みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

私の主人

2015年05月30日 | 列王記第一

列王記第一 18章1−24節

 鹿児島の口永良部島の新岳が噴火した様子が映されていました。大地は、すさまじい力を内に秘めているのですね。近くで目撃した方々はどんなに恐ろしかったことでしょう。ともかく、島に住んでいる方々が全員無事に避難したとの報道に安堵しています。

 預言者エリヤとアハブとの対決、というようにみえるきょうの箇所。けれども、「みことばの光」が書くように、エリヤがアハブの先にある真の敵を見据えていることに気づかされます。

 「エリヤ物語」を読んで思うのは、エリヤとアハブとの関係の不思議さ。きょうの箇所でも、エリヤに会ったアハブは「イスラエルを煩わすもの」と言うのですが、その次にはエリヤの指示の通りに行動するのです(20節)。アハブはエリヤに何を見ていたのでしょうか。

 「私の主人」ということばにも目が留まります。アハブの臣下オバデヤは、アハブだけでなくエリヤをも「私の主人」と呼びます。自分の立場ゆえにアハブを「私の主人」を呼びながらも、敢然と悪王に立ち向かうエリヤを「私の主人」と呼ぶオバデヤを、「二心の人」としてしまうのはかんたんです。けれども、アハブ王の妻イゼベルの手からひそかに主の預言者100人をかくまって養う彼の姿に、ぎりぎりのところで心傷めつつ主に仕える信仰者を見ます。

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かめの粉は尽きず

2015年05月29日 | 列王記第一

列王記第一 17章

 

 「みことばの光」を発行している聖書同盟が60周年を迎えたというので、記念誌を発行することになり、きのうは打ち合わせをしました。折しも、シンガポールの聖書同盟も昨年が60周年。たいそう立派な、そしてビジュアルな記念誌ができていました。何も対抗することはないのですが、できる限り努めて、皆さんに読んでいただけるような記念誌ができ上がればと、よい刺激となりました。

 「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」は私を何度も励まし支えたみことば。「だいじょうぶなのか」と不安がよぎるときには、この列王記第一17章を読みました。

 エリヤはここで預言者として、神のことばを信じ、神のことばに従う訓練を受けます。そして、このエリヤの訓練に死を考えていたやもめが加わるのです(「巻き込まれる」というべきでしょうか)。神のことばは生きていて力があると人々に伝えながら、語る本人がそれを信じていないのでは届きません。

 自分の手で働いて手に入れたモノに囲まれて生活していると、神が私を養っておられるという事実を受け入れにくくなります。けれども、窮乏していても満たされていると思っていても、実は自分のいのちは神によって保たれ生かされているのです。

 確かに、「信仰者として、神の計画のダイナミックさを味わう経験をしないで人生を終えるのはもったいない」と思います。

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だれよりも…悪を

2015年05月28日 | 列王記第一

列王記第一16章21−34節

 きのうは、3期12年にわたってニューヨーク近郊の日本人教会の牧師として働いておられる立石尚志先生がおいでになりました。今年は「報告年」。5月から半年間、およそ100ぐらいの教会を訪ねて、宣教報告をするのだそうです。「山あり谷あり」とはよく言ったものですが、いろいろなことが起こるのですね。しかし、福音を宣教し教会を建て上げる働きは、主なる神がいつもおられるゆえにくじけてしまうことがないのだと、先生のお話を伺っておぼえました。

 北王国イスラエルの王位は、オムリからその子アハズへと受け継がれます。新都サマリヤを建設したオムリについて、列王記の作者は「…主の目の前に悪を行い、彼以前のだれよりも悪いことをした」と書き、サマリヤにバアルの宮を建てたオムリの子アハズについても、「…彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行った」と書いています。どこまで神から心が離れてしまうのだろう、人はどこまで悪におぼれてしまうのだろうかと考えさせることばです。

 私は温泉地で生まれ小さな頃から熱いお風呂に親しんできました。最初は「アチッ!」ととても入れないと思うような温泉にでも、やがて体が慣れてはいれるようになります。(決してまねをしないでください)

 罪についても、「これ以上進んだらあぶない」という自覚を持つうちに引き返せるならばよいのですが、慣れてしまったらどんどん突き進んでしまうのではないでしょうか。何が、罪への深みへの爆走を食い止めるのだろうか、と思い巡らす個所です。

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次々と

2015年05月27日 | 列王記第一

列王記第一 16章1−20節

 気温30度超えがきょうも続くそうです。でも、じわっとした暑さではないので日陰や通り抜ける風でほっとしますね。果物売り場にはメロンやスイカが並び始めました。

 生鮮食品を買う場合には、新しい(と思える)ものを選ぼうとします。次々に補充されて新鮮なものが並ぶお店が繁盛することでしょう。でも、きょうの箇所にあるように、この時の北王国イスラエルは困りものです。次々に王が取って代わります。もっとも、バシャは24年、オムリは12年間王であったわけですから、それほど短命だということではありませんね。

 きのうも書きましたが、彼らは野心を抱いて謀反を企てて王位に就きます。しかし、聖書は彼らがやがて退けられる理由は一つ。神に対するそむきの罪だと述べるのです。政治的な手腕、人心を掌握する力などには触れずに、神に対してどのような態度を取っていたかが基準なのです。

 あの人がどう思っているか、この人は何を考えているのかということが心を占めるようになると、いつの間にか神から心が離れます。そんな落とし穴があることを、考えさせれれる箇所です。

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ヤロブアムの道に歩んでしまった

2015年05月26日 | 列王記第一

列王記第一 15章25−34節

 

 きのうは、世田谷から五反田、東京駅、上野と久しぶりに都内を歩き回りました。世田谷区役所から五反田駅前までのバスの中で、ウトウトとまどろむのは何ともいえず良い気持ち。元気が出てきたので、東京駅から上野駅まで歩きました。日本橋、神田、秋葉原、上野広小路とたどりましたが、秋葉原の変容にはびっくりです。かつて、パソコンのパーツを探しに歩いた町とは思えませんでした。写真は、世田谷区役所での一コマです。

 きょうの箇所には、ヤロブアム後の北王国イスラエルの王たちが描かれています。ヤロブアムのすぐ後の王は息子ナダブでしたが、彼は謀反によってバシャに打ち取られてしまいます。息子が父の道を歩むのはあることだろうと思いますが、ヤロブアム一族を一掃したバシャにしてみたら、ヤロブアムの道を歩まないという姿勢こそ、王として民にアピールする最善の時ではなかっただろうか…。

 ところが、バシャもまたヤロブアムの道に歩んでしまいます。「みことばの光」が書くように、バシャはただ権力をその手に握りたかったから…というのが理由なのかもしれません。

 前を歩む人の姿を見て、「あの人のようには生きない」と思いながら、結果として同じ過ちに陥るということがあります。「反面教師」として学ぶべきが、気がついてみたら同じことをしているのです。「自己のために」ということである限り、このような循環は終りません。

 

 

 

 

 

 

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