みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

祈りへと追いやられて…

2022年06月18日 | ネヘミヤ記

ネヘミヤ記 13章1−18節

 紫陽花の花が美しい季節ですが、土曜と日曜の当地の予想気温はなんと36度。いわゆる屋根裏部屋のわが家は、この暑さを十分に味わえます。さて、どうなるでしょうか。 

 ネヘミヤ記の終章は、さまざまな問題の解決のために祈りをもって取り組むネヘミヤの姿が描かれています。1人称単数で「私は...」ということばで綴られていますので、彼の思いを想像しながら読むことができます。 

 12章は城壁の奉献式でしたが、おそらくこの章に書かれているのは、それから12年以上後のことだと考えられています。ネヘミヤはエルサレムに来て12年総督としての務めをした後で、ペルシアに戻っていたようです。再びエルサレムを訪ねると、そこでは神の民としてはあってはならないことが日常のこととして行われていました。 

 ここには三つの大きな課題というか、問題がありました。

 一つは神の集会(礼拝)にいてはならないはずの異邦人がいたということです。それは4−5節の大祭司が異邦人と親しくし、優遇していたという背景があったからです。トビヤの部屋をネヘミヤはきよめました。 

 二つ目は、礼拝で大切な務めを行うレビ人が冷遇されてたということです。ネヘミヤはエルサレムから逃げ去っていたレビ人を戻し、彼らの生活が成り立つようにとささげ物をささげるように人々に命じました。

 三つ目は、安息日の形骸化です。安息日を守ることは10章で民が「のろいの誓い」の一つとして約束したこと。しかし、それは形ばかりのものになっていました。17節に「ユダの有力者たち」とのことばがあります。おそらく彼らは、人々に安息日に働かせて大きな利益を得ていたのです。ネヘミヤは彼らを厳しく問い詰めています。

 このように見ていくと、ネヘミヤの大胆さが印象に残りますが、本書にある折々の彼の祈りを読みますと、彼は元々勇敢でばりばりと難題に取り組んでいく力を持っていたのではなくて、弱い自分であることを自覚して、だからこそ神に祈りつつ進んでいたのではないかと思うのです。

 弱さを自覚することは、祈りへとその人を追いやります。


神が喜ばせてくださったから

2022年06月17日 | ネヘミヤ記

ネヘミヤ記 12章27−47節

 昨日は、私たちが当地に来て満7年経った記念の日でした。到着した日に、美味しい白アスパラガスをいただいたことなどが昨日のように思い出されます。

 12章後半は、完成した城壁の奉献式の様子。

 奉献式に欠かせないのは歌と賛美。このためにはレビ人がいなければなりません。このために彼らは、エルサレムの周辺から、奏者として歌い手として集められてきました。次はきよめです。城壁奉献式にかかわるすべてのものがきよめられます。ここには書かれていませんが、身や衣服を洗い、罪のきよめのためのささげ物を献げ、断食が行われたと考えられます。

 きよめるとは、分離される、分けられるという意味です。それは一般の用から分けられて、神のためにのみ用いられるということなのです。完成した城壁のおそらく谷の門が二つの組の行進の出発点でした。右の方、糞の門方向に出発した行進は糞の門から町の東側を北上して水の門、それから神の宮に…。左の方、エフライムの門、エシャナの門と城壁の西側を北上して羊の門へ、そして神の宮へと進みました。

 私がダビデの町にいたとしたら、両側から大きな賛美の行列が宮の方向に向かって進む音を聞いたことでしょう。

 43節の「神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである」ということばに目が留まりました。この節には「喜ぶ」ということばが4つ用いられています。喜ぶことは私たちの願うところ。その源が「神が…大いに喜ばせてくださった」ところにあるのだと気づきます。

 さらにここには、「女も子どもも喜んだので」ということばにもあります。一部の人だけでなく、男だけでなく、みんなが喜ぶ、奉献式はこのような日だったのです。私たちの礼拝も、こうありたいです。


受け継がれる礼拝

2022年06月16日 | ネヘミヤ記

ネヘミヤ記 12章1−26節

 水曜日のオンラインでの祈祷会で、11章を一緒に読みました。ネヘミヤ記中の人名が並ぶ読みにくい箇所です。どなたかが「黙読していると全く頭に入ってこない」と言っていましたが、そのとおり。けれども、何人かで読むといろいろなことを分かち合うことができました。「系図、読めそう」という気持になったようです。

 ここにも人名が並びます。祭司やレビ人のリストです。この章の27節以降には城壁の奉献式のことが書かれていますので、ここでは、奉献式で大切な役割を果たす祭司やレビ人が、レビ部族の家系だということを明らかにしているのです。

 ややこしいのは、1−9節はネヘミヤの時代の人名リストではなくて、最初に捕囚から帰還した時の祭司、レビ人のリストだということです。つまり、ネヘミヤの時代から100年近く前の祭司、レビ人の名が書かれています。

 そして、10−11節には、捕囚から帰還した時の大祭司ヨシュア以降の祭司22名の名前が記されます。さらに、12−21節には帰還時の大祭司ヨシュアの子、大祭司エホヤキムの時代の祭司の名前があるのです。ちょっと細かなことになりますが、1−7節と12−21節の人名を並べますと、一人を除いて名前が符合します。

 捕囚から帰還した人々の務めは、再建でした。神殿の再建、城壁の再建、そして礼拝の再建。そこにだれが携わるかは、形が整うことよりはるかに大切なこと。祭司の家系が保たれていたのは、神への礼拝を中心とする生活の大切さを伝えています。

 教会のさまざまな役割を担う人々に、神の祝福を祈ります。


くじを引いて

2022年06月15日 | ネヘミヤ記

ネヘミヤ記 11章

 昨日、この日に天に召された方の墓参をしました。いつ伺っても素敵な場所です。

 11章はエルサレムに住んだ人々のリストを記録しています。どのような人がエルサレムに住むのかは、1節にあります。まず、人々の指導者たちはこの町に住みます。それ以外の人々は10人に一人が住むのですが、それはくじによって選ばれます。

 くじを引いた結果は、「当たり」と「外れ」です。この場合、エルサレムに住むというくじを引いた10人のうちの一人にとって、それは当たりだったのだろうか、それとも外れだったのだろうかと考えてみました。

 ネヘミヤ記の流れを考えてみますと、まず、エルサレムの城壁が修復されたことを書いています。しかし、脅しや蔑み、さらには指導者ネヘミヤへの罠など、初めから数多くの妨害にさらされました。そのようななかでも、神によって支えられ城壁は完成しました。

 だからといって、周辺の人々の圧力が消えてしまったわけではないのです。エルサレムはより大きな緊張の中にあったとも言えます。ですから、人々がこの町に住むためにはよほどの覚悟が必要でした。「エルサレムに住む」というくじを引いた人は、相応のリスクを覚悟しなければなりません。

 2節に「民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな祝福した」とあります。これは、くじに当たって良かったね、ということではなくて、エルサレムに住むのはいろいろと大変なことが予想される、だからこそ、神が祝福してくださるようにという意味ではなかったかと考えます。

 「貧乏くじ」ということばがあります。引いてならないくじを引いてしまったという意味で用いられます。くじを引いて何を引いたとしても、そこに見えない神の御手、働きを認めることができたならば、それは「当たりくじ」なのではないだろうか…。


決意の盟約

2022年06月14日 | ネヘミヤ記

ネヘミヤ記 9章38節―10章39節

 日曜日の礼拝に、当地で音楽をさらに学びたいという方が来られました。初めての海外旅行とのこと。滞在中、神が良い出会いを与えてくださるようにと祈っています。

 神への賛美と罪の告白は、人々の具体的な行動につながりました。9章38節に、「私たちは文書を持って盟約を結んだ」とあります。その後に、盟約に印を押した人々の名が連なります。

 歴史的な悔い改めの後、彼らは神の律法に歩むとの盟約を結びました。10章29節の「のろいの誓い」ということばに目が留まります。この盟約を破った者は罰を受けるということを誓ったという意味です。この盟約への人々の決意を語る思いことばです。

 この箇所から、私たちの歩みについて考えることができます。キリスト者は日曜日に一緒に礼拝します。礼拝は神のことばが読まれ、解き明かされ、理解される場です。そして神をほめたたえ、自分たちの罪を悔い改める場です。けれども、それで終わりではありません。神への賛美と罪の悔い改めは、実際の行動への促しへと通じます。

 ここでの盟約は、礼拝から始まるキリスト者の一週間の歩みへの心備えだと考えることができます。神のことばによって歩みます。具体的には、自分たちの信仰を守るということです。それは結婚や家庭での生活に及びます。安息日(教会にとっては主の復活の日)を聖なる日とし、献金をします…と書くと、規則のオンパレードのように受け取られるかもしれませんが、それらはすべて、神への賛美、感謝から出るものです。

 「この世と調子を合わせてはいけません」との姿勢は神へのあるべき礼拝から始まると書く、ローマ人への手紙12章1−2節を思います。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki