みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

静かに待とう

2013年12月21日 | ハバクク書
ハバクク書3章


 美しい空に足を止め、見入ってしまいました。朝早く歩く者に、神さまがごほうびを賜ったという思いのする朝でした。
 いつものコースに病院があります。少し前から休業していましたが、今は建物の解体工事がされています。30年近く前、新聞配達をしていて転倒。ひざのいわゆる「お皿」を割ってしまい、この病院で手術を受け1ヶ月ほど入院していました。その頃は「盛況」で、病室にはいろいろな仲間がいました。「パイロット」(聖書同盟で発行していた小学生のための聖書日課)の版下を、病室で作っていたのも懐かしい思い出です。食事がおいしかったということも覚えています。

 3章はハバククの祈りです。
 二人称と三人称とが交互にある章で、「あなたは…」と主に祈る祈りのことばと、「神は…」と神について思い巡らすことばとが混じっています。
 「いつまで黙っておられるのですか」とのハバククの祈りに主は、「それを待て。…必ず来る。遅れることはない」とお答えになりました。それを受けてハバククは、神の偉大さ、さばきの恐ろしさを覚えながら、神の答えを待とうとして祈るのです。

 心に留めたのは「私は静かに待とう」との16節のことば。
 「みことばの光」が解くように、「私たちを攻める民」とはバビロン(カルデヤ人)のこと。彼らは神の懲らしめをユダに与える器として用いられるのですが、高慢ゆえに、バビロンにも「悩みの日」が襲いかかるのです。ハバククはその日が来るのを静かに待とうと心を定めました。

 神の時を待つのは、信仰者にとっては大切な訓練だと思いました。すぐに答えを見たい、結果を知りたいとはやる心を鎮め、自分の時ではなくて神の時を待つことをいつもいつも、学ばされます。
      

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信仰によって生きる

2013年12月20日 | ハバクク書
ハバクク書2章


 ハバククは、神が自分の訴えにどのように答えられるのかをじっと待っていました。1節を読むと、ハバククは神が必ず答えてくださると信じていたということに気づかされます。

 三年日記をつけてしばらくになります。日記といっても早朝の祈祷会、水曜日の祈祷会で出された祈りの課題を書き留めるのが主ですが、それでも去年はどんなことを祈っていたかということを思い起せます。見ると昨年の今頃、三人の方が洗礼を受けるため準備し、それぞれが心の葛藤を味わっていたということがわかります。その三人は無事クリスマスに洗礼を受け、今に至っています。祈りは答えられたのです。
 
 主はハバククに答えられました。
 「…もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」と。
 祈りは必ず聞かれる、ただしそれは私たちが願っているように、また願っているときにではないということが、しばしば私たちを悩ませるのですが…。自分の思い通りに物事が動かないからといって、「どうせ祈っても聞かれない」などと早合点してはいけないのです。

 力を持つと思い上がり、うぬぼれやすいのが私たち。自分には何でもできると錯覚し、神に頼るなど弱い者がすることだとうそぶきます。しかし、私たちは弱くもろいのです。辞任表明をした知事さんが「やや傲慢になっていたと反省している」と会見で述べていた一言が本当の思いならば、今回のことはその方にとって意味のある出来事だと思えました。

 けさは、4節のことばを何度か音読しました。
    

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なぜ

2013年12月19日 | ハバクク書
ハバクク書1章


 通っている教会では、水曜日の午前と夜に祈祷会をしています。午前の祈祷会ではここのところずっと「聖書を読む会」が発行している手引きを用いて聖書を読んでいます。「イエスに会った人々」のほとんど終わりの部分まで読み進め、昨日はトマスについて読みました。

 復活された日曜日の夕方、イエスは恐れている弟子たちのところに現れてくださいました。ところが、トマスはそこにいなかった…、という出来事をいっしょに読みました(ヨハネ20章)。
 何人かでみことばに立ち止まり続けることで、新しい発見があります。対話の仕方も学べます。特に、私にとっては「語らない」「教えない」「でしゃばらない」という訓練を受けているような、大変よい時間です。

 物事をひとりで考えて答えを出し、納得できたらよいのですが、そうとばかりは行かないということが度々起こります。ハバククは、神はなぜ悪の横行を見過ごし、沈黙しておられるのかとの疑問を抱きました。教えられるのは、彼は自分の中で悶々と考えて結論を出そうとしたのではなくて、神に訴えたということです。

 けれども、神の答えを聞いてさらに、ハバククの心には疑念が湧きました。
 なぜ、神は異教の民であるカルデヤ人を主の民を懲らしめる器として用いるのだろうか、という疑念でした。ハバククは、ここでも神に自分の思いをぶつけます。

 神との対話を続けるというのは、どんなに自分の目で見て、耳で聞いて納得がいかないことが周りに起こっても、この世界は神のご支配のうちにあると信じているからです。しかも、神は愛に基づいてこの世界を治めておられると信じることができるからこそ、神との対話を続けるのだと思います。
 あきらめないで、信じて…。
    

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