ネヘミヤ記 13章1−18節
紫陽花の花が美しい季節ですが、土曜と日曜の当地の予想気温はなんと36度。いわゆる屋根裏部屋のわが家は、この暑さを十分に味わえます。さて、どうなるでしょうか。
ネヘミヤ記の終章は、さまざまな問題の解決のために祈りをもって取り組むネヘミヤの姿が描かれています。1人称単数で「私は...」ということばで綴られていますので、彼の思いを想像しながら読むことができます。
12章は城壁の奉献式でしたが、おそらくこの章に書かれているのは、それから12年以上後のことだと考えられています。ネヘミヤはエルサレムに来て12年総督としての務めをした後で、ペルシアに戻っていたようです。再びエルサレムを訪ねると、そこでは神の民としてはあってはならないことが日常のこととして行われていました。
ここには三つの大きな課題というか、問題がありました。
一つは神の集会(礼拝)にいてはならないはずの異邦人がいたということです。それは4−5節の大祭司が異邦人と親しくし、優遇していたという背景があったからです。トビヤの部屋をネヘミヤはきよめました。
二つ目は、礼拝で大切な務めを行うレビ人が冷遇されてたということです。ネヘミヤはエルサレムから逃げ去っていたレビ人を戻し、彼らの生活が成り立つようにとささげ物をささげるように人々に命じました。
三つ目は、安息日の形骸化です。安息日を守ることは10章で民が「のろいの誓い」の一つとして約束したこと。しかし、それは形ばかりのものになっていました。17節に「ユダの有力者たち」とのことばがあります。おそらく彼らは、人々に安息日に働かせて大きな利益を得ていたのです。ネヘミヤは彼らを厳しく問い詰めています。
このように見ていくと、ネヘミヤの大胆さが印象に残りますが、本書にある折々の彼の祈りを読みますと、彼は元々勇敢でばりばりと難題に取り組んでいく力を持っていたのではなくて、弱い自分であることを自覚して、だからこそ神に祈りつつ進んでいたのではないかと思うのです。
弱さを自覚することは、祈りへとその人を追いやります。