歴代誌第二 24章
8月もきょうが最後の日。西日本は猛暑、東日本は台風の襲来で大変だったことでしょう。こちらは陽射しは強いのですが、一足先に秋の空気を感じ取っています。
7歳で王になったヨアシュは、神がダビデの子孫にお与えになったともしびでした。祭司エホヤダの後見によって、ヨアシュ王は主の宮の修理を成し遂げました。ここまではよかったのです。
ところが、エホヤダの死後彼の態度は全く変わります。きっかけは17節。「…ユダのつかさたちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた」とあります。つかさたちが何をヨアシュに言ったのかは歴代誌からはわかりません。また、列王記第二12章にもヨアシュ王の治世のことが記されいるのですが、エホヤダの死後の表現ぶりについては触れられていないのです。
つかさたちが「伏し拝んだ」とあります。これが、ヨアシュの主への心を翻させるような契機となったのではないかと考えます。エホヤダが生きている間、ヨアシュは何をしても「エホヤダがいるので」と評価されていたのかもしれないと想像します。そんな時、自分を「伏し拝む」つかさたちの態度に舞い上がり、主に背いて偶像を拝みたいとの彼らの願いを受け入れてしまったのではないでしょうか。そしてこれは、「みことばの光」が解くように、強い指導力を持った人物の後に起こった反動なのかもしれません。
王を思い、国を思い、何よりも主のみこころを思ってしてくれた、大恩人の子祭司ゼカリヤの直言を受け入れずに殺してしまうなど、もってのほか。
ゼカリヤが死の間際に言った「主がご覧になり、言い開きを求められるように」ということばを心に留めます。これは、ヨアシュだけでなくすべての者が心すべきことです。
*フランクフルト大聖堂(ドーム)のオルガン