コリント人への手紙第一 10章14-33節
2013年9月もきょうで終わり。
今月は長かったような、短かったような…、いろいろなことがありました。
きのうの礼拝では、A先生が詩篇23篇から宣教してくださいました。暗唱している聖書のことばの奥深さに励まされ、羊飼いなる主をあがめました。自分の歩いた後に、主の祝福と恵みが置かれているのかとも問われました。
A先生とは、長い間お交わりをいただいております。良い時をありがとうございました。
きょうの箇所からは、31節の「何をするにも」ということばに目を留めました。
すべてのことをしてもよいという自由を、キリスト者は十字架のイエス・キリストゆえに賜りました。何をしてもよいのです。しかし、隣人の益と救いのためには、自由という権利を脇に置く自由も賜っているというのが、ここでパウロが語り、あかししていること。
人をつまずかせないようにとは、自分と「その人」の間の距離ばかりが気になることではありません。自由を賜ったお方との正しい結びつきがあってこそ、人をつまずかせないとの動機がクリアになるのだということではないのでしょうか。
主とのつながりがなければ、人をつまずかせないことが自分を縛ってしまいます。それは「ただ神の栄光を現す」こととはまったく違ったものに姿を変えてしまう…。
そのように思い巡らしていましたら、羊飼いなる主に飼われる羊であってほんとうによかったと、感謝が湧いてきました。
2013年9月もきょうで終わり。
今月は長かったような、短かったような…、いろいろなことがありました。
きのうの礼拝では、A先生が詩篇23篇から宣教してくださいました。暗唱している聖書のことばの奥深さに励まされ、羊飼いなる主をあがめました。自分の歩いた後に、主の祝福と恵みが置かれているのかとも問われました。
A先生とは、長い間お交わりをいただいております。良い時をありがとうございました。
きょうの箇所からは、31節の「何をするにも」ということばに目を留めました。
すべてのことをしてもよいという自由を、キリスト者は十字架のイエス・キリストゆえに賜りました。何をしてもよいのです。しかし、隣人の益と救いのためには、自由という権利を脇に置く自由も賜っているというのが、ここでパウロが語り、あかししていること。
人をつまずかせないようにとは、自分と「その人」の間の距離ばかりが気になることではありません。自由を賜ったお方との正しい結びつきがあってこそ、人をつまずかせないとの動機がクリアになるのだということではないのでしょうか。
主とのつながりがなければ、人をつまずかせないことが自分を縛ってしまいます。それは「ただ神の栄光を現す」こととはまったく違ったものに姿を変えてしまう…。
そのように思い巡らしていましたら、羊飼いなる主に飼われる羊であってほんとうによかったと、感謝が湧いてきました。