みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

何をするにも

2013年09月30日 | コリント人への手紙第一
コリント人への手紙第一 10章14-33節


 2013年9月もきょうで終わり。
 今月は長かったような、短かったような…、いろいろなことがありました。
 きのうの礼拝では、A先生が詩篇23篇から宣教してくださいました。暗唱している聖書のことばの奥深さに励まされ、羊飼いなる主をあがめました。自分の歩いた後に、主の祝福と恵みが置かれているのかとも問われました。
 A先生とは、長い間お交わりをいただいております。良い時をありがとうございました。

 きょうの箇所からは、31節の「何をするにも」ということばに目を留めました。
 すべてのことをしてもよいという自由を、キリスト者は十字架のイエス・キリストゆえに賜りました。何をしてもよいのです。しかし、隣人の益と救いのためには、自由という権利を脇に置く自由も賜っているというのが、ここでパウロが語り、あかししていること。

 人をつまずかせないようにとは、自分と「その人」の間の距離ばかりが気になることではありません。自由を賜ったお方との正しい結びつきがあってこそ、人をつまずかせないとの動機がクリアになるのだということではないのでしょうか。
 主とのつながりがなければ、人をつまずかせないことが自分を縛ってしまいます。それは「ただ神の栄光を現す」こととはまったく違ったものに姿を変えてしまう…。
 
 そのように思い巡らしていましたら、羊飼いなる主に飼われる羊であってほんとうによかったと、感謝が湧いてきました。

      

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~のために

2013年09月28日 | コリント人への手紙第一
コリント人への手紙第一 9章19-27節


 きのうの夕食はサンマ。大船渡から送られてきたものを早速焼いて、また刺し身にしていただきました。身がふっくらしていてとってもおいしいサンマでした。実りの秋には、海のものも山のものもおいしいものがたくさん。楽しみでもありますが、せっかくの減量が後戻りしないようにと身を(気を)引き締めます!

 きょうの箇所について、「みことばの光」には「人生の目標」というタイトルがついています。確かに、人は大げさにあるいはこっそりと、また本人も意識しないで「~のために」という目標を掲げます。
 パウロがどのような目標を持っていたか、それはこの箇所で何度も繰り返される「~のために」ということばをたどることで確認することができます。

すべての人の奴隷に            より多くの人を獲得するために
ユダヤ人のように             ユダヤ人を獲得するために
律法の下にある者のように         律法の下にある人々を獲得するために
律法を持たない者のように         律法を持たない人を獲得するために
弱い人に                 弱い人々を獲得するため
すべての人にすべてのものと        何とかして、幾人かを救うために
すべてのことを、福音のためにしています  私も福音の恵みをともに受ける者となるために
あらゆることについて自制します      朽ちない冠を受けるために
自分のからだを打ちたたいて従わせます   自分自身が失格者になることのないために

 左側がパウロの姿勢で、右側が目標ということになるでしょうか。
 左側にあるのは、なんとも自由がないかのように見えますがそうではありません。彼は、キリストにある自由を賜ったからこそ、目標達成のためにそれを制限する自由を行使しているのだと思います。

 「考えよう」の問いかけに、自分はどうなのだろうかと、問いかけています。

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宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ

2013年09月27日 | コリント人への手紙第一
コリント人への手紙第一 9章1-18節


 「寒い」ということばがこの秋初めて出た朝でした。台風20号が寒気を引き寄せました。

 9章前半で、パウロは自分自身のことを話します。使徒としての自分が主張できる権利について、しかし、彼はその権利を脇において、自ら働きつつ福音宣教に励んでいると言っているのです。

 心に留めたのは、「もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ」とのことば。
 パウロは、福音を宣べ伝えるのは自分の誇りではないと言います。それは自分がどうしてもしなければならないことであり、そのために主は自分を使徒としてお召しになったのだと自覚しています。

 「みことばの光」の「考えよう」に、「福音を伝えることに、パウロのような情熱や使命があるだろうか。もしそれが欠けているとしたら、何ゆえだろうか」とあります。自問してみました。様々なことに時間を割いているけれども、さて自分は福音を宣べ伝えるのにどれほどの時間を費やしているのかと…。

 一方で、「私はすべてのことを、福音のためにしています」(9章23節)とのことばを思い浮かべました。このことは福音のため、あのことはそうではないと、分けて考えるのではなくて、何をするのも、自分が召された福音のためにしているのだという思いを新たにしました。すると、どうしてこんなことを、というつぶやきがどこかにいってしまうのではないかと…。

    

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その兄弟のためにも死んでくださった

2013年09月26日 | コリント人への手紙第一
コリント人への手紙第一 8章


 台風20号の影響で時折雨が強く降る中、水曜日夜の祈祷会がありました。
 きのうは悪天候の中、Hさんが自転車で祈祷会に出席されました。初参加です。数年前から礼拝に出席しておられるのですが、祈祷会にも、おいでになりました。

 いつものように、当たり前のように祈祷会の部屋に来て、椅子に座って会が始まりました。ところが、Hさんは、祈祷会は初めて。どの部屋で行われるのかもお分かりになりません。しばらく玄関の所で立っておられました。そこで、「常連」の一人が迎えに行きました。

 いつものように、司会者が会を進行します。
 毎週のことなので、当たり前のようにソングブックをめくり、聖歌を開きます。けれども、Hさんにとっては何もかもが初めて。いっしょうけんめいページをめくります。

 いつものように、一人一人の「証し」の時間。順番で、近況やみことばから教えられたことを話します。その方にとっては初めての体験。「相談してもいいですか」とおっしゃいます。それはそうでしょう。初めてなのですから!

 「常連」は覚えて祈ってきましたので、その方の名前を知っています。けれども、Hさんは私以外の出席者の名前を知らないと言います。そこで、自己紹介。妻の紹介の後で、その方は「ヘェー、牧師さんの奥さんだったのですか」とびっくりしておられました。数年も礼拝に通っておられ、週報も大切に保存して来られたというのに…。

 「知っている人々」がつまずきの原因を作っているのだと思わされた体験でした。

 正しい知識を持つのがもちろん悪いわけではありません。けれども、それを持たない弱い人々を、知識を持つ者が「いつものこと」「当たり前のこと」だとして顧みないのだとしたら、結局はつまずきを与えることになるのではないか…と。

 Hさん、参加してくださってほんとうにありがとうございました。
 貴重な体験でした。

    

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主のことに心を配る

2013年09月25日 | コリント人への手紙第一
コリント人への手紙第一 7章25-40節


 現在の危急のとき、時が縮まっている中で、神に召されたことを大切にして歩むようにという、パウロの勧めが続きます。「みことばの光」がまとめているように、ここではそのメッセージが結婚している人と未婚の人とに届けられます。

 主がおいでになるとの緊張がコリント教会には高まっていたのかもしれません。そうなると、このままではいけない、何かを変えなければ、特別な備えをしなければというように人々の心は動きます。それが、結婚している人々には「結婚をしている場合ではない」と、未婚の者には「結婚しなければ?」となったのでしょうか。

 パウロは、できればそのままでと言うのです。心に留めたのは、「主のことに心を配る」とのことば。
 あの人も大切、この人のことも立てなければ…とあれこれと心を配っているにもかかわらず、イエスさまのことに心を配っているのだろうか、と気づかされました。「心を配る」ということばは、聖書の他の箇所では「心配する」とか「思い煩(わずら)う」などと訳されます。

 もちろん、これは「イエスさまはだいじょうぶなのだろうか?」などと気づかうということではなく、イエスさまは私の思いをどのように受け止めておられるか、私の行動をどのように思っておられるのだろうと意識して歩むということでしょう。
 主のために、主から出たことに取り組んでいながらも、気がついてみたら肝心要のことをすっかり忘れてどこかに行ってしまった! などということが起こらないためにも…。

       

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