みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

あわれみを忘れないで

2018年12月22日 | ハバクク書

ハバクク書 3章

 3章はハバククの祈りとあります。神からの確かな約束と、必ず起こるというさばきのメッセージを聞いたからは、お語りになった神に祈るのです。そしてその祈りは神への賛美へと高揚していくことが本章を読み進めていく中で伝わってきます。

 神のことばをいただき、それに応答して祈り神をたたえる、さらに神のことばをいただき、応答して祈るという繰り返しの営みの大切さを覚えます。ハバククは、神がご自分の民を激しく怒っておられさばきを下そうとしているのを受け止めます。それとともに、「あわれみを忘れないでください」とも願っています。

 祭司は民のために神にとりなす者、預言者は神のことばを民に告げる者だと言われます。しかし、ここでのハバククは民のためにとりなすのです。語れとして神がお与えになったことばを、ハバククはそのまま人に告げます。しかし、そのように告げるハバククは神のさばきにあう人々の間に住む者でもあるのです。それは、やはりユダ末期に預言者として立ったエレミヤの姿に通じるように思えます。

 17節と18節の情景のあまりの違いに驚きます。17節は神のさばきによって地も産み出すべきものを絶やしてしまうという荒涼とした景色を描きます。「しかし」とハバククは続けます。神をたたえ、神にあって喜ぶのだというのです。彼は、さばきの先にある確かな希望に目を留めています。

 表層に起こることに一喜一憂するのではなく、いつも、神のことばをいただき応答するという営みを忘れてはならないと心に刻みます。


結末に目を留める

2018年12月21日 | ハバクク書

ハバクク書 2章

 いつも行くスーパーの入口に、24日は朝7時から午後1時まで営業、31日は朝7時から午後2時まで営業という案内が掲示されていました。23日の日曜日は休み、25日と26日はクリスマス休み、30日も日曜日で休みですから、うっかりすると買い物ができないということが起こりそうです。

 ハバクク書2章には、聖書全体を貫くみことばが置かれています。4節の「…正しい人はその信仰によって生きる」です。この章の初めに、ハバククは神がお選びになったユダが異邦のバビロンによって滅ぼされるという主のことばに納得がいかずに、主が私に何を語られるかをしかと見ようと目を光らせています。

 そんなハバククにお語りになったのが2-4節のことばです。主のことばはすぐに伝えられるべきものであり、偽りではなく、必ず来るというメッセージが届けられます。そして、ユダを滅ぼすバビロンがうぬぼれのゆえに滅ぼされるが、正しい者はその信仰によって生きるという、人間の有り様にとってなくてならない大切なことばが伝えられるのです。

 うぬぼれと信仰は相容れることがないとわかります。5節から終わりまでは、「わざわいだ」ということばによって高ぶるバビロンへの5つの災難が語られます。ハバククはこのことばを、どのような思いで主から受け、語ったのでしょうか。3節の「偽ってはいない」「必ず来る」ということばを信じて、彼の口から主のことばが人々に届けられたのです。

 周りにある出来事や現象に振り回されて、神が備えておられる結末に目を留めようとするのが難しいときがあるのと振り返るとともに、だからこそ「信仰によって生きる」のだとの思いを新たにします。


問いかける預言者

2018年12月20日 | ハバクク書

ハバクク書 1章

 この時期、花屋さんの店先には白い花が並びます。ヘレボルスという花ですが、プレートにはChristrose(キリストローズ)と書かれていました。この花については、クリスマスにまつわる次のような話があります。

 キリスト誕生の日、一人の羊飼いの少女がイエスの母マリアを訪ねました。何か贈り物を…と探しましたが、季節は冬。一輪の花さえ見つけることができずに涙を流しました。すると、少女の涙は種となり、種から芽が出て薔薇のように美しい純白の花を咲かせ始めました。

 きょうから三日間、「みことばの光」ではハバクク書を読みます。

 預言者は、神のことばを預かって人々に届けるという務めをします。けれども、そこには預言者としての葛藤が伴います。ハバククは恐らく南王国ユダがバビロンによって攻め込まれ崩壊するような時に登場した、激動の時代の預言者だと考えられています(詳しくは今月号の「みことばの光」46頁「ハバクク書を読む前に」をお読みください)。

 しかし彼は、神のことばを何の迷いもなく民に届けたのではありません。ハバクク書は、ハバククと神との対話、いやハバククが神に問いかけ、食い下がっているのに特徴があります。1章には、「いつまでですか、主よ」、「なぜ、あなたは…」、「なぜ…黙っておられるのですか」との訴えが連なっています。義人ヨブや預言者ヨナに通じるものがあると思います。

 彼は、神が自分の訴えを聞き、答えてくださると確信しているので問いかけます、食い下がります。そして事実、神は彼の訴えにお答えになるのです。そして、このやりとりを私たちにも促しているのではないでしょうか。


静かに待とう

2013年12月21日 | ハバクク書
ハバクク書3章


 美しい空に足を止め、見入ってしまいました。朝早く歩く者に、神さまがごほうびを賜ったという思いのする朝でした。
 いつものコースに病院があります。少し前から休業していましたが、今は建物の解体工事がされています。30年近く前、新聞配達をしていて転倒。ひざのいわゆる「お皿」を割ってしまい、この病院で手術を受け1ヶ月ほど入院していました。その頃は「盛況」で、病室にはいろいろな仲間がいました。「パイロット」(聖書同盟で発行していた小学生のための聖書日課)の版下を、病室で作っていたのも懐かしい思い出です。食事がおいしかったということも覚えています。

 3章はハバククの祈りです。
 二人称と三人称とが交互にある章で、「あなたは…」と主に祈る祈りのことばと、「神は…」と神について思い巡らすことばとが混じっています。
 「いつまで黙っておられるのですか」とのハバククの祈りに主は、「それを待て。…必ず来る。遅れることはない」とお答えになりました。それを受けてハバククは、神の偉大さ、さばきの恐ろしさを覚えながら、神の答えを待とうとして祈るのです。

 心に留めたのは「私は静かに待とう」との16節のことば。
 「みことばの光」が解くように、「私たちを攻める民」とはバビロン(カルデヤ人)のこと。彼らは神の懲らしめをユダに与える器として用いられるのですが、高慢ゆえに、バビロンにも「悩みの日」が襲いかかるのです。ハバククはその日が来るのを静かに待とうと心を定めました。

 神の時を待つのは、信仰者にとっては大切な訓練だと思いました。すぐに答えを見たい、結果を知りたいとはやる心を鎮め、自分の時ではなくて神の時を待つことをいつもいつも、学ばされます。
      


信仰によって生きる

2013年12月20日 | ハバクク書
ハバクク書2章


 ハバククは、神が自分の訴えにどのように答えられるのかをじっと待っていました。1節を読むと、ハバククは神が必ず答えてくださると信じていたということに気づかされます。

 三年日記をつけてしばらくになります。日記といっても早朝の祈祷会、水曜日の祈祷会で出された祈りの課題を書き留めるのが主ですが、それでも去年はどんなことを祈っていたかということを思い起せます。見ると昨年の今頃、三人の方が洗礼を受けるため準備し、それぞれが心の葛藤を味わっていたということがわかります。その三人は無事クリスマスに洗礼を受け、今に至っています。祈りは答えられたのです。
 
 主はハバククに答えられました。
 「…もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」と。
 祈りは必ず聞かれる、ただしそれは私たちが願っているように、また願っているときにではないということが、しばしば私たちを悩ませるのですが…。自分の思い通りに物事が動かないからといって、「どうせ祈っても聞かれない」などと早合点してはいけないのです。

 力を持つと思い上がり、うぬぼれやすいのが私たち。自分には何でもできると錯覚し、神に頼るなど弱い者がすることだとうそぶきます。しかし、私たちは弱くもろいのです。辞任表明をした知事さんが「やや傲慢になっていたと反省している」と会見で述べていた一言が本当の思いならば、今回のことはその方にとって意味のある出来事だと思えました。

 けさは、4節のことばを何度か音読しました。
    


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