、自分では自分を救い得ないからなのです。

 感謝に堪えません。

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だれが語れるか

2016年12月29日 | 詩篇

詩篇106篇1ー15節

 ある大学の図書館を見学しました。天井近くまで書籍がぎっしりと詰まった書架を見上げ、私たちには知るべきこと、学ぶべきことがこれほどあったのだという感慨を覚えるとともに、自分の貧しさのようなものを感じ、次に、真に知るべきものを与えていただいた神の恵みの大きさをも覚えることができました。

 「みことばの光」のタイトルは、「歴史の中に見る神」となっています。旧約聖書には、イスラエルの人々が自分たちの先祖たちを美化することなく振り返ることばがよく見られます。この詩篇もその一つです。しかしそれは、作者が自分たちは立派にやっているのですということを強調しているではありません。

 「私たちは先祖たちと同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行った」と、作者は自分たちの罪を告白しています。神が赦してくださるお方だと信じているので、このように言えるのです。

 この詩篇は、多くの他の詩篇と同じように、神をたたえ、感謝を捧げます。2節に「だれが主の大能のわざを語り、そのすべての誉れをふれ知らせることができようか」とあります。それは6節にあるように、「私たちは…罪を犯し」と告白する者だということを心に留めるのです。「罪の赦し、体のよみがえりを信ず」(使徒信条)。

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きょうから後のことを考えよ

2016年12月28日 | ハガイ書

ハガイ書 2章

 住まいを離れて、青空の下での旅をしています。列車に間に合うかとハラハラしましたが、鉄道好きの勘が働いて、乗り遅れることがなくすみました。昨日も書きましたが、クリスマスの落ち着いた街飾りが素敵です。

 ハガイ書は2章の短い預言書ですが、1章には「あなたがたの現状をよく考えよ」、2章には「きょうから後のことをよく考えよ」がキーワードです。

 ソロモンが建てた神殿を知っていた人々は、彼らが再建しようとしている神殿は「まるで無いに等しい」と思っていました。そのことをよくご存じの主は、「強くあれ」と指導者のゼルバベルやヨシュアを励まし、「仕事に取りかかれ」とお命じになりました。外側は比べようが無いものはあるけれども、主は、再建しようとしている神殿にご自分の栄光で満たすと約束するのです。

 「銀はわたしのもの。金もわたしのもの」ということばを心に留めました。とかく自分たちが何をどれだけ持っているかということにだけ関心を向けやすいのですが、何事かをなすことについて、神が先立って行わせようとしておられるのなら、何を持つか持たないかで喜んだり嘆いたりすることはないのですね。

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あなたがたとともにいる

2016年12月27日 | ハガイ書

 25日が終わると、あっという間に正月の飾り付けに取って代わられてしまう日本とは違って、当地では、まだクリスマスの飾りが街にあります。もちろん、クリスマス市(いち)の多くはすでに終わっていますけれども…。

 神が預言者ハガイによってお語りになっているのは「時」に関わりのあることです。「みことばの光」が書くように、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民は、当初は意気盛んに再建に取り組みました。ところが様々な妨害によっていつしか熱意は冷め、「小さな幸せ」に満足するようになったのでしょう。

 神の宮が廃墟になったままなのを見ても、心が動かずに、いや、心をあえて動かそうとしないのでしょう。そのような民に神は「あなたがたの現状をよく考えよ」と、繰り返し気づきを与えておられるのです。「小さな幸せ」が悪いというのではありません。見るべきもの、大切にしなければならないことから目をそらしていることを、神は問題視しておられるのです。

 心を込めることをしないままに何かに取り組んでは見たものの、何かのきっかけで頓挫(とんざ)してしまったことを、「時ではなかった」と言い訳するようなことがある、のだと心探られます。

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