みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

私を覚えて

2017年06月15日 | ネヘミヤ記

ネヘミヤ記 13章19−31節

 きのうは、1年前に神の許に召された方の墓地を尋ねました。どの墓も美しく花で飾られいつまでもそこに佇んでいたいほどの場所でした。当地に来て間もなくこの墓地の前を歩いてその方のオタクを尋ねたことを思い出しました。

 ネヘミヤ記はきょうで読了。毎度書きますが、「みことばの光」のサイクルでは五年間はここを読まないのはちょっと寂しいです。もちろん、いつでも読むことができるのですが…。

 先日、いつも一緒に「みことばの光」の編集打ち合わせをしている方が、「ネヘミヤは激しい人ですね」というようなことを言っておられました。きょうの箇所を読んでも、そのようなことを思わせることばが目につきます。

 神の前で誓約をしたにも関わらず外国の女をめとっているユダヤ人に、ネヘミヤは「彼らを詰問してのろい、…打ち、…毛を引き抜き…」などという仕打ちをするのです。何もここまでしなくとも、と思うような行動です。

 それとともに、このようなことをした後で、ネヘミヤが神に祈っているということに気づきます。それは彼が、自分の感情を爆発させて怒りに任せて行ったということではなくて、神にある確信をもって、やりにくいことをあえて行ったと考えられるのです。

 水曜日の祈祷会で、出席者の一人が13章14節にある祈りの一言に目を留めました。それは、「その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください」という祈りです。

 このような[愛のわざ」があるのです。

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大いにきげんを悪くし

2017年06月14日 | ネヘミヤ記

ネヘミヤ記 13章1−18節

 さわやかな気候の日々が続いています。それでも、最上階の住まいはどうしても気温が上がりますので、天窓を開けます。これを書いている間も、心地よい風が肌に触れてとてもよい気分です。

 きょうの箇所のネヘミヤは、よい気分などとは程遠いところにいたのだろうと想像してしまいます。城壁の奉献式後のエルサレムでの様子が、ここに描かれています。

 まず、彼らは律法を朗読して、アモン人とモアブ人を神の集会から取り分けました。その理由は、イスラエルが約束の地を目指していた頃に、迎えるどころか彼らをのろうためにバラムを雇ったからでした。ずいぶん昔の出来事を彼らは神のことばに発見して、その時にしていたことに反映させようとしました。

 次は、イスラエルの敵の一人、トビヤへの優遇を止めさせたことが記されています。この時のネヘミヤは、自分のことを「大いにきげんを悪くし、トビヤ家の器具類を全部、その部屋から外に投げ出し…」とあります。ネヘミヤは大胆なことを次々に断行してきたことが、これまでの箇所から知ることができます。それにしても、「大いにきげんを悪くし」(新共同訳聖書「非常に憤り」)ということばはずいぶん強い表現です。しかし、これは彼が自分の感情を爆発させて…ということではなくて、神を礼拝すべき所にふさわしくないことだとして、断行しなければとの意思の表れだったことでしょう。

 双方の出来事から思うのは、情に流されてなすべきことがゆがめられることが、日常の中にあるのではないか、ということです。自分が誰かのためにしているのが、神の愛に基づくものかそうでないのかを探られる出来事です。

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感謝の行進

2017年06月13日 | ネヘミヤ記

ネヘミヤ記 12章27−47節

 月曜日は120キロほど南に住んでいるご夫妻を訪ねました。お二人は、昨年の秋に日本から帰国してふるさとでの生活を始めました。ゆったりとした村で、家並みの裏の小山にはぶどう、とうもろこし、ジャガイモなどの畑、また、林檎や洋なし、サクランボや胡桃の木も植えられていました。鶏、やぎ、うさぎ、そして馬の小屋もあり、懐かしい田舎の匂いがしていました。どこか、長野県の高原、また北海道に来たような景色でした。

 この箇所には、城壁の奉献式の様子が描かれています。

 ネヘミヤは奉献式のために、特に神への感謝を歌うためにレビ人を近隣の村々から集めました。祭司とレビ人が揃い、身をきよめてまず行ったのは、完成した城壁の上を聖歌隊が二組に分れて行進するということでした。「聖歌隊」と訳されているのは、「感謝」という意味です。ですから、彼らは城壁を主への感謝を歌いつつ歩んだのです。

 この時、私ががエルサレムの城壁の内側にいたとしたら、感謝の行進が歌う賛美と感謝が右耳と左耳に聞こえ、それは場所によって遠くに、そしてやがて近くに聞こえるようになり、神殿の前で一つになって響き渡るだろうと想像できます。それぞれの組の「感謝の行進」の出発地点は、31−40節までを読むと、谷の門だったと考えられます。聖書地図、または本ブログ5月31日の記事内の地図でご確認ください。

 ここから思ったこと:私たちの毎日の生活が「感謝の行進」なのだということ。

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次のとおり

2017年06月12日 | ネヘミヤ記

ネヘミヤ記 12章1−26節

 土曜日のことでしたが、いつものウォーキングコースの一つの川の近くで歓声が聞こえます。何事かと行ってみましたら、若い人たちの家の数人が川に入っているのです。それほどきれいな川でないと思っていたのでちょっと驚きました。日本にいた時、夏休みに荒川の源流でキャンプをし、子どもたちといっしょに川遊びをしたことを思い出しました。川で遊ぶって、プールに行くのとは違った楽しみがありますね。

 12章27節以降の城壁の奉献式に先立って、この箇所では奉献式で奉仕する祭司、大祭司、レビ人の名前が記されます。祭司の家系に限ってみると、1—7節は大祭司ヨシュアの頃、つまり捕囚からの最初の帰還者の祭司の家系です。10—11節には大祭司の家系、その後、12−21節にヨシュアの後継の大祭司エホヤキムの頃の祭司の家系が記されています。

 「みことばの光」が書くように、歴代誌第一24章1—19節には、祭司たちが24組に分けられていたと記録されていますので、捕囚を経験してそれは22に、さらに21へと減ったようです。しかし、奉献式ではまさしくこれらの家系の祭司たちが務めを担ったと続くのです。

 私たちがキリストを信じる者として家系を問われるようなことはありません。どこの出であったとしても、私たちは一つにはイエス・キリストを信じることによって神の子どもとしての立場をいただいているということは驚くようなこと。そして、使徒ペテロが次のように書いていることを確かめて、さらに驚きます。

 「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」ペテロの手紙第一 2章9節

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罪の告白と盟約

2017年06月10日 | ネヘミヤ記

ネヘミヤ記 10章

 月一度の子ども集会の帰り道、黒雲が空を覆い稲光も…。自動車を止め家に入った直後に激しい雨が降ってきました。私たちはちょうどのタイミングでずぶ濡れになりませんでしたが、きっと直撃された人もおられたことでしょう。子ども集会の工作の時間では、折り紙で紫陽花やカタツムリを作りました。当地でも紫陽花はたくさん植えられています。

 罪の告白、悔い改めに続いて、イスラエル人は「神の律法に従って歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めとおきてを守り行うための、のろいと誓いに加わった」と29節にあり、盟約に署名した人々の名前が1ー27節までに載っています。

 そして、盟約の内容が30—39節に記されています。きょうの「みことばの光」に7つがまとめられているのですが、この七つは具体的であり、生活、人生に密着したものであることがわかります。神のことば、律法に中心として生きていくのだと彼らは互いの間で誓ったのです。

 ここを読んで、神の前に罪を告白して悔い改めるということと、彼らが結んだ盟約にはつながりがある、つまり、罪の告白、悔い改めの証しとして盟約だということに意義があるということを覚えました。もしも、前者がなければ、ここで結んだ盟約は後にイエスが「わざわいなるかな」と嘆き怒った律法主義へとすり替わっていったのではないかと、考えます。

 キリストを信じる者が神に従って歩むということにおいても、罪の告白と悔い改めと切り離しては考えられません。神の恵みとあわれみとに応えて生きるのですから。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki